「どうする家康」信長死後の大混乱 意外な出来事が家康の甲斐進出の決め手に?

 大河ドラマ「どうする家康」第30話は「新たなる覇者」。信長死後の混乱と、着々と勢力を付けていく秀吉、そして家康と北条氏との戦いが描かれました。 天正10年(1582)6月2日、織田信長は、家臣の明智光秀に急襲され、京都・本能寺で死去します。家康は「信長死す」の報告を受け、少数の家臣とともに、いわゆる「伊賀越え」をして、堺から領国の三河に辿り付くのです(6月5日)。

 家康は、光秀を討つため、岡崎を出陣しますが、そこに届いたのが、羽柴秀吉からの報せでした。秀吉は、光秀を討ったこと、家康に軍を退くことを要請したのです。

本能寺の変が起きた当時の武田旧領の支配マップ(戦国ヒストリー編集部作成)
本能寺の変が起きた当時の武田旧領の支配マップ(戦国ヒストリー編集部作成)

 信長の死により、関東甲信も混乱状態となります。上野国(現在の群馬県)にいた織田家臣の滝川一益は、小田原の北条氏の軍勢と戦い大敗(6月19日、神流川の戦い)。織田家臣・河尻秀隆は、武田旧領の甲斐国を与えられていましたが、国内にて国人による一揆が勃発。『三河物語』によると、徳川の家臣・本多忠政は、河尻と 知り合いであったようで、河尻に対し「もし、一揆が起これば、援軍を派遣しよう」と伝えていたとのこと。河尻は言葉では「有り難い」と忠政に伝えますが、内心は(忠政が一揆を起こして、それに乗じ、私を討とうとしているのでは)と疑っていました。

 そして、忠政を誘い出し、油断して寝ているところを殺してしまうのです。河尻は酒を用意して、忠政をもてなし、夜になり、蚊帳をつって寝ているところを長刀で突き殺したとされます。これに怒った忠政の家臣らは、一揆と結んで蜂起。大挙して、河尻のところに押し寄せ、河尻秀隆を殺してしまいます。

 河尻の死により、甲斐は「無主の地」となりますが、その状況を見て、家康は素早く動くのです。甲斐や信濃に武田旧臣を送り込み、地元の国衆を懐柔。続いて、酒井忠次・大久保忠世ら徳川の家臣を派遣し、甲斐・信濃を手中にせんとしたのでした。

 だが、そこに現れたのが、小田原の北条氏です。北条氏直(北条氏政の子)が率いる2万の大軍は、信濃そして甲斐に侵攻。甲斐の黒駒(山梨県笛吹市)にて、徳川軍と激突します(8月12日)。北条氏忠(北条氏政の弟)は、約1万の軍勢を率いていましたが、これを徳川の家臣・鳥居元忠らが破るのです。討ち取った北条方の首500余りは、北条の陣の方向に向けて並べられました。

 これを見た北条方の兵士は、親族の首をみつけて、大いに嘆き悲しんだと伝わります。戦意を削がれた訳です。その後も北条氏にとり、不利な状況が続いたので、北条氏直は家康に和睦を持ちかけます。家康はそれを受け入れたことにより、徳川・北条の間に同盟が成立します。家康の次女・督姫(母は西郡局)は、北条氏直の正室として嫁ぐことになり、両者の同盟は強化されるのです。

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。