【石川県】七尾城の歴史 あの上杉謙信も手を焼いた北陸随一の堅城
- 2022/12/14
七尾湾を望む風光明媚な場所に築かれ、あの上杉謙信をして「聞きしに及び候より名地」と絶賛した七尾城(ななおじょう)ですが、現在も国史跡として多くの歴史ファンや観光客が訪れる名城です。
しかし戦国時代には激しい戦いの舞台となり、悲惨な運命をたどった城でもありました。今回は七尾城を取り上げ、その歴史をひも解いていきましょう。
しかし戦国時代には激しい戦いの舞台となり、悲惨な運命をたどった城でもありました。今回は七尾城を取り上げ、その歴史をひも解いていきましょう。
【目次】
七尾城が築城された頃、単なる砦でしかなかった!?
七尾城は能登のみならず、全国を代表する城郭として「五大山城」に数えられるほどの存在です。城域は南北約2.5km、東西約1kmに及び、山城としては空前の広さを誇ります。しかし15世紀初めに築城された頃、この地には砦規模の城しかありませんでした。応永15年(1408)、能登守護として入国した畠山満則(満慶)はこの地に居館を築き、背後の山の尾根に「松尾・菊尾・亀尾・虎尾・梅尾・竹尾・竜尾」と命名して七尾と呼んだそうです。そして満則の晩年にあたる正長年間、松尾山に詰の城を築きました。これが最初の七尾城です。
この当時の山城は一般的に麓の居館と詰の城がワンセットでした。普段は居館で暮らしながら、危急の際には詰の城へ籠って戦います。この関係性は武田氏の「躑躅ヶ崎館と要害山城」、大内氏の「大内氏城館と高嶺城」、あるいは今川氏の「今川氏館と賤機山城」にも見られるものです。
さて能登畠山氏3代目・義統の頃、京都では応仁の乱が起こりました。義統は西軍から東軍へ転じて活躍し、文明5年(1473)には管領職に任じられています。乱が終結したのち能登へ帰国した義統は、守護の権限強化に乗り出し、この頃に七尾城を拡張したようです。また七尾城が確実に史料として現れるのが4代・義元の頃ですが、大呑北荘の領民たちが「七尾江御出張」と賞しているあたり、城はかなりの規模になっていたことがうかがえます。
7代目当主・畠山義総の時代に絶頂期をむかえる
7代・義総は大永5年(1525)に七尾城内で連歌会を催し、さらに翌年には同じく城内で歌会を開催しました。この時には歌人である冷泉為広・為和父子が出席していますので、かなり大々的な歌会だったことが想像できます。義総の館も城内にあったと考えられ、すでに16世紀初めには、軍事・居住の施設を備えた城郭として機能していたのでしょう。また、天文13年(1544)、東福寺の僧・彭叙守仙が畠山重臣・温井総貞に招かれて七尾城を訪れた時、城の壮麗さと城下町の賑わいぶりに驚きを隠せなかったそうです。その著書『独楽亭記』の中で「城下町の家屋は千門万戸に達して一里余りに及ぶ。まさに山市晴嵐の景観である」と述べています。
ちょうど義総の時代が能登畠山氏の絶頂期にあたり、能登一帯の経済・流通を確保するとともに、守護大名から戦国大名への脱皮を図りました。また安定した政治と財政状況のもと、文化の興隆に力を尽くしたといいます。ちなみに安土桃山時代最高の絵師とされる長谷川等伯は能登出身ですが、若い頃から能登畠山文化に触れ、さまざまな絵の技法を学んだとか。
実は注目しておきたいポイントがあります。彭叙守仙は記録の中で「山頂に御殿が翼を広げたように建っていて、朱や青が塗られてひと際美しい。まるで夜摩(ヒンズー教の神)の天宮のようだ」と述べていました。
七尾城に壮麗な御殿群があったことを疑う余地などありませんが、義総がそこで優雅な暮らしをしていたと見るのは早計でしょう。なぜなら能登は有数の豪雪地帯ですし、日本海から吹き付ける季節風も強烈です。もし厳冬の時期に七尾城へ佇めば、こんなところで生活などできないと感じるはずです。
