黒田官兵衛の人柄がわかる!?LINEトーク風に逸話をご紹介

戦ヒス編集部
 2019/01/01
黒田官兵衛のイラスト

NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」で一躍有名になった戦国武将の黒田官兵衛。本記事では主に『名将言行録』などの後世の編纂物をもとにして、LINE風の対話形式で官兵衛のいくつかのエピソードを再現してみました。

内容の信ぴょう性はともかく、官兵衛の人柄がなんとなく伝わりましたら幸いです。

  • 【原作】『名将言行録』
  • 【脚本】戦ヒス編集部
  • 【イラスト】Yuki 雪鷹

黒田官兵衛、小寺政職の使者として信長に謁見(1573年)

※『名将言行録』より

天正元年(1573年)、黒田官兵衛がまだ、播磨の御着城主・小寺政職に仕えていた頃、播磨は東に織田、西に毛利、南方に三好といった大国に囲まれており、小寺氏は生き残りのために三家のいずれかに臣従する必要性に迫られていた。

これはこうした情勢の中で、小寺政職が老臣たちを集めて意見を求めたときの話である。

━━ 播磨・御着城 ━━

小寺政職

今の天下の情勢をみると、織田・毛利・三好の三家が鼎の足のようになっておる。

一体どれに付けばよいのやら・・・。おのおの心底を隠さずに申してみよ!

小寺政職アイコン

すると官兵衛が前にでて意見を述べた。

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

今後、天下は必ずや織田が握ることになるでしょう。

小寺政職

ほう?それはなぜじゃ?

小寺政職アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

三好は主君を滅ぼした罪がございますゆえ、天はきっと三好家を滅ぼすでありましょう。
毛利は一門に吉川・小早川の両翼があるとはいえ、輝元が国元にいますから軍法ははかばかしくありませぬ。

それに引き換え、信長は尾張半国から身を起こし、足利義昭を取り立てて将軍にまでさせたことから、多くの者は信長に心を寄せております。いまでは山城をも手に入れており、のちに天下をとるのは必ずや織田でございましょう。

小寺政職

・・・他の者たちはどうじゃ?官兵衛の言うようになると思うか?

小寺政職アイコン

老臣たち

老臣A:うむ、やはり織田じゃ!わしも官兵衛の意見に賛成じゃ!

老臣B:わしもじゃ!

老臣C:・・・・わ、わしもそう思う。。

家臣団アイコン

小寺政職

そうか!皆同じ意見のようじゃのう!!

わしも決めた!官兵衛の言うとおりにしようぞ!!
さっそくじゃが、官兵衛。お主が遣いとして信長に伝えてまいれ。

小寺政職アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

ははっ!

こうして信長の才を高く評価していた官兵衛の進言は受け入れられ、秀吉の取次で岐阜城へ赴き、信長と対面した。

━━ 美濃・岐阜城 ━━

織田信長

そちが黒田官兵衛か。猿(=秀吉)から話は聞いておるぞ。

織田信長アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

ははっ!官兵衛にござりまする。

ほにゃらがほにゃらがほにゃらがほにゃらが・・・・

・・・と、官兵衛は信長に臣従する旨を話すと信長は大いに喜び、その後も色々と話をして時を過ごした。そして帰り際になって信長は、

織田信長

そのうちにわしが中国を討つときには必ずや、そちを先鋒にしよう。

織田信長アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

ははっ!それがしには身に余る役、そのときには恐れながら受けさせていただきます。

こうして官兵衛は承諾し、秀吉とも助け合うことを約束して帰った。

信長の死の知らせ(1582年)

※『名将言行録』より

━━ 備中高松城 ━━

信長の死の翌日、京都の長谷川宗仁から官兵衛のもとに飛脚がやってきた。

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

・・いかがしたのじゃ?

