秀吉が聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎えたとき(1588年)、豊臣政権の家臣内の序列は徳川家康(大納言)、織田信雄(内大臣)、豊臣秀長(権大納言)、秀次の順であり、秀次は4番目に位置していた。
その後、秀吉が小田原征伐(1590年)で北条を滅ぼし、信長の成し得なかった天下を統一すると、恩賞に不満をもった織田信雄は改易された。さらに、その翌年には秀吉の実弟で政権の要であった豊臣秀長が死没し、秀吉の嫡男・鶴松も同年に早世した。
こうした背景から秀次は秀吉の後継者に一躍浮上し、官位は一気に上昇させられて関白職をも引き継いだのである。
これはそんな二代目関白・豊臣秀次と黒田官兵衛が対話したときの話である。
──文禄元-4年(1592-95年)頃 ──
官兵衛。今川義元公の教訓をみたか?とても面白いものだぞ!
まだ一見しておりませぬが、それは君には必要のないことでございます。今川を真似ようとなさるより、太閤殿下を真似なさるべきではござりませぬか?
そうは言っても太閤殿下のようにはなかなかできるものではない。だから今川などを真似てみたいのだ。
それはやせ我慢(=卑下すること)と申しましてよくない事でござりますぞ!
殿下にも勝ろうと思うべきことに存じまする。
では聞くが、そなたは自分でどの程度の器量をもっていると思っているのだ?
・・・中ぐらいに思いまする。
中ぐらいとは?そのわけを言うてみよ。
それがしが上でしたら太閤殿下に仕え、そして天下を取ります。
また、下ではありませぬから、いまはこうして国を取って国持ち大名になっておるのです。
と答えたという。