「どうする家康」織田信長はなぜ徳川家康らに上洛することを求めたのか?

※永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じ、兵を挙げて上洛した。
※永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じ、兵を挙げて上洛した。

 大河ドラマ「どうする家康」第13話「家康、都へゆく」では、徳川家康が上洛する様が描かれていました。永禄13年(1570)1月23日、家康は織田信長から上洛(都へ上ること)を命じられます。信長が上洛を求めたのは、家康だけではなく、伊勢の北畠具教、飛騨の姉小路嗣頼、その他、諸国の諸侯も含まれていました。

 宮中の修理や武家(将軍)の御用、その他、天下静謐のため、2月中旬に上洛するので、各々も、遅れることなく、上洛するようにとの命令が信長から下ったのです。去る永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉じ、上洛。義昭を室町幕府の15代将軍に就けることに貢献していました。信長は、朝廷(天皇)と幕府(将軍)への奉仕と天下の静謐こそ、自らの役割であると認識。

 将軍・義昭も、約1年程前に、例えば越後の上杉謙信に対して、信長と相談しつつ、天下静謐のため、尽力するべきことを求めています。信長にしてみたら、将軍の後ろ楯もあり、諸国の大名を、自分の名において、動員する権限を有し、永禄13年にそれを実際に行使したと言えましょう。

 ちなみに、同年の正月23日、信長は将軍・義昭に、いわゆる「五ヶ条の条書」を認めさせています。それは「諸国へ将軍の御内書(将軍が発給した文書)を送る際は、信長に仰せ聞かせられ、信長の書状も添えること」「これまでの義昭のご下知(命令)は、全て、破棄すること。その上でよく考えて、決めるべきこと」「将軍家に対し、忠節ある者に、恩賞・褒美を与えたくても、領地などがない場合は、信長の領地からでも与えても良い」「天下のことは、全て信長に任せられたのだから、誰であっても、上意(将軍の意見)を聞くには及ばない。信長の考えで成敗する」「将軍は、天下静謐や、朝廷のことを、油断なく、務めれば良い」との内容でした。

 信長と言えば、上洛前から「天下布武」の印判を使用し始めたことで有名ですが、この場合の天下というのは、日本全国の意味ではないと、近年、言われるようになりました。では、天下とはどういった範囲を指すのか。天下とは、都を中心とした五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津国)のことだというのです。確かに、朝廷の安穏や、幕府の再興には「天下」(五畿内)の平定こそが重要でした。

 「天下のことは、全て信長に任せられたのだから、誰であっても、上意(将軍の意見)を聞くには及ばない」とは将軍・義昭にはキツイ文言ではあったでしょうが、我こそが天下を率先して治めていくという信長の強い覚悟を窺うことができます。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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