飛脚

はっ!それが実は・・・・・。

飛脚アイコン

どこか伏し目がちの飛脚はそう言いつつ、手紙を官兵衛に渡した。そして官兵衛が手紙に目を通すと・・・

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

!!!
こっ、これは真のことか!?

驚きを隠せない官兵衛は飛脚に対し、

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

お前はなんて早くきたことか!
むむうっ。このことは決して誰にも話してはならぬぞ!

飛脚

ははっ!

飛脚アイコン

官兵衛は飛脚に口止めをして、秀吉のもとへ赴いて、その手紙を渡した。

秀吉

!!!!!
う、うそじゃ!まさか・・・こ、こんなことが・・・。

豊臣秀吉アイコン

あまりに突然の出来事に秀吉は絶句し、そして深い悲しみに覆われた。

そして、まだ秀吉がなんとも言葉ならないうちに、官兵衛は秀吉に歩み寄って、秀吉の膝をトントン と打って "ニコッ" と笑いながらこう言ったのである。

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

殿!ご運が開かれる手始めでございますな。どうかうまくなされませ。

秀吉

!!!

豊臣秀吉アイコン

しばらくして、ようやく秀吉が言葉に出した。

秀吉

・・・官兵衛よ。
その飛脚が万一でも誰かに語り、敵に漏れでもしたら都合が悪い。急ぎで殺すのじゃ!!

豊臣秀吉アイコン

そう命じた。これに官兵衛は心の内で考えた。

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

(この飛脚がわずか2日足らずでここへ来たということは、まさに天の遣いだ。殺すべき科もなく、むしろ功ある者だ。)

と・・・。そして官兵衛はこの飛脚を自分の陣へ連れて帰り、秀吉の命に背いて隠し置いたのであった。

一方、秀吉はこの一件があってからというもの、官兵衛に心を許さなくなったという。

中国大返しの際の官兵衛(1582年)

※『名将言行録』より

━━ 「備中高松城~京都」の途次 ━━

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

殿!姫路に寄ることは少しの間ですら、よろしくはありませぬ。

秀吉

うむ。しかし・・・。

豊臣秀吉アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

かりそめの旅でも家をでるのは遅れがちになってしまうのが人情というもの。今回は信長公の敵討ちのための行軍でございます。
筒井・細川といった明智と親交のある者たちが敵方に馳せ参じたならば一大事となりまする。

秀吉

そうじゃな・・。

豊臣秀吉アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

こうした連中が明智に与するかどうか迷いのあるうちに急ぎ、軍を進めるべきかと・・。

秀吉

さすがは官兵衛じゃ!よくぞそこまで考えてくれた。1人でも姫路に寄るものがおれば、誅しよう。ただちにこのことを皆の衆に伝えるのじゃ!

豊臣秀吉アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

ははっ!承知いたしました。

そして官兵衛は使者を呼び、手筈を整えていった。

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

よいか?姫路には決して立ち寄らないよう全軍に漏れなく伝え、先に姫路に行って町人らに粥を支度させて待機させておけ!

使者

はっ!

家臣アイコン

官兵衛は事前に人を走らせ、姫路の町人らに対して河原にでて粥を支度させ、兵士をもてなすように命じたのである。

姫路の町人たち

町人A:秀吉様一行が大勢でここへやってくるって?
町人B:そうらしいぞ。なんでも飯や肴などを河原で用意して待っていろとのことらしいぞ。
町人A:はあ?一体なにごとなんじゃろうかのう・・・。
その他大勢:がやがやがやがや・・・・・

町人たちアイコン

こうして姫路に着いた秀吉一行は姫路城には立ち寄ることなく、明智討伐へ向かったのであった。

四国攻め先鋒の黒田官兵衛、長宗我部の策を見破る!(1585年)

