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 2019/10/03

「朝倉宗滴」当主の座に就く野心もあった?軍事面の柱として越前朝倉氏を支え続け、家中の重鎮として君臨。

朝倉宗滴のイラスト

越前朝倉氏の中でも戦上手として世に知られているのが、「朝倉宗滴」です。

同名衆の筆頭として11代目当主朝倉義景に最も頼られた人物で、越前朝倉氏の軍事面の柱石を担っていました。しかし、この宗滴には越前朝倉氏当主となる野心もあったと考えられています。

今回は朝倉宗滴とはどのような人物であったのかについてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

宗滴が朝倉本家の家督を継ぐはずだった?

朝倉孝景(英林)の末子として誕生

宗滴の父親は、越前朝倉氏7代目当主で、越前国主初代・朝倉孝景(英林孝景)です。宗滴はその八男として、文明9(1477)年に誕生しました。

母親は後室の桂室永昌です。正式には朝倉小太郎教景(太郎左衛門尉)といいます。ただし代々の当主が"教景"を名乗っており、判別がつきにくいので法名の宗滴で呼ばれるのが一般的です(今回も宗滴で統一します)。

教景の名は、5代目当主である朝倉教景が、功績によって室町幕府将軍・足利義教から偏諱を賜った由緒ある名であり、ややこしいのですが6代目の朝倉家景も7代目の英林孝景も一時期は教景と名乗っています。

その点から考慮すると、八男ではありながらも宗滴は嫡男として扱われていたのではないでしょうか。孝景は侵攻してくる斯波氏や甲斐氏といった旧勢力を一掃した後、宗滴に家督を譲るはずだったのかもしれません。

宗滴の略系図(※横スクロール可)

家督を継いだのは兄の朝倉氏景

しかし、孝景は斯波勢との対立中の文明13(1481)年に病没してしまいます。

斯波勢は勢いがあり、この危機的状況で4歳になったばかりの宗滴に当主は務まりません。家督は兄の朝倉孫次郎氏景が継いでいます。

氏景は一族の力を結集して斯波勢を加賀国に追い返すことに成功しました。ここで活躍したのが、孝景の弟で敦賀郡司を務めていた朝倉景冬です。孝景に負けず劣らずの戦巧者として応仁の乱でも活躍しています。

宗滴はこの景冬の娘を正室に迎えました。おそらくここで景冬から合戦について多くのことを学んだのではないでしょうか。

景冬は6代目当主朝倉家景の子であり、宗滴自らも7代目当主孝景の子です。しかも教景を名乗っていたほどですから、自分が氏景の後を継いで9代目当主になっても不思議はないと考えていたはずです。

氏景は文明18(1486)年に病没し、家督を継いだのはまだ13歳の子、朝倉孫次郎貞景でした。宗滴が家督争いに介入していくにはまたとない好機だったといえます。

実際にこの時期の越前国は安定しておらず、勝手な行動をとる家臣もいたようです。宗滴が積極的に反抗を示したわけではありませんが、当主の座を虎視眈々と狙っていたのかもしれません。宗滴が行動に移すのは文亀元(1503)年のことでした。

宗滴の転機となった敦賀の乱

敦賀郡司の謀反

このとき敦賀郡司を務めていたのは景冬の子である朝倉景豊です。その妹を正室に迎えていますので、宗滴は義理の兄弟という間柄です。

景豊は正室に朝倉景総(元景)の娘を迎えていました。景総は宗滴と同じ孝景の子で四男ですが、問題を起こして出奔し、京都で管領・細川政元に仕えています。

景総は景豊と結託し、貞景に対し謀反を起こすことを画策しました。景豊の姉妹は、宗滴をはじめ朝倉氏一門に嫁いでいましたので、その協力を仰ぐことができれば謀反は成功するという計算だったようです。

これが文亀元(1503)年の「敦賀の乱」です。景総の軍勢は京都を出て、越前国で景豊の軍勢と合流するはずでしたが、宗滴はこの謀反に加担することをやめ、貞景に密告しました。貞景はすぐに軍勢を派遣して景総の軍勢が到着する前に敦賀城を包囲し、諦めた景豊は自害します。

