※『見聞随筆』ほか
慶長20年(1615)5月、天王寺の決戦で幸村は討死し、徳川方の榊原康勝も大損害を受けたが、既に徳川と豊臣の勝敗は決していた。そして康勝は、真田隊と味方の松平忠直隊の戦いがほとんど終息したのを見計らい、使番・沼上八兵衛に様子をみてくるように命じた。
──大阪城付近の戦場 ──
天王寺決戦の決着がついた頃、沼上八兵衛は戦場の様子を見に馬をとばして進んでいくと、その途中で口取り(=馬の口をとって馬を押さえ込む者)に牽かれた芦毛の馬に出くわした。
その馬には六文銭の金具をあしらった黒鞍が据えられており、それは幸村の乗っていた愛馬であった。
おい!それは誰の馬だ?どこに牽いて行くつもりなのだ。
(しまった!徳川兵に見つかってしまった・・)
・・・これは真田幸村公の馬だが、幸村公は討ち死にしてしまった。だから城内に牽いて帰る途中なのだ。
真田の馬だと?
ほほう・・。どれ、わしにその馬にまたがせてみよ。
!!!
口取りはなんの抵抗もできず、沼上は幸村の愛馬をとてもいい馬だと思ってその上に乗った。そして、精悍な馬で乗り心地もよかったため、沼上は "さすが大将の騎乗していた馬だ" と感心した。
・・・この馬は幸村公に形見として信濃へ牽いて帰ってほしいと頼まれておるのだ。どうか返してくれぬか?
そう口取りが言うと、沼上は素直に馬から降りた。
馬を無事に返してもらい、一安心した口取りは、沼上と別れて再び城のほうへ向かっていったが、一町(=約100m)ほど歩いたところで事件が起きた。
ぐぎゃあああーー!
なんと、口取りは一人の武士にあっけなく殺されて首をとられてしまった。
沼上はこの一部始終を目撃していたが、あろうことかその武士は同じ榊原康勝隊の者だったのである。
── 慶長20年(1615年)未明 ──
口取りを殺害した男はのちの手柄報告の際、この一件での首級も数に含めたことで50石の加増となった。
そして、その事を知った沼上はその男に問いただした。
なぜお主が加増に?
わしはお主が豊臣方の口取りを討ったのを見ていたが・・もしや・・
ああん?ああ、あれね・・。
たいした者ではなかったが、首をとってこの者はなかなか手ごわい相手だったといって加増を勝ち取ったのじゃ!
ギャハハハ!
と事の経緯を告白したのであった。
なお、幸村の愛馬がその後どうなったのかは史料に残されていない。
大阪夏の陣において、幸村の嫡男・大助の最期はどうなったのだろうか?
大助は夏の陣の最終決戦 "天王寺の戦い" を前に、父・幸村に豊臣秀頼の側に仕えるように命じられ、しぶしぶ大阪城へ戻っていた。その後、幸村が討死して豊臣方の敗北が決定づけられると、毛利勝永をはじめ、生き残っていた豊臣兵らが大阪城へ退却。そして大阪城は裏切り者の放火によって建物のほとんどが焼け落ちていった…。
大阪城内での続きの様子は、史料をもとに以下に再現してみよう。
※『武辺咄聞書』『大阪御陣覚書』より
大阪城が炎に包まれてまもなく陥落という中、秀頼と淀殿は焼け残りの土蔵に潜んでおり、大助も秀頼の側に仕えて警固していた。
--落城寸前の大阪城--
真田は豊臣譜代ではなく、牢人なのだから、貴殿は秀頼様の行く末を見届けなくてもよいのだぞ。
・・・・・。
譜代の人々ですら逃げて行ったのだから、ここを早く立ち去ったほうがよい。
・・・・・。
父から「自分は戦死するが、お前は秀頼公の最期のお供をせよ」と言い渡されております。
大助は一言だけ返答し、その後はただ黙っていた。
しばらくして、豊臣の敗兵が落ち延びて大阪城へ次々と戻ってきた。大助はいてもたってもいられず、豊臣の敗兵に幸村の行方を聞きまわった。
あの・・真田左衛門がどうなったか知りませんか?