※『名将言行録』より

これは天正13年(1585年)に行なわれた秀吉による四国攻めにおいて、黒田官兵衛が四国の覇者・長宗我部元親の策を見破った話である。

秀吉の軍勢が迫ろうとする中、長宗我部方は備えとして阿波国の白地城に本陣を置き、讃岐には植田城(=現在の香川県高松市)の構築をしていた。

一方、秀吉から四国攻めの先鋒を命じられた官兵衛は、淡路から讃岐へ上陸すると、屋島で仙石秀久や宇喜多秀家の軍勢と合流。官兵衛は植田の城を攻めようとして見分し、翌日の軍議で諸将に向かって次のように主張した。

── 讃岐国──

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

この国の敵将をみるかぎり、どうやらはかばかしい将はいないようだ。国中の支城などを落としたとしても、功をたてたということにはならぬ。

まずは阿波へ向かい、秀長殿(=この合戦での総大将。羽柴秀長)と話し合いの上、土佐方の兵を攻め討とう。阿波が落ちてしまえば讃岐の敵は戦わずとも、ちりぢりばらばらになるであろう。無用な場所に兵力を使っても無益なことだ。

家臣団アイコン

諸将たち

将A:異議なしじゃ!

将B:わしも異議はない。さすがは官兵衛どのじゃ!

その他大勢:がやがやがやがや・・・・・

こうして皆が同意し、官兵衛一行は植田城攻めは行なわずに阿波国へ進軍することになった。

元親は本陣の阿波・白地城と讃岐・植田城の間に位置する由良山(=現在の香川県高松市由良町)に城を築き、おとりの兵を置いていた。

秀吉の大軍を植田のせまい場所に誘い込んで城を攻めさせることで、これを軍を分けて挟撃し、夜戦をもって勝利を得ようと企んでいた。

── 元親の本陣 ──

元親の家臣

申し上げます!宇喜多秀家、仙石秀久、それと黒田官兵衛ら合わせて数万の軍勢が阿波に入ったようであります。

家臣アイコン

長宗我部元親

なんだと?植田城攻めをやめたというか!!
・・・そうか、黒田官兵衛だな。

長宗我部元親アイコン

元親の家臣

??

家臣アイコン

長宗我部元親

宇喜多秀家ならば大軍の兵を頼って奢るであろう。また、仙石秀久ならば去年わが軍に負けておるから怒りにまかせて迫るであろう。

わしはこの2人の軍を植田城に誘い込む手筈だったのだ。

長宗我部元親アイコン

元親の家臣

では?まさか・・?

家臣アイコン

長宗我部元親

そうだ!黒田官兵衛という者だ!!

わしは阿波からでて方策をたて、軍功を世に知らしめて上方の面目にしようと計ったのが、黒田に見抜かれたということだ。

無念千万!

長宗我部元親アイコン

官兵衛は元親の武略を見抜いていたのである。

官兵衛への畏怖の念を語る秀吉(1592~93年頃)

※『名将言行録』より

これは天下を取った秀吉がある時、ふざけて近臣たちに「自分が死んだ後は誰が天下を保ったらよいか?」を聞いたときの話である。

豊臣秀吉アイコン

秀吉

ふっふっふっ(笑)。
お前たちはわしが死んだら誰が天下を保ったらよいと思うか、遠慮なく申してみよ!

近臣ら

近臣A:それがしは内府殿(=家康)かと。

近臣B:いや、わしは小早川殿(=小早川隆景)のほうが・・・

近臣C:いやいや、前田殿(=前田利家)であろう!

その他大勢:がやがやがやがや・・・・・

家臣団アイコン

皆各々に言ったが、いずれも政権の五大老(徳川家康・前田利家・小早川隆景・毛利輝元・宇喜多秀家)の範囲内であった。
すると秀吉が首を横に振ってこう言った。

豊臣秀吉アイコン

秀吉

いや、一人だけ天下を得る者がおる。お前たちはわからぬのか?

近臣ら

近臣A:わかりませぬ。

近臣B:一体他に誰がおるというのじゃろう・・。

その他大勢:がやがやがやがや・・・・・

家臣団アイコン
豊臣秀吉アイコン

秀吉

それはあのチンバ(=黒田官兵衛のこと)じゃ!

