【愛知県】小牧山城の歴史 信長の居城から家康の本陣へ変遷を遂げた不思議な城
- 2023/08/08
広い濃尾平野の真ん中に、あたかも海に浮かぶ小島のような独立峰「小牧山」があります。この山にはかつて信長が築いた小牧山城があり、現在では多くの人々が訪れる憩いの場となっていますね。
信長は尾張の中心地・清須から辺鄙な小牧山へ居城を移したのですが、なぜ本拠をわざわざ移転する必要があったのでしょう?また不便な山城を築いた理由とは何だったのか?小牧山城の歴史とともに探っていきたいと思います。
信長は尾張の中心地・清須から辺鄙な小牧山へ居城を移したのですが、なぜ本拠をわざわざ移転する必要があったのでしょう?また不便な山城を築いた理由とは何だったのか?小牧山城の歴史とともに探っていきたいと思います。
小牧山城が築城された真の理由とは?
尾張は文明年間以来、織田大和守家と織田伊勢守家が治めるという分裂状態が続いていましたが、これに終止符を打ったのが織田信長です。家督を継いだばかりの信長は、天文23年(1554)に清須城を落とし、永禄2年(1559)になると岩倉城を攻略して両守護代家を滅ぼしました。続く桶狭間の戦いで今川義元を打ち破ったことで、いよいよ美濃・伊勢の平定に目を向けることになります。
永禄5年(1562)、三河の徳川家康と同盟を結んだ信長は、思い切って本拠の移転を実行に移しました。まずは直臣(御内衆)を引き連れ、清須から18キロも離れた二宮山へ現地視察に赴きます。ここで『信長公記』の記述を引用してみましょう。
「御内衆悉く召列れられ、山中高山二の宮山へ御あがりなされ、此山にて御要害仰付けられ候はんと上意候て、皆々家宅引越し候へと御諚候て、爰の嶺かしこの谷合を誰々こしらへ候へと御屋敷下さる。
又、重ねて御出であって、いよいよ右の趣御諚候」
二宮山へ登った信長は、「ここに城を築いて谷あいに屋敷を与えるから、皆で引っ越すように」と厳命しています。重ねて命令が下ったことから、きっと直臣たちも迷惑がったことでしょう。何せ住み慣れた清須から遠く、山は高く、しかも交通も不便です。
ところがしばらくすると、信長は「やはり小牧山へ移ろうと思う」と考えを変えました。これを聞いた直臣たちは大喜びです。小牧山のほうがより近く、川続きだったことから、家財道具を運ぶにも便利だったからですね。
もっとも信長の狙いは当初から小牧山への移転でした。初めから小牧山だと告げれば、辺鄙な田舎ですから反対する者も出てくるでしょう。最初はあえて不便な二宮山だと明言したのです。
ところで、信長が小牧山へ本拠を移そうとした理由は何だったのでしょう? 従来までの定説では、美濃を攻略するにあたって、濃尾国境に近い場所へ軍事拠点を移す目的があったとされてきました。確かにそれも理由の一つですが、最大の狙いは中世以来続く古い体質からの脱却にあったといいます。
織田家臣団は清須城下に屋敷を持つものの、普段はそれぞれの領地に居所があって、そこを根拠にしていました。いざ合戦となれば、家臣たちはおのおの軍勢を率いて、清須へ駆けつける必要があったのです。
そんな悠長なことでは迅速な集結など見込めるはずもありません。実際に桶狭間の戦いでは、信長はわずかな手勢を率いるのみで、あとから将兵がやって来るのを待ったほどです。
その時の教訓を生かすべく、信長は城を中心とした家臣の集住を促進したかったのでしょう。小牧山に城を築き、山麓に家臣団屋敷を整備することで、迅速な軍勢の集結が可能となるのです。
尾張では最初となる石垣造りの城郭
信長築城以前の小牧山には、何らかの宗教施設があったと考えられています。特に西側の山麓には山岳寺院が存在したとされ、独立峰という地形が古くから信仰を集めてきたのかも知れません。小牧山城は永禄6年(1563)から築城が始められ、同年のうちに完成しています。ちなみに2キロほど離れた場所に、織田信清が有する於久地城がありますが、城が完成に近づくにつれ、城内まで見下ろされることになり、城兵は「これでは支えきれない」と判断。城を明け渡して犬山城へ退去していったとか。
さて小牧山城の規模や構造ですが、近年の発掘調査によって明らかになりつつあります。まず堀と土塁によって東西で区画され、主郭・西側曲輪・大手曲輪・西側谷・帯曲輪といった5地区に分けられていました。それぞれの地区は兵の駐屯が可能なように広く削平され、多くの建物群があったことがうかがえます。そして山麓南側一帯には城下町が造成されて、武家屋敷や商工業者・職人たちの町が広がっていたようです。
主郭からは虎口・石垣・土塁・柱穴などが検出されており、とりわけ石垣は近世城郭のように一気に積み上げる高石垣ではなく、段々に構築されていました。また、重さ2トンを超える大石も積まれていたそうです。
中腹から山麓にかけては、一門や重臣たちの屋敷地が整然と区画され、山頂に向かって大手道が続いていました。ここでも石垣が多用されており、ところどころで硬い岩盤を削って造成した形跡が見受けられます。
現在は部分的にしか見られない石垣群ですが、その多くは廃城後に失われたものと考えられています。天正14年(1586)には織田信雄が清須城を大規模造営していますし、慶長15年(1610)から始まった名古屋城の普請の際にも、多くの石が必要となりました。おそらく小牧山城から巨石が失われたのは、そうした理由からだったのかも知れません。
ちなみに当時の尾張では、このような石垣造りの城はまだ出現していません。なぜ信長は先進的な石垣の城を構築しようとしたのでしょう?
