「藤田伝吾」は明智光秀の重臣にして謎だらけの武将だった!

明智光秀の重臣というと斎藤利三や明智秀満(ひでみつ)は有名であるが、実は他にも重臣が複数いたことが知られている。いわゆる明智五宿老のことである。

藤田伝吾(ふじた でんご)はその内の一人だが、その謎の多さでは群を抜いているといってよい。何しろ一部の史料に数少ない記述が存在しているのみという状況なのだ。それでも、史料が自ら語る藤田伝吾の「人となり」を何とか聞き取ってみたいものである。

謎多き半生

藤田伝吾は明智光秀の重臣の1人とされるが、その半生には謎が多く、生年・出生地ともに不明である。

そもそも主君の光秀でさえ、生年・出生地ともに明らかでないのだ。そう考えると、藤田伝吾が明智家に光秀の父とされる光綱の代から使えていた、という説を信じるのを前提として、その半生が謎だらけであることに何ら不思議はないであろう。

史料にわずかに残る足跡を辿って見ると、信長家臣時代の光秀とともに畿内で従軍し、光秀が畿内管領的な役割を担っていく過程において、山城国の静原山城主となったとされている。

多門院日記にみえる藤田伝吾

藤田伝吾についての記述が見られる数少ない史料の1つに『多門院日記』がある。

この史料は奈良にある興福寺の多聞院で僧侶3代にわたって記された日記であり、その執筆期間は1478年~1618年というから、140年もの間書き継がれたということになる。

中でも、安土桃山から江戸にかけて執筆した多聞院英俊が残した記述は、当時の畿内の動静をつぶさに伝える貴重な1次史料である。

彼の記述を見ていくと、天正元(1573)年辺りから大和国の国衆・筒井順慶についての記述が増えてくる。これはこの頃から順慶が織田信長に従うようになったからである。

信長家臣団が発展するにつれ、順慶は光秀の与力となるが、それ以前より、順慶と光秀の両者は伝吾の仲介でお互いをよく知るようになったと言われている。

明智光秀と筒井順慶のイラスト
本能寺の変の前後、主君光秀に加担しなかった順慶。

そういった経緯から『多門院日記』は伝吾についての記述が残されるようになったと思われる。例えば、天正5(1577)年11月29日の日記には

「大和国興福寺大乗院の「御反銭」の件で、織田信長(「右大臣公」)の副使藤田伝五が去11月26日より奈良へ到来しており、督促を受けて興福寺側は以外取乱す。」

との記述が見える。

おそらく、光秀はこの頃雑賀攻めや丹波攻めで各地を転戦していたため、伝吾に白羽の矢が立ったのであろう。それにしても中々の信頼度である。

本能寺の変と山崎の合戦では…

本能寺の変

天正10(1582)年6月2日早朝、光秀は毛利攻めの最中であった羽柴秀吉を支援すべく出陣した。その行軍の最中、重臣数名に信長を討つ決意を伝えたという。

『信長公記』によると、その数名の中には明智秀満・斎藤利三・藤田伝吾らがいたとされている。本能寺での戦闘においては、第二陣の兵4000を率いて奮戦したと伝わる。

本能寺の変後、光秀は電光石火で京を押さえ、6月5日には安土城に入城。その後朝廷工作行いながら、軍勢固めを行う。

ところが、あてにしていた細川藤孝と筒井順慶が中々思うように動かない。藤孝・忠興父子は信長への弔意を示し動かず、順慶も近江まで兵を出したものの、動きが消極的であった。

この順慶を説得するために奔走したのが伝吾であった。6月10日の『多聞院日記』は次のように伝えている。

「藤田伝五、明智光秀(「向州」)の命を受けて筒井順慶(「順慶」)を訪問し合力の説得をするも同心を得られず、大和国木津まで引き返したが、筒井順慶より呼び戻されて再度合力を要請す。」