近臣ら

近臣A:え!?

近臣B:あのお方はわずか十万石です。どうして天下人になれましょうか。

その他大勢:がやがやがやがや・・・・・

家臣団アイコン
豊臣秀吉アイコン

秀吉

お前たちはあのチンバのことをよくわかっておらぬのだ。

わしがかつて備中高松城を攻めていたとき、右府(=信長)の訃音に接し、そのときは昼夜問わずに東へ向かい、明智を討った。それ以来、戦は大小数回にあった。

近臣ら

近臣A:・・・。
近臣B:・・・。
その他大勢:・・・・・。

家臣団アイコン
豊臣秀吉アイコン

秀吉

・・・わしは戦に息が詰まるような思いに迫られ、謀略もあれやこれやと決めかねていたことも度々あったのじゃ。
そうした時あのチンバに聞くとたちまち裁断を下すのじゃ。

少し軽率なところもあって荒っぽいが、それはわしが練りに練ったものと "ことごとく" 似ていたのじゃ。

秀吉は息つく暇もなく、語り続けた。

豊臣秀吉アイコン

秀吉

また、あるときは想像を絶する意表をつくものが数回あった。
あの男の心は強く、よく人に任せて度量が広く思慮深い。これは天下に比類なきものじゃ!

わしが生きている間でも、あの男が天下を望めば、すぐにでもそれを得るであろう。

近臣ら

近臣A:・・・(ゴクリ)。

家臣団アイコン
豊臣秀吉アイコン

秀吉

わしがあの男をみていると、つまらぬ諸大名らとも親しくし、あえて偉ぶる様子もない。才智ある者とは交を結び、相手が下の者でも礼儀を欠くということもない。

頃合いをはかり、他の者に力の限り働かせる。半ば手中にした際には一気にのしかかり、一挙に手中に治めるやり口はあの男の最もすぐれているところじゃ!

と言った。

この話をある人から伝え聞いた官兵衛は次のように思った。

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

(南無三、これはわが家の災いのもとだ。わしの頭の瘡が秀吉に狙われているのだな。
そうと知っては子孫のために将来の計をたてねばならぬな・・。)

そして文禄2年(1593年)、官兵衛は髭を剃って出家して "如水" と号したのであった。

官兵衛、自己評価は中ぐらい?(1592~95年頃)

※『名将言行録』より

これは、一躍秀吉の後継者として2代目関白となった豊臣秀次と、黒田官兵衛が対話したときの話である。

秀次

官兵衛。今川義元公の教訓をみたか?とても面白いものだぞ!

豊臣秀次アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

まだ一見しておりませぬが、それは君には必要のないことでございます。今川を真似ようとなさるより、太閤殿下を真似なさるべきではござりませぬか?

秀次

そうは言っても太閤殿下のようにはなかなかできるものではない。だから今川などを真似てみたいのだ。

豊臣秀次アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

それはやせ我慢(=卑下すること)と申しましてよくない事でござりますぞ!
殿下にも勝ろうと思うべきことに存じまする。

秀次

では聞くが、そなたは自分でどの程度の器量をもっていると思っているのだ?

豊臣秀次アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

・・・中ぐらいに思いまする。

秀次

中ぐらいとは?そのわけを言うてみよ。

豊臣秀次アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

それがしが上でしたら太閤殿下に仕え、そして天下を取ります。
また、下ではありませぬから、いまはこうして国を取って国持ち大名になっておるのです。

と答えたという。

官兵衛、キレキレの自論で家康の天下を予言(1592~97年頃)

※『名将言行録』より

これは天下を統一した秀吉がまだ存命中、黒田官兵衛が家康の天下を予言した話である。

あるとき、官兵衛は言った。

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

いま太閤殿下が行なっている仕方では豊臣は二代は続かぬであろう。

そして世は家康の天下になるだろう。

家臣たち

!!

