【富山県】富山城の歴史 浮城の異名を持ち、続日本100名城の一つに入る、富山県を代表するお城

 現在の城址公園の6倍以上の広さを誇っていた「富山城」は、神通川を利用して防御を固めていたことから「浮城」という異名を持っていました。今回は廃城、再建などが繰り返されて今に至る富山城の歴史についてお伝えしていきます。

起源は室町時代前期?

 これまでの通説では、越中西部を治めていた守護代神保氏が、同じく東部を治める守護代の椎名氏と対立し、椎名領の新川郡への侵出のため、神保長職が天文12年(1543)に、水越勝重に命じて築城させたのが富山城の起源とされてきました。

 しかし近年の発掘調査によって、室町時代前期の遺構が発見されたことから、富山城の起源はさらに昔にさかのぼることがわかってきています。神保氏の時代には今の富山城城址よりも1kmほど南に位置していたという説もありましたが、こちらも発掘調査によって現在の位置と変わらないことがわかっています。

富山城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 富山城は越中の中央に位置しており、さらに重要な街道が交差する要衝だったために戦国時代には争奪戦が繰り広げられており、椎名氏だけでなく、越後の上杉氏や一向一揆衆など神保氏が警戒しなければならない相手は多くいました。

 そこで神保氏は越中侵攻を目論む上杉謙信に対向するため織田信長に従いますが、天正4年(1576)に上杉勢が富山城を落とし、神保氏は城から落ち延びました。謙信はその後、城代として小笠原長隆と上杉信定を入城させて守りを固めています。

佐々成政によって生まれ変わる

 信長は謙信の死後、越中を攻めて制圧。天正10年(1582)に佐々成政に越中を与えています。

 成政は富山城の大規模改修工事を行いました。神通川の流れまで変えて富山城の防備を固めたのです。そのため、水に浮かぶお城のように見えたことから富山城は浮城と呼ばれました。

 本能寺の変で信長が横死すると、成政は柴田勝家と共に羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立します。勝家は天正11年(1583)に秀吉に滅ぼされると成政は降伏し、一時は越中を安堵されます。

 しかし翌年に徳川家康と結んで叛旗を翻したために、天正13年(1585)に10万の大軍に富山城を囲まれ、またもや秀吉に降伏しました。この際に富山城は破却されています。

 富山城をその後に再建したのは前田利長で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功によって徳川家康から越中・能登の2ヶ国を与えられ、大規模な改修工事を行って新しい富山城に移り住みました。しかし、慶長14年(1609)には火災によって大部分を焼失してしまったために利長は高岡城に移り、替わって城代として津田義忠が入っています。

富山藩の誕生

 加賀藩主の前田利常は、寛永16年(1639)に二男の前田利次に越中10万石を与えて分家させ、ここに富山藩が誕生します。

 利次が富山城を修復して藩庁を置いたのは寛文元年(1661)ですから、富山藩が誕生してかなり月日が経過していますが、これは富山城がもともと加賀藩の領地にあり、富山藩との領地交換などに時間がかかったためです。そしてここから先は富山藩主富山前田氏13代に渡る居城として明治維新まで機能していくことになります。

 富山城内には多くの建築物が建てられていますが、その中で最も豪華だったのは富山藩主10代目・前田利保が建設した千歳御殿だと伝わっています。

 千歳御殿は江戸大名屋敷の流行を取り入れ、能舞台まで設けて嘉永2年(1849)に完成しましたが、安政2年(1855)の大火で焼失してしまいました。焼失を逃れた千歳御門だけは移築されて現代まで残り、平成19年(2007)に富山城址公園に再び移築されて戻っています。

富山城址公園の誕生

 富山城は明治4年(1871)の廃藩置県により廃城となり、本丸御殿は富山県の庁舎として利用されることとなりましたが、明治32年(1899)に起きた火災で焼失しています。また、それ以外の建築物は解体され払い下げられており、水堀の大部分も埋め立てられました。

 明治15年(1882)には城址公園としての整備が一端始まりますが、富山県が独立し、城址に富山県庁が置かれたことで公園整備は廃止されています。

 昭和14年(1939)になってようやく富山城址は都市計画公園に指定され、翌年には開園しましたが、江戸期の富山城の広さから比較すると6分の1ほどです。本丸と西の丸部分だけが城址公園として残っています。

 昭和20年(1945)には空襲で城址公園の建物や植物は全焼してしまいますが、昭和29年(1954)に富山産業博覧会が開催され、この際に模擬天守として建設されたものが現在も富山市立郷土博物館として利用されています。

 その後、平成15年(2003)から耐震改修工事を2年がかりで行うことになり、平成17年(2005)にリニューアルオープンしました。ですからこちらの富山城は、江戸期の富山城とはまったくの別物です。彦根城や犬山城などの天守を参考にデザインされたもので、鉄筋コンクリート構造になっており、「美の殿堂」と名付けられるほどの美しさを誇っています。

 富山城址公園整備はその後も進められ、千歳御門の移築の他、本丸東側の堀や搦手門の枡形などの復元が行われて平成26年(2014)に完成しました。

おわりに

 このように破却や廃城、度重なる火災によってその多くを焼失してしまった富山城。ただ、現存する模擬天守は富山県のシンボルとして半世紀以上も維持され続けています。

 他のお城や城址公園とはまた違った趣がありますので、いろいろな名所を巡られている人にとっては新鮮さを味わえる場所ではないでしょうか。

補足:富山城の略年表

出来事
天文12年(1543)神保長職によって築城される
天正4年(1576)上杉謙信が落城させ、城代として小笠原長隆と上杉信定を入れる
天正10年(1582)織田信長が越中を制圧し、佐々成政が城主となる
天正13年(1585)豊臣秀吉が富山城を囲み、成政は降伏。富山城は破却される
慶長5年(1600)前田利長が徳川家康より越中と能登の2国を与えられ、富山城跡の大規模改修を行う
慶長14年(1609)火災により焼失し、利長は高岡城に移る。富山城には城代として津田義忠が入る
寛永16年(1639)前田利常は二男の前田利次に越中を与えて分家させ、富山藩が誕生
寛文元年(1661)富山城を修復して藩庁を置く
嘉永2年(1849)10代藩主前田利保が千歳御殿を建設
安政2年(1855)大火によって千歳御殿焼失
明治4年(1871)廃藩置県により廃城。本丸御殿は富山県庁舎となる
明治15年(1882)城址保存のため公園としての整備開始
明治16年(1883)富山県が独立し、城址に県庁が置かれる。公園整備廃止
明治32年(1899)火災により旧本丸御殿焼失
昭和5年(1930)城址にあった県庁が火事で全焼し、新築移転される
昭和14年(1939)城址は都市計画公園に指定される
昭和15年(1940)富山公園として開園
昭和20年(1945)空襲により公園の建物や木々は全焼
昭和29年(1954)富山城址公園で富山産業博覧会開催。模擬天守(後の富山市郷土博物館)が建設される
平成16年(2004)国の登録有形文化財に登録される
平成17年(2005)富山市郷土博物館リニューアルオープン
平成26年(2014)富山城址公園完成
平成29年(2017)続日本百名城に選定される


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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