丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

【逸話 LINEトーク画風】信玄、山本勘助を家臣に取り立てる(1543年)

戦ヒス編集部
 2019/01/01

山本勘助の登用

  • 【原作】『名将言行録』
  • 【イラスト】Yuki 雪鷹
  • 【脚本】戦ヒス編集部

天文12年(1543年)3月のこと、重臣の板垣信方が牢人であった山本勘助を家臣に取り立てるように推挙すると、信玄はすぐに勘助を招いて200貫の領地を与えた。

━━ 甲斐国・信玄の居城 ━━

牢人を取り立てていきなり多くの知行を与えるという異例のことに、家中では疑問に思う者もおり、原昌俊がこれを諌めた。

原昌俊

殿!いきなりそれだけの知行を与えるのはいかがかと存じまする!

原昌俊アイコン
武田信玄アイコン

武田信玄

そちが不審に思うのももっともなことだ。
わしは小さい頃より武家の棟梁になって天下を統一しようと思い、小山田備中守と相談して、14のときにひそかに三河国牛窪にでかけて行き、勘助と主従の契約を結んだ。

原昌俊

なんと!!

原昌俊アイコン
武田信玄アイコン

武田信玄

それからは勘助を武者修行と称して諸国をまわらせ、各地の風俗を探させたのだ。

また、各地の要害を絵図に描かせたゆえ、わしはまるでその地に行ってみているように詳しく知っておる。これは勘助の功ではないか?

原昌俊

むうう・・。

原昌俊アイコン

昌俊は返す言葉もなく、家中の者らも勘助の話を聞いて感歎した。そして信玄は続けて話した。

武田信玄アイコン

武田信玄

父・信虎を廃した後は勘助を目付として駿河に置いておった。勘助ほどの者が仮に今川家に仕えようと望んでいたとして、なぜ9カ年もの長い間、それを成せずに駿河に留まっているのか。必ずや自ら今川家へ仕官の道を求めて成し得たはずだ。

今ではわしの勇名は近隣にひびき、今川家ごときは少しも恐れぬ。だから信方の推挙を幸いに、いま呼び寄せたわけだ。

武田信玄アイコン

武田信玄

勘助という者は当代弓矢とって随一であろうぞ。あの男は今後はわしの師範であるから、そなたらも水魚の交わりをして、ますます軍学に励むがよい。

原昌俊

それはたいした者にござりまするな。

原昌俊アイコン

こうして原昌俊は勘助のことを褒め、納得して退出した。

一方であるとき、長坂光堅が信玄の側近として召しあげられる勘助を妬んで言った。

長坂光堅

最近、勘助をお近づけになられますことは、今川家の思惑もあるかと存じます。

長坂光堅アイコン
武田信玄アイコン

武田信玄

「謀のある者は近づけよ」ということがある。今川がなんと思おうが、わしは勘助の言うことに耳をかたむけようぞ。

長坂光堅

ぐくっ・・・。

長坂光堅アイコン

このように信玄は勘助に絶大な信頼を寄せていたのであった。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

おすすめの記事


 PAGE TOP