家臣団アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

太閤殿下はご自分が成りあがり、古い傍輩や主筋の者を家臣にされた。殿下は "ツン" として威厳に満ちていては人々が親しんでくれないからと、たった一人の下僕を連れただけでも諸大名らの邸に赴き、町家などへも行かれたりする。

よい拍子が聞こえるところへは参られ、茶湯には押しかけるようなことをなさる。これに家臣らが先に行って止めさせると、殿下は立腹して「遊山をすることは天下泰平のもと。それを途中で止めるのはつまらぬことじゃ。」と言ってかえって自ら踊って茶を立てたりし、下の者に対してともに親しみなつくようになされる。

家臣たち

・・・・。

家臣団アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

滝川一益などは信長公のときの威光を損なわぬようにと、人々の見舞いに行っても行儀を崩さずに物もはっきり言いだすようにするため、人々は堅苦しく感じて自然と一益から遠ざかっていった。

一方で殿下は扱いがよく、いろいろ馳走してくれるため、皆が親しみを持ち、そして自然と天下が近づいてきたのだ。

家臣たち

・・・・。

家臣団アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

殿下がいよいよ天下を目前にされた頃、寄ってくる者により多くの知行を与えられるので、そうした者はついつい欲のために義を失い、殿下の下知に背かぬようになる。

織田家歴々の者をはじめ、天下の諸大名でさえその通りだ。しかし、いざという時に殿下に与する者はおそらくおるまい。

家臣たち

!!!

家臣アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

殿下が存命中は身の果報といい、武勇といい、どのようになさっても天下は治まるであろうが、子息の代になって殿下のような天下の治められようでは、ことごとく威光を失い、武功はもともとないから人々は軽んじ、再び乱世が起きる基となろう。

"それだと都合悪い" として威厳にふるまえば、「太閤殿下でさえこのようだったのに」と不満をもつ者、また、世間にはそういう窮屈なやり方に飽きる者がでてくるであろうし、その上知行や財を殿下のように与えられるようなことは無理であろう。

家臣たち

・・・

家臣アイコン
黒田官兵衛アイコン

官兵衛

そうなれば何かにつけて親しむ心はなく、大身の傍輩は先代(=秀吉のこと)からの弓矢の家々であるから、皆背いていき、世の乱れは必定となる。

年端もいかぬ幼いご子息だから、誰かがこれを守り立て、殿下の志を遂げることができようか。

殿下が天下を取ろうとしたため、人に親しみを深くされたことはもっともではあるが、天下を得た以上、いつとはなく威厳を重んじて行儀を正しくし、信と直に重きをおいて治められれば何とかなるであろう。
しかし、今のままでは二代は続くまいということだ。

黒田官兵衛アイコン

官兵衛

家康はいま天下で大身であることは当然、その身は老功で武勇の誉れは天下に並ぶものはおらぬ。
常日頃から律儀で皆から尊敬されている。また、生まれつき口不調な方だから、人が軽薄な行ないをしても無下に見下すこともなく、その者の心を汲み取って言葉にだしてあらわに喜ばれることもないので善悪ともに合わせて、家康と志を通ずる者も多い。

そうかと思えば、弓矢のことには人に口を挟ませない程の自信を持っておられる。
あるとき家康が、殿下の前で極めて容易な的を射抜いたことがあった。わしも可笑しかったが、大谷刑部(=大谷吉継のこと)が我慢しきれずに笑ってしまったとき、家康は「その方などは笑うに及ばぬ。太閤殿下へも長久手で手並みをおみせしたことのある拙者の弓だ。天下に我が弓の上手い下手を目利きできる者はいないはず。」とずばり言ってのけられたから、弓矢のことは自然と家康に一目置くようになり、人々もいつしか家康を恐れるという有様であった。

だから殿下の後の天下は必ずや家康に帰するであろう。

と。

そしてのち、世はその通りになったのである。

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん

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