永禄2年(1559)、信長は供回りを80名ほど引き連れて上洛していますが、奈良や堺など各地を見物したあと、近江から伊勢へ抜ける八風峠回りで帰還しています。もしかすると六角氏の観音寺城や小堤城山城といった石垣造りの城を目の当たりにしたのかも知れません。
信長が小牧山城を築城するにあたって、それらの城を参考にしたとも考えられるのです。
徳川家康の本陣となった小牧山城
おそらく信長は、美濃攻略が長くかかると見越して小牧山城を築いたはずですが、案に相違して4年で平定を成し遂げました。御存じの通り、天下布武を掲げた信長は本拠を岐阜城へ移し、小牧山城は廃城同然となってしまいます。それから17年後の天正12年(1584)、再び小牧山城が脚光を浴びることになりました。羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康陣営が反目したことで、小牧の役が始まったからです。尾張北部へ進出した家康は、いち早く要害である小牧山を抑えて本陣を置きました。おそらく信長時代の建物群は消失していたはずですが、堅固な曲輪や土塁・石垣などは健在です。ほぼ手付かずのまま再利用できたことでしょう。
ただし一部には手を加えています。山麓部を囲うように大規模な土塁と堀が二重に構えられており、その幅はおよそ30メートルもあったそうです。また中腹にも横堀を築き、余った残土で土塁を構築していました。
秀吉の軍勢は圧倒的な大軍ですから、小牧山城の要害ぶりによって攻撃を阻止しようとしたことがうかがえます。
小牧の役は戦況が膠着したまま推移し、秀吉と信雄が単独講和を結んだことによって終結しました。しかし局地戦(長久手の戦い)で勝利した家康は、「手強い相手」という認識を秀吉に与えたことで、講和を引き出すことに成功しています。
その後の小牧山城
小牧の役が終わったのち、小牧山は6年ほど織田信雄領となり、次いで福島正則が領しています。関ヶ原の戦いのあとは家康の四男・松平忠吉の領地となりますが、慶長12年(1607)に忠吉が没すると、次に家康の九男・徳川義直が尾張へ配されました。ちなみに小牧山は、家康が天下取りのきっかけを掴んだ地であることから、江戸時代を通じて禁足地となっています。山麓には柵をめぐらせて番人を置き、一般人の入山を固く禁じたそうです。
また元和9年(1623)には上街道整備のために、信長時代から続いた町を小牧宿へ移転させました。かつての城下町は一面の田畑に変わってしまったとか。
そして明治時代を迎えると小牧山は官有地となり、県立公園を経て再び尾張徳川家の所有となっています。昭和2年(1927)、小牧山が国史跡の指定を受けたことから一般公開されるようになり、3年後には尾張徳川家から小牧町へ寄贈されました。以後は公園として利用されたようです。
昭和43年(1968)には小牧山のシンボルといえる模擬天守(小牧市歴史館)が完成。全国に広く認知されるきっかけとなりました。
昭和から平成にかけては断続的に発掘調査が続けられ、多くの遺構や遺物が発見されています。江戸時代に禁足地だったことから、地形の改変や破壊を受けずに構造が保存されており、さしずめ土中に残されタイムカプセルのようになっているそうです。
おわりに
信長の居城として、そして家康の本陣として歴史に刻まれた小牧山城ですが、その位置を見れば要衝ぶりがわかるところでしょう。なぜなら広い濃尾平野を一望でき、守るに易く攻めるに難い城だからです。政治の拠点として、また軍事基地として、これほどの好立地はありません。 ちなみに小牧市歴史館は、令和5年(2023)4月に「小牧山歴史館」としてリニューアルオープンとなりましたが、4階展望室からは素晴らしい眺めを堪能できます。かつて信長が眼下を見渡したように、当時に想いを馳せるのも楽しみの一つかも知れませんね。
補足:小牧山城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
永禄6年 (1563) | 織田信長によって小牧山城が築城され、清須から本拠を移す。 |
永禄10年 (1567) | 信長が美濃を平定。本拠を岐阜城に定めたことにより小牧山城が廃城となる。 |
天正12年 (1584) | 小牧の役。小牧山に徳川家康が本陣を置く。 |
慶長12年 (1607)頃 | 徳川義直が尾張徳川家の祖となる。神君家康ゆかりの地として管理下に置かれる。 |
元和9年 (1623) | 上街道の整備に伴い、旧来の城下町が移転。 |
明治2年 (1869) | 版籍奉還によって官有地となる。 |
明治6年 (1873) | 愛知県が小牧公園として一般に公開する。 |
明治21年 (1888) | 迎賓機能を持つ創垂館が建設される。 |
明治22年 (1889) | 尾張徳川家の所有となる。 |
昭和2年 (1927) | 小牧山が国の史跡に指定される。 |
昭和5年 (1930) | 尾張徳川家から当時の小牧町へ寄贈される。 |
昭和43年 (1968) | 小牧市歴史館がオープン |
平成16年 (2004) | 史跡公園として整備される。 |
平成29年 (2017) | 続日本100名城に選出される。 |
令和5年 (2023) | 小牧市歴史館がリニューアルされ、小牧山歴史館としてオープン |
【主な参考文献】
- 中井均『東海の名城を歩く 愛知・三重編』(吉川弘文館 2020年)
- 加藤理文『織田信長の城』(講談社 2016年)
- 千田嘉博『信長の城』(岩波書店 2013年)
- 歴史人『徳川家康 天下人への決断』(ABCアーク 2022年)
- 小牧市観光協会HP 麒麟の城 小牧山城の歴史
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