つまり山頂の御殿群は季節限定で使用され、来賓の接待や特別な行事の時にのみ機能した可能性があります。おそらく畠山当主も冬の時期には山麓へ下りていたのではないでしょうか。
畠山氏の弱体化と上杉謙信の侵攻
天文14年(1545)に義総が死去すると、畠山氏の権力は弱体化の一途をたどります。やがて重臣である畠山七人衆によって領国支配の実権は奪われ、これを取り戻そうとした9代・義綱は父・義続とともに能登を追放されてしまいました。さらに畠山氏を不幸が襲います。代わって擁立された義綱の嫡男・義慶もまた天正2年(1574)に家臣によって毒殺され、その跡を継いだ弟・義隆もまた2年後に病死しました。
その後、義隆の息子・春王丸が跡を継ぎますが、実権は家臣団が握ったままだったようです。そんな最中、越中を制した上杉謙信が能登侵攻を企てました。これに対して畠山方では上杉の介入を嫌い、徹底抗戦することに決します。
天正4年(1576)の冬、畠山方の支城をあらかた落とした上杉軍は七尾城を囲みました。謙信は「七尾一城に成され候、城中遂日力無く候、落居疑い有るべからず候か」と述べるほど自信を持って攻めますが、堅固な守りを誇る七尾城に歯が立たず、持久戦を取る構えに出ます。ところが関東での不穏な情勢に加え、厳冬期だったことで長期包囲が難しいと判断した謙信は、いったん撤退を決意しました。
そして翌年の夏、万全の態勢を整えた謙信は2万の大軍で再び七尾城を囲みます。畠山勢は天険を頼りに猛攻をよく凌ぎますが、城内に異常事態が起こりました。夏ということもあって疫病が流行し、多くの城兵が倒れたのです。さらに畠山春王丸までが命を落としてしまいました。
こうした中、重臣の長続連が城代となって籠城戦を指揮しますが、城内の士気は一気に低下。そこで織田信長に援軍を要請するべく、弟・連龍を走らせました。
しかし続連に反感を持ち、上杉に心を寄せる者も少なくありません。謙信の誘いに応じた遊佐続光・温井景隆の両名は続連を謀殺し、さらに長一族を根絶やしにしたうえ、城を開いて降伏しました。謙信は決して力攻めではなく、謀略によって七尾城を落としてみせたのです。
前田氏の支配と七尾城の廃城
その後、織田からの圧力を排除した謙信はさっそく大規模な七尾城の改修に取り掛かりました。相当な土木工事だったらしく、「鍬立申し付くべきがため、登城せしむ」といった感じで、家臣や領民を総動員したものだったようです。やがて完成した七尾城に遊佐続光を置くとともに、事実上の名代として重臣・鯵坂長実を配置しました。ところが天正6年(1578)に謙信が亡くなると、上杉による能登支配は急速に弱体化していきます。長実は能登諸将から誓紙血判を取りますが、早くも温井や三宅といった旧畠山家臣たちが織田に降伏。さらに長実までが七尾城から追補されてしまうのです。こうして上杉の支配はたった2年で終わりを告げました。
その後、温井と三宅の両名は七尾城を明け渡し、城代として菅屋長頼が入ってきます。しかし七尾城で裏切りにあった長続連の弟・連龍は恨みを忘れていません。さっそく遊佐父子を捕らえて殺害し、恐れた温井は越後へ逃亡したそうです。
ここから織田氏による能登支配が始まります。天正9年(1581)、前田利家が能登の国主として入国し、七尾城に居を構えました。2年後に加賀国石川・河北2郡を与えられた利家は金沢城へ移りますが、七尾城には兄・安勝を置いています。やはり重要拠点としての認識があったのでしょう。また前田氏による大規模改修が行われたようで、現存する遺構の多くは上杉時代そして前田時代のものだそうです。