注目すべきは「筒井順慶より呼び戻されて」という件であろう。順慶も内心ではかなり葛藤し、逡巡していたのではないだろうか。必死の説得にも関わらず、順慶を翻意させることはできなかったのは秀吉の動きがあまりにも速かったからである。

山崎の合戦

秀吉の動きについては、6月9日頃の『蓮成院記録』に以下のような記述が残されている。

「明智光秀(「惟日」)よりの合力要請の使者が切々と到来し、去6月5日より藤田伝五(「伝五」)が大和国奈良に逗留していること、筒井順慶(「順慶」)より羽柴秀吉(「羽筑」)へ使者が派遣され「入魂」となったという風聞に接す。」

秀吉の調略の巧さはよく知られているが、光秀との決戦に向けた調略の迅速さは尋常でない。当時、備中高松で毛利勢と戦っていた秀吉がいち早く、て大軍勢で京へ引き返した「中国大返し」はよく知られている。

※参考:1582年6月の中国大返し、山崎の戦いの場所

結果、思うように兵を集められなかった光秀軍だが、山崎の戦いにおいて秀吉の軍勢にあっけなく敗れる。光秀の惨敗といってよいのであるが、その布陣を史料から分析してみると興味深いことがわかる。

『太閤記』によると、光秀本陣には藤田伝吾など5000の兵が布陣していたことが確認できる。ここで注目したいのは、伝吾が光秀本隊に配属されているという点である。

通常、総大将の隊に配属されるのは軍師的な働きをする武将や、武芸に秀でた武将、あるいは重臣中の重臣であることが多い。例えば、第四次川中島の合戦においては、信玄本隊には、嫡男義信を初めとして、山形昌景や山本勘助などが配属されている。

山崎の合戦においては、光秀本隊に配属された武将としては伝吾くらいしか記載がないところを見ると、伝吾の役割は猛将としての役割だけでなく、その軍略に対しても期待されていた可能性はないだろうか。

光秀本隊右翼で6箇所を負傷しつつ、奮闘した伝吾であったが、形勢不利と見るや淀城まで退却する。

これは光秀が勝竜寺城に退却したのに合わせ、秀吉軍が勝竜寺城を攻撃した場合はその背後をつく策と思われるが、良い判断であろう。

ところが、その翌日、勝竜寺城はあっさり陥落する。勝竜寺城は平城であり、兵もそう多くは収容できないという状況であったから、敵の攻撃を受ければそう長くはもたない。したがって、秀吉軍は必ず猛攻を仕掛けてくると踏んでの布陣だったのであろうが、予想以上の早い陥落であった。

もはやこれまでと悟ったのであろうか…。藤田伝吾は最期、自害して果てた。


あとがき

史料を紐解いていると、あまり歴史には名が残されていないが、その言動の記録からただ者ではないと思わせる人物に出会うことが稀にある。藤田伝吾もその1人だ。

光秀との関係を見ていくと、光秀の片腕とも言える重臣斎藤利三に勝るとも劣らぬ信頼が寄せられていたことが浮き彫りになってくるのだ。光秀の与力となる筒井順慶とのパイプ役を務め、山崎の合戦においては同心するよう説得工作を行ったのもその信頼の証であろう。

明智光秀と言えば、織田政権において、信長に次ぐ№2の地位にまで上り詰めた名将中の名将である。その光秀が大きな信頼を寄せていたのであるから、その人物の凄さがわかろうというものだ。

現在放送中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、初回から割と出番の多い藤田伝吾の今後の活躍が今から楽しみである。



【参考文献】
  • 早島大祐『明智光秀牢人医師はなぜ謀反人となったか』(NHK出版新書、2019年)
  • 太田牛一・中川太古『現代語訳 信長公記』(中経出版、2013年)
  • 辻 善之助『続史料大成 第38巻~第42巻 多聞院日記 』(臨川書店、2009年)
  • 桧谷昭彦・江本裕『太閤記 新日本古典文学大系』(岩波書店、1996年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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