巨大集金マシンと化した中世の比叡山延暦寺
- 2023/05/16
戦国時代、武力と経済力と統治能力を持っていた者と言えば、まず戦国大名が頭に浮かびます。しかし当時の日本には彼らを上回る財力を誇った存在がありました。それはズバリ寺社勢力です。当時の寺社は大きな経済力と強力な武力、そして治外法権のような特権を得た広大な所有地を持って居ました。室町幕府も大名も迂闊に手出し出来ない存在だったのです。
寺社の土地
寺社の中でも威勢を誇ったのが、京都の北東に位置する比叡山延暦寺です。都の鬼門を守る寺として人々の尊敬を集めて居ましたが、その力は俗世間でもかなりのものでした。その頃の延暦寺の荘園は、わかっているだけでも北陸・山陰・九州など285ヶ所を数えます。比叡山は農地だけではなく、都の繁華な土地にも3ヘクタールの領域を持って居ました。これは後醍醐天皇の二条内裏と、足利尊氏の屋敷を合わせたよりも広い土地です。3ヘクタールの土地から上がる地子銭(じしせん)つまり地代だけでも相当の額になります。
広大な領地を持っていたのは延暦寺だけではありません。高野山や熊野三山・根来寺など有力寺院を抱える紀伊国では、水田面積の8割から9割が寺社の領地でした。大和国では土地のほとんどが、興福寺・東大寺・多武峯・金峯山などの寺社の領地で占められていました。
神仏の種籾
広大な荘園から収穫した米や寄進された米は、とても寺社だけで消費しきれません。寺社は余った米を元手に、“出挙(すいこ)”を呼ばれる高利の貸し出しを行ないます。出挙と言うのはもともと国が貧しい農民に春の種籾を貸出し、秋に利息を付けて返還させる制度でした。当初は貧しい農民を助ける制度でしたが、次第に利息収入に重きが置かれるようになり、いつの間にか国家の重要な財源になっていました。これは儲かるとして私的に出挙を行なう人間が出て来て、これを“私出挙(しすいこ)”と呼びます。この私出挙の利率は非常に高かったのですが、大々的に行ったのが寺社であり延暦寺でした。
延暦寺の守護神社である日吉大社は、神社に仕える神人(じんにん)たちを全国に遣わして私出挙を勧めてまわります。「日吉大社の籾を借りなさい、神様のご加護で豊作間違いなし」これが勧誘トークでした。人々も「神様が貸して下さった籾ならきっと豊作だろう」と喜んで借りたそうです。
街金もびっくりのエグイ貸金業
中世になり、貨幣経済が行き渡ると、寺社も種籾を貸すのではなく直接金銭を貸す本格的な貸金業に乗り出します。延暦寺と日吉大社は貯め込んだ資金力にものを言わせて、日本最大の貸金業者になりました。当時の貸金業は“土倉(どそう)”と呼ばれました。土倉とは現代の質屋のようなもので、かたに取った質草を土の倉に保管したのでそう呼ばれます。京都の土倉の8割は延暦寺・日吉大社グループだったそうです。
宗教者が行う金貸し業だから人助け的なものか言うと全然そんな事はなくて、まず標準的な利率が年利48%から72%と現代の街金も真っ青な超高金利です。取り立ても熾烈でした。武装した取立人が土足で家に踏み込み、「金を返さなければ罰が当たる」と脅して、強引に金を奪って行きます。
南朝暦 建徳元年(1370)には、わざわざ延暦寺の取立人が公家の家に押し入るのを禁じる法令まで出されています。つまりそれまでは遠慮なく押し入ってたって事ですね。
借金が払えずに田畑を没収される者が続出し、京都周辺には借金のかたに取られた小さな田畑が点在し、日吉田(ひえだ)と呼ばれました。
直接商工業の中枢も牛耳る
寺社は商工業の中枢も直接握っていました。当時ものの売り買いで常設店舗を構えることはほとんど無く、定期的に開かれる“市”が商いの場でした。この市を寺社が押さえていたのです。まず市は人が集まり広い場所も確保できる寺社の縁日にその境内で開かれるのが普通でした。当然市の開催自体寺社が取り仕切ることになり、出店するためには寺社に“地子銭”を納めなければなりません。この身入りが馬鹿になりません。
そのうち寺社は商品の流通そのものを支配するようになります。朝廷や幕府に働きかけ独占販売権を入手、“座”をつくって従わない業者を締め出します。
絹・酒・麹・油など主要な商品の流通は悉く寺社の手の内にありました。酒は延暦寺、織物は祇園社、麹は北野神社、油は南禅寺と得意分野の住み分けまでできていました。この独占状態をぶち壊そうとしたのが、信長の楽市楽座ですね。
政権が手を出しにくい貴人を抱え込んだ延暦寺
なぜ為政者たちは寺社の専横状態を許してしまったのか?その利権を取り上げれば寺社の勢力も削れるし、自分たちのモノにすれば懐も潤うのになぜそうしなかったのか?平安末期の白河上皇がすでに・賀茂川の水・サイコロの目・比叡山の僧と思い通りにならないものを数えて嘆いています。寺社は平安時代には時の権力も手を出せないものになっていました。
なぜなら寺社の中に多くの“貴人”が居たからです。古代から貴族たちは世継ぎ争いを避けるために、次男・三男を出家させました。武家の世になってもそれは続き、実家の後押しを受けた彼らは天台座主など宗教の世界でもトップに立ちます。
寺社に入った有力貴族や有力武家の子息は、贈られた多額の金品や広い荘園を寺社に持ち込み幅を利かせ、それが寺社の勢力拡大に結び付きます。俗世の有力者の縁者が居る寺社には、政権も強い態度に出られませんでした。
有力寺院は多くの僧兵を抱え込み武力的にも強大な存在になります。あの天下の覇王信長を向こうに回して、石山本願寺は11年間戦い抜きました。信仰と言う強い心の枷で庶民を味方に付ける中世の寺院は、為政者にとって厄介な存在でした。
おわりに
なぜそこまで寺社に土地や金が集まったのか?当時の人々にとって寺社は神の使いであり、神と会話ができる存在でした。「寺社に寄進をすれば救われる」そう信じて人々は喜んで寄進をします。神仏の救いに金品が関わる時点ですでに胡散臭いんですけどね。【主な参考文献】
- 大村大次郎『お金の流れで見る戦国時代』(PHP文庫/2021年)
- 伊藤正敏『中世の寺社勢力と境内都市』(吉川弘文館、1999年)
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