はあ・・・はあ・・・。
・・真田殿のせがれか。すまぬが行方はわからぬ。
そしてようやく幸村の最期を知っている兵に出会い、その討ち死にの知らせを聞くと・・・。
ううっ・・。
ううううっ・・・・・。
大助はうなだれて涙をこらえ、その後は黙って母・大谷夫人から与えられた水晶を取り出し、念仏を唱えはじめた。
・・なんともかわいそうに。
・・どうしてあげられることもできんのう。。
周囲の者は皆、大助を不憫に思い、これに速水守久が大助のそばにきて声をかけた。
貴殿は一昨日の戦い(道明寺の戦い)で高股に負傷している。秀頼公はまもなく和談となって助命され、ここから出られるであろうから、貴殿は早々に立ち去るがよい。
なむあびだぶつ・・・なむあみだぶつ・・・ぶつぶつぶつ・・・。
守久は人を添えて徳川方の真田信吉の陣まで送り届けようと諭したが、大助はこれに全く応じず、ただひたすらに念仏を唱え続けていた。
櫓の中は多くの人で混雑していたため、大助は外の広い庭に藁(わら)を敷き、前日の昼から食事もせず、静かに秀頼に殉死するときを待っていた。
ううっ。。ううううっ。
そのあまりにも不憫な姿に皆、涙を流したのであった。
豊臣方は最期に千姫らを徳川のもとに派遣し、淀殿・秀頼の助命嘆願をしたが、結局は叶わなかった。
翌5月8日未明、淀殿・秀頼をはじめ、豊臣の将らは次々と自害して果てた。これを知った大助も殉死し、豊臣とともに散ったのである。
淀殿・秀頼が自害して豊臣が滅んだ5月8日には、徳川方で真田幸村の首実検が行なわれたらしい。
徳川方では、脅威の敵であった幸村の首実検が行なわれるということで、多くの徳川方の諸将が見物に訪れたという。幸村の戦いぶりは徳川方からも感歎されるほど注目されていたのである。
以下、史料をもとに首実検の様子を再現する。
『落穂集』『慶長見聞書』『真武内伝追加』ほか
-- 場所不明 --
家康は幸村の首級を次の間(=主君のいる部屋の次の部屋)に持ち込ませると、幸村を討ち取った西尾仁左衛門にその首を確認させた。
西尾。どうじゃ?歯は欠けておるのか?
家康は幸村の歯が欠けていることを知っていたようである。
はっ!確かに向歯(=上顎の前歯)が欠けております!
うむ・・・・。
!!!
そうじゃ!真田信尹を呼べ!!
家康は念のため、幸村の叔父・真田信尹も呼び出して確認させようとした。
大御所様、お呼びでしょうか?
うぬ。お主は2度も大阪で会っておるだろう。首を確認してみよ!
信尹は大阪の陣の最中、"幸村を味方に引き入れよ" との家康の命を受け、使者として2度も幸村の元へ訪れていたのだ。
そして信尹はその首を確認するが、一向に幸村がどうかの見分けがつかずに困惑した。
どうした?なぜわからんのじゃ?
はっ!それがしが左衛門(=幸村)と会ったときは夜でございました。また、そのとき彼は極めて用心していて近づようともせずに、遠くから話をしただけでしたゆえ・・・。
・・・もうよい。さがれ!
このように首実検は念入りに進められたのであった。
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そして、最後に家康は・・・・
左衛門にあやかれよ。
と言い、幸村の頭髪を抜いて諸将らにとらせた。
そして、皆がその武勇にあやかりたいとして、彼の頭髪を抜いて持ち去る者が絶えなかったという。
最後に。以下が幸村を称賛した最も有名な文面であろう。(『薩藩旧記雑録後編』)
「真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申事に候」