義元は足が短く、胴は長く、片輪(=不完全、未熟、欠点などの意)だったことから、臨済寺の喝食(=食事の際の世話係)に入れられたという(『武功雑記』)。
『集覧桶廻間記』によれば、公家のように口にお歯黒をつけ、置眉や薄化粧をしていたという。
武術に関しては幼少期に出家してその習得に恵まれなかったこともあって優れなかったという。
義元の文化人としての資質は天性のものであり、幼少のころから学問を学んで中央の知識人と多く交流し、若くして相当の教養を身に付けていたといい、今川氏歴代有数の文化人となった。
和歌を非常に好んで毎年のように和歌の会に参加しており、その上、今川氏の歌会始(=うたかいはじめ。年の始めに行う歌会)は今川一族、今川重臣、そして今川領に駐在していた中央の文化人らによって構成され、華やかな会が行なわれていたという。
桶狭間の戦いに出陣する前夜、夢の中で義元の異母兄・玄広恵探があらわれ、「今回の出陣はやめたほうがいい」と告げたという。また、義元が出陣して藤枝を通過するときに、恵探の亡霊が現れて行く手を遮ったため、義元が刀に手をかけたという(『当代記』)
桶狭間の戦いに向けて、沓掛城を出馬した際、道中で落馬したという。
桶狭間合戦の緒戦に勝利した義元は大いに喜び、油断して酒宴乱舞したという(『集覧桶廻間記』『尾州桶狭合戦略記』など)。
義元は茶の湯を嗜んでいたようであり、桶狭間の戦いで信長に強襲されたとき、義元陣営は茶会を催していたという(『老人雑話』)。
義元を襲撃してきた服部一忠を斬りつけて撃退しており、さらに毛利良勝が襲撃してきた時も幾度かやり合った末、討ち取られる直前には良勝の指を食いちぎったという。