天正13年(1585)、越中の佐々成政が羽柴秀吉の軍門に下ったことで、七尾城はその役割を終えました。史料に登場するのは天正14年(1586)が最後となり、上杉景勝の動向を記した『上洛日帳』には「能州の武主始めは前田五郎兵衛(安勝)なり」と記されています。七尾城代を退いた安勝が、越中新川郡の管理を任されたことを示唆しているのでしょう。
また天正19年(1591)の前田利家書状には「七尾古屋敷」という言葉が見え、七尾城下が衰退している様子がうかがえます。さらに時は下って文禄5年(1596)の前田利家条目写では、「七尾城山のはやし、むさとかり取る事堅く停止候」とあり、もはや雑木が生い茂って城が廃墟になっていることが確認できるのです。
おわりに
七尾城が城として機能したのは180年ほどですが、数々の栄枯盛衰を見てきたはずです。能登畠山氏全盛の時代、さらに飽くなき戦乱の時代、そして前田氏による能登支配の時代です。そのたびに七尾城は改修されて現在のような姿になりましたが、今でも多くの城郭ファンから人気があるように、その波乱に富んだ歴史を遺構のあちこちに感じ取ることができます。北陸随一の山城とされる七尾城を、ぜひ訪れて頂きたいものです。補足:七尾城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
応永13年 (1406) | 畠山基国が没し、その次男満則が畠山氏の家督を継承。 |
応永15年 (1408) | 満則、畠山氏の家督を兄・満家へ譲って能登へ移り、改めて能登畠山氏を創設。この時に詰の城を築く。 |
永正12年 (1512) | 畠山義総が能登守護となって政治経済が安定し、ここから畠山氏全盛を迎える。七尾城も大規模改修されて山頂に御殿群が建つ。 |
大永5年 (1525) | 七尾城内の義総亭で「賦何人連歌Jが詠まれる。 |
天文13年 (1544) | 禅僧の彭叔守仙が七尾城と城下を記した「独楽亭記」を著す。 |
天文19年 (1550)頃 | 能登の内乱によって七尾城下が焼失。畠山七人衆が領国支配の実権を握る。 |
永禄9年 (1566) | 重臣が畠山義綱を追放し、その長男・義慶を擁立する。 |
天正2年 (1574) | 畠山義慶が重臣によって毒殺され、その弟・義隆が家督を継ぐ。 |
天正4年 (1576) | 越後の上杉謙信が能登へ侵攻。七尾城を囲む。 |
天正5年 (1577) | 謙信の再侵攻。畠山重臣が内応して七尾城が開城。能登畠山氏が減亡する。鯵坂長実が城代となる。 |
天正9年 (1581) | 前田利家が能登一国を与えられ、七尾城へ入城。 |
天正11年 (1583) | 前田利家が金沢城へ移り、兄・安勝が七尾城代となる。 |
天正13年 (1585)頃 | 前田安勝が城代を外れ、七尾城は実質的に役目を終える。 |
文禄2年 (1593) | 前田利家の次男・利政 が能登21万石を豊臣秀吉から賜って大名となる。 |
昭和9年 (1934) | 国史跡に指定される。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選出される。 |
【主な参考文献】
- 村田修三「日本名城百選」(小学館 2008年)
- 藤崎定久「日本の古城3 北海道・東北・関東・甲信越編」(新人物往来社 1977年)
- 小和田哲男「知れば知るほど面白い戦国の城 攻めと守り」(実業之日本社 2014年)
- 竹間芳明「北陸の戦国時代と一揆」(高志書院 2012年)
- 佐伯哲也「戦国の北陸動乱と城郭」(戎光祥出版 2017年)
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