【長野県】小諸城の歴史 豊臣政権時代に仙石秀久が大改修。現在の城跡の原型を築く

  • 2021/12/21
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 東信濃を制圧した武田信玄がその拠点として新たに縄張りを行ったのが、現在の長野県小諸市に城跡を残す小諸城(こもろじょう)の初期の姿で、その後は仙石秀久によって整備されました。

 小諸城は日本城郭協会の選定により、日本百名城のひとつにも数えられています。今回は日本唯一の「穴城」といわれている小諸城の歴史についてお伝えしていきます。

小諸城の前身は鍋蓋城

 武田信玄による支配以前の歴史については、平安時代末期の小室太郎光兼の館である宇頭坂城がその起源とされています。しかし小室氏は南北朝時代に衰退し、代わって大井氏が小諸佐久地方を支配していきました。

 大井氏は小諸城の前身とされる鍋蓋城を中沢川のほとりに築城。さらに乙女城(別名・白鶴城)を築城して外敵の襲来に備えましたが武田信玄の侵攻によって落城します。

 信玄は東信濃支配の拠点としてこの地に目をつけ、山本勘助と馬場信房に命じて鍋蓋城と乙女城を含めた新たな縄張りをさせて新しい城郭を整備します。このときに完成したのが小諸城(別名・酔月城)です。

小諸城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 天文23年(1554)には城主として信玄の弟・武田信繁の二男である武田信豊が入りました。これよりおよそ30年間に渡り、武田氏による支配が続きます。

仙石氏が城郭や城下町を整備

 天正10年(1582)、織田信長によって武田氏が滅ぶと、小諸城の城主には滝川一益が城主となります。しかし同年に本能寺の変が勃発すると、北条氏が一益の軍勢を破って小諸に侵攻してきます。

 信長の死によって引き起こされた、いわゆる天正壬午の乱です。このとき北条氏の他、上杉氏や徳川氏、さらに真田氏も加わり、旧武田領の甲斐、信濃、上野の3国の争奪戦が行われました。

 小諸城も争奪戦の中心地となりましたが、最終的に豊臣秀吉の仲裁によって徳川氏の領地となりました。このとき北条氏に味方した岩尾城を攻めて討ち死にしたのが徳川氏に味方した武田氏旧臣の依田信蕃で、家康はその家督を継いだ依田康国に松平姓と共に小諸城を与えています。ただし康国は秀吉の小田原征伐の際に上野石倉城攻めで戦死し、弟の依田康勝が家督と共に小諸城も継いでいます。

 天正18年(1590)に秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川氏は関東へ転封となり、康勝も武蔵国に移りました。代わって仙石秀久が小諸五万石の大名として小諸城城主となります。これよりおよそ30年間に渡り仙石氏が小諸城を支配していき、三層の天守閣や大手門、石垣、さらには城下町まで整備し、現在の城跡の原型を築きます。

 秀久は秀吉の許しを得て桐紋の金箔押瓦を使った天守閣を備えた他、二の丸、大手門、黒門を建て、その跡を継いだ仙石忠政が三の門、足柄門を建築しました。ちなみに小諸城は浅間山から千曲川へと続く地勢を活かした天然の要塞であり、その城郭は城下町よりも低い場所にある特殊な構造で、穴城と呼ばれており、日本ではこの小諸城だけといわれています。

 関ヶ原の戦いにおいては中山道を進んだ徳川秀忠の軍勢が小諸城に入りました。関ヶ原の戦いでは仙石氏は家康の東軍に与したことで、その後も小諸城は秀久が城主を務め、小諸藩の藩庁として機能していくのです。

牧野氏が10代 170年間城主を務める

 元和8年(1622)年、2代目藩主だった忠政が上田城へと転封となり、小諸城は3代将軍・徳川家光の弟である徳川忠長の領地とされて城代が置かれました。

 その後は5万石から2万石へと減らされるものの、重要な拠点であることから松平氏、青山氏、酒井氏といった譜代が城主を務めています。その間の寛永3年(1626)に落雷によって三層の天守閣は焼失しました。

 目まぐるしく城主が入れ替わった後、落ち着いたのは元禄15年(1702)に越後国与板藩から牧野康重が1万5千石で入封されてからです。

 康重は5代将軍・徳川綱吉の生母である桂昌院の甥にあたり、幼少期から大奥の出入りを許されていた人物です。宗家の越後長岡市の家紋は五間梯ですが、小諸城に入った牧野氏の家紋は10代に渡り、三ツ柏を受け継いでいます。そして明治4年(1872)の廃藩置県が行われるまでのおよそ170年間、小諸城は牧野氏の居城として使われました。

城跡は懐古園として残る

 小諸城は廃藩置県後、明治13年(1880)に小諸藩旧士族に払い下げられ、その本丸跡には懐古神社が祀られてから「懐古園」と呼ばれるようになりました。

 ちなみに寛保2年(1742)に戌の満水により流出した三の門は、明和2年(1765)に再建され、今も国の重要文化財として懐古園入り口に現存します。同じく当時の遺構である大手門もまた国の重要文化財として小諸市街に残されています。懐古園は大正15年(1926)、本多静六の設計によって近代的な公園へと姿を変えました。

 懐古園内には石垣や天守台といった遺構が残されている他、足柄門は市内光岳寺の山門へ移築、黒門は市内正眼院の山門へ移築されて現存しています。さらに本丸御殿の書院として伝わっている建物も東御市に移築されて残っています。

あとがき

 日本百名城の中でも穴城という独特な構造が特徴的な小諸城。かつては戦国大名として名をはせた武田氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏がその支配を争った地でもあります。

 現在の懐古園内には島崎藤村や若山牧水の歌碑があり、名物の桜を眺めながら歌を口ずさみ、歴史に思いをはせてみるのもいいのではないでしょうか。

補足:小諸城の略年表

出来事
天文23年
(1554)
武田信玄によって城郭が整備され、武田信豊が城主となる
天正10年
(1582)
織田信長の領地となり、滝川一益が城主となる
本能寺の変の後は、徳川家康の領地となり、依田康国が城主となる
天正18年
(1590)
仙石秀久が城主となる
慶長5年
(1600)
小諸藩藩庁となる
元和8年
(1622)
仙石忠政転封、以後、松平氏→青山氏→酒井氏が城主となる
寛永3年
(1626)
落雷により三層の天守焼失
元禄15年
(1702)
牧野康重が城主となる
寛保2年
(1742)
戌の満水により三の門が流出
明和2年
(1765)
三の門が再建
明治4年
(1872)
廃藩置県によってその役割を終える
明治13年
(1880)
小諸藩旧士族に払い下げられる
大正15年
(1926)
本多静六の設計により公園化


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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