もし宗滴がこの反乱に加担していたら、貞景は滅ぼされていたかもしれませんし、宗滴が当主になっていた可能性もあります。しかし実権は景総や景豊に握られていたでしょうから、当主になったとはいえ傀儡政権だったのではないでしょうか。それを見越して宗滴は加担することを拒否した可能性もあります。

恩賞として敦賀郡司に任じられる

景豊の謀反を事前に察知し、その計画を取り潰すことができたことによって、宗滴は返り忠の功で恩賞として敦賀郡司を与えられ、金ケ崎城城主となりました。

越前朝倉氏の当主が10代目朝倉孫次郎孝景となっても、宗滴は引き続き敦賀郡司を務めています。どうやら享禄3(1530)年になってから養子である朝倉景紀に譲渡したようです。

軍事面でカリスマ的存在だった?

敦賀郡司を景紀に譲ってからは、宗滴は軍奉行として朝倉勢の軍事を担っていきます。

記録によると宗滴の出陣は初陣となる18歳から79歳まで12回あり、越前国内にとどまらず、若狭国、丹波国、加賀国、近江国、美濃国、京都と他国にも出陣しており、その都度活躍して宗滴の名を広く知らしめました。

『賀越闘諍記』には宗滴のことを「智謀無双」「智仁勇の三徳を備えている」と絶賛していますし、『羽賀寺年中行事』では、「宗滴のことを万人が賞賛した」と記されているように、カリスマ的存在として、越前朝倉氏を支えていくのです。

加賀国の一向一揆との戦い

管領の細川政元と対立した越前朝倉氏は、政元と手を結んだ本願寺とも敵対することになり、一向一揆と何度も戦っています。

享禄4(1531)年には、加賀国で大小一揆が発生し、能登国の畠山氏と共同して小一揆に加担することになりますが、手取川まで進んだところで畠山氏が壊滅し、宗滴は撤退を余儀なくされました。数少ない宗滴の敗北の記録です。

金沢城跡の写真
金沢城にはかつて加賀一向一揆の本拠「尾山御坊」があった。

こういった経緯もあって、宗滴の加賀国の一向一揆に対する敵愾心は強かったようです。弘治元(1555)年には11代目当主である朝倉孫次郎義景の命令によって、加賀国の一向一揆制圧に出陣しています。

7月には1日で3城を攻略するという快進撃を見せましたが、8月になると宗滴が病に倒れて一条谷に戻され、9月に病没しています。79歳まで陣中指揮を執っていたということに驚きです。

宗滴の教えとは

宗滴は自ら学んだことを後世に書き残しており、合戦の心得や調略の重要性などを説いています。

有名なのは「武者というものは、犬とも畜生ともいえ、勝つことが大切」という考え方です。宗滴はとにかく勝つことにこだわっていたことがわかります。

毎年、九頭竜川より北の道筋、地形に精通するために鷹狩りを行っており、いつでも一向一揆の侵攻に備えられるように用意を整えています。どうすれば勝てるのかについて徹底的にこだわっているのです。

また、陣取りは晴れの日ではなく、雨の日も想定すべきあるといったことや、合戦時には敵の首を分捕ってきたものや、負傷したものの報告を素早く聞くため、大将は前方にいることが重要だと述べています。大将が後方にいると先陣も後方に集まってきて乱れの原因になるからです。

平城や山城を攻める際は無理に攻めると兵をいたずらに見殺しにすることになるから避けることや、敵方の者に黄金などの褒美を与えてありのままの情報を知っておくことの重要性など83か条が記されています。

まとめ

カリスマ的存在で、実質当主のような役割を果たしていた宗滴が病没すると、越前朝倉氏の足並みは乱れ始めました。やがてその隙を突かれ信長によって滅ぼされます。

生前の宗滴は、あと3年生きて信長の成長を見届けたいと語っていたようです。信長の器量もしっかり見抜いていたということでしょう。宗滴のような人物がひとりでもいれば、越前朝倉氏はもっと信長に対抗できていたかもしれません。


【参考文献】
  • 水藤真『人物叢書 朝倉義景』(吉川弘文館、1986年)
  • 松原信之編『朝倉義景のすべて』(新人物往来社、2003年)



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