「どうする家康」徳川家康は伊賀越えの危難をどう乗り越えたのか
- 2023/07/31
大河ドラマ「どうする家康」第29話は「伊賀を越えろ!」。天正10年(1582)6月2日、織田信長が家臣の明智光秀により討たれるという一大事件が勃発します。
当時、家康は堺におりましたが、同日に京都に向かい、信長と対面する積もりでした。先発として、本多忠勝が、京都に向かっていたのですが、その途上、枚方(大阪府枚方市)辺りで、馬に乗って、こちらに向かってくる者も見かけます。それは、京都の豪商・茶屋四郎次郎でした。
四郎次郎は、忠勝に「今朝、明智光秀が叛逆し、織田殿(信長)の宿舎に火を放ち、攻めかかりました。信長様は切腹、その子・信忠様もお腹を召されたと聞き及びました。この事を知らせるため、参上したのです」と告げます(『徳川実紀』)。
当然、忠勝は仰天。すぐに、家康のもとに戻ります。家康は、重臣(井伊・榊原・酒井・石川・大久保など)だけを側に召して、四郎次郎の話を聞きます。そして、次のように言いました。
「私は、織田殿とよしみを結ぶこと深い。もし今、多くの軍勢を率いていたら、光秀を討ち、織田殿の仇をとることができようが、この少人数では、それは叶うまい。中途半端なことをして恥をかくよりは、急いで、上洛し、知恩院(浄土宗の総本山の寺院)に入り、織田殿と死をともにしようではないか」と。
家康は信長に殉じようとしたのです。しかし、それに異を唱えたのが、本多忠勝でした。忠勝は「年来の織田殿の御恩に報いようと思うのならば、国へ帰り、軍勢を催し、光秀を討つこと」こそ、あるべき姿ではないかと主張したのです。
が、家康はその意見を聞き、「それは望むところだが、国へ帰るためには、知らぬ野山を彷徨うことになるし、道中、山賊・一揆の類もいる。そのような者に討たれるよりは、都にて、腹切る」と頑強に抵抗。そこに、織田家臣で、家康の堺見物の案内役となっていた長谷川秀一(竹丸)が、道案内をかって出るのです。それならばと家康も納得し、帰国することになりました。
家康と同行していた穴山梅雪(武田旧臣)は、家康と別ルートで帰ることとなります。『徳川実紀』も『三河物語』にも、梅雪は家康に疑心を抱いていたから、このような行動をとったと