元亀3年(1572)は、武田が最大版図を築く年となる。
既にこの頃の信玄は、将軍義昭をはじめ、本願寺顕如や浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの反織田勢力と連携をとり、織田信長打倒に向けた上洛作戦の準備をすすめていた。
前年末に、武田・北条間の甲相同盟が再び復活したのもあり、同年正月には北条氏が領していた駿河・興国寺城を武田氏に引き渡すなどの動きがあった。一方でこれに伴い、北条氏と手切れになった上杉謙信は、すぐさまに西上野へ攻め込んだようだ。このとき、信玄も西上野に出陣し、両軍は利根川を挟んで対峙している。
なお、正月14日には、顕如から信玄に太刀・腰物・黄金等が送られ、救援を要請されている。(『顕如上人御書札案留』)。
同年8月には、木曽衆を飛騨国に出兵させ、上杉方の江馬輝盛を討伐させている。
これは、この直後に武田氏が美濃国郡上郡の遠藤氏を調略で内応させたことから、「信濃国⇒飛騨国⇒美濃国⇒近江・越前」という連絡路
を確保したとの見方もあるようだ。なお、同月に武田軍の西への遠征(西上作戦)が予定されていたが、信玄が発病してことで延期になったという。
実際に西上作戦が開始されたのは、9月29日であり、この日に先陣の山県昌景隊が、10月3日には信玄本隊が甲府を出発している。
実はこの頃、まだ織田と武田の同盟関係は続いており、両者は表面的には友好関係にあったのである。
実際、信長は将軍義昭とともに信玄と謙信の和睦斡旋を行っており、同10月には謙信から同意を取りつけていた。そして、10月5日付の信玄宛ての書状で「甲越和与の調停中であるから、越後への出馬は止めていただきたいと考えていたところ、同意を得て喜ばしい」旨を信玄に伝えている。
信玄の西上作戦は、軍勢を3つの方面に分け、それぞれ美濃・三河・遠江から侵入するルートをとって、織田・徳川領を席巻していった。
それでは各隊の行動を簡潔に時系列で追ってみよう。
まずは先陣となった山県昌景隊。
次に、山県隊から途中で分かれた秋山虎繁隊。
最後に信玄本隊。
以上が西上作戦の大体の流れである。
全体がわかったところで、「一言坂の戦い」・「二俣城の戦い」・「三方ヶ原の戦い」に関しては、もう少し詳しく以下に記しておく。
信玄が袋井へ侵攻してきた際、徳川家康は敵状視察のために大久保忠世・本多忠勝らを見附(磐田市)に派遣し、家康自身も見附に向かった。
ところが、見附の東に位置する太田川あたりで武田軍に遭遇。家康らは武田軍の追撃をかわそうと、見附の町に火を放って退却時間を稼ごうとするが、一言坂で追いつかれた。
だが、殿を務めた本多忠勝の奮戦もあってこれを凌ぎ、家康は天竜川を渡って、浜松城へ無事に帰還したという。
--「家康に過たるものは二つあり 唐の頭に本多平八(=忠勝)」
これは信玄の近習・小杉右近助が、この戦いでの本多忠勝の働きを称えた詩であり、見附の坂に立て札をたてて書き記したと伝わっている。唐の頭とは、ヤクの毛で作られた兜を指し、珍しい輸入品で家康が愛用していたという。つまり、家康に唐の頭や忠勝は過ぎたるものということである。
この戦いにおける成果は、西上作戦の戦略上で注目すべきことであったらしい。
すなわち、武田軍が袋井・見附一帯を制圧したことにより、遠江東部の有力な徳川勢力(掛川城の石川家成や高天神城の小笠原氏助など)を、家康ら西方の浜松城の主力から遮断することに成功したのである。
この後、信玄本隊は天竜川沿いを北上して匂坂(磐田市) を奪取し、ここに穴山梅雪を置くと、本隊はさらに進んで合代島(磐田市)に布陣。そして二俣城の攻略に加わることになる。
二俣城への攻撃の開始時期は定かでないが、信玄から朝倉義景宛の11月19日付の書状により、この頃に二俣城包囲中だったことがわかっている。信玄はこの書状で義景に以下のようなことを伝えている。
合代島(磐田市)に本陣を敷いた信玄は、子の武田勝頼を大将として二俣城への攻撃を開始。なお、別働隊の山県昌景も合流して包囲戦に加わったとみられる。しかし、二俣城が堅固だったことから、その攻略は思うようにすすまなかったようだ。そこで、信玄は馬場信春らに城の検分を行わせ、力攻めをやめて水の手を断つ作戦に切り替えることにした。
二俣城は、水を汲むために城から天竜川に釣瓶縄を降ろしていたが、武田軍は川の上流から何度も筏を流し、天竜川に構築された井楼(せいろう)を破壊して水の手を断ったという。そしてついに12月19日に降伏・開城となり、敵将の中根正照らは浜松城に退いたのである。
戦後、信玄は二俣城の修築を行い、ここに信州先方衆の依田信蕃らを押さえとして配備すると、12月22日の早朝には出発し、三方ヶ原の戦いへと赴くことになる。
12月22日早朝、武田軍は家康の本拠・浜松城へ向けて進軍を開始した。
信玄は天竜川を渡河すると、秋葉街道を南下して浜松城に迫ったが、進路を西に転じて欠下から三方原台地に上り、追分に至った。
ここで信玄の軍は大休止を取り陣形を整えたらしく、その後は北上して浜松城から遠ざかる姿勢をみせた。
これに対し、家康は武田軍を追撃するために浜松城を出陣したが、信玄は全軍を三方ヶ原に展開させ、徳川軍を待ちかまえていたのである。信玄は最初から徳川の軍勢を誘いだし、襲撃する作戦だったと考えられている。
家康としては、信玄の目的は浜松城攻撃ではないと判断し、武田軍が祝田の坂を降りるところを上から攻めるつもりだったようだが、逆に信玄の策に嵌ってしまったのである。
両軍の兵力については、徳川勢は平手汎秀・佐久間信盛ら織田の援軍3千を加えて総勢1万1千程、武田軍は総勢2・3・4万と諸説あるが、いずれにしても武田方が優勢であることにはかわりない。
戦いは武田軍が飛礫(つぶて)を投げて徳川軍を挑発。これに徳川軍はこらえきれずに攻撃を仕掛けて全面的な戦闘となったという。
序盤は徳川軍に勢いがあったが、やがて武田軍が盛り返すと、終わってみれば徳川軍を総崩れにした武田軍の大勝となった。
家康は命からがら浜松城に逃げ帰り、一時は討死したとの虚報も伝わって城内は混乱に陥ったという。なお、徳川方の損害は、300余、1000余など諸説あって定かではない。また、織田方の平手汎秀は討死し、佐久間信盛もほとんど戦わずに敗走したという。
このほか、『甲陽軍鑑』によれば、信玄は平手汎秀の首級を信長に送り、信長に対して「同盟中であるにもかかわらず、敵国の家康に援軍を送るのは許し難い」として、正式に同盟を破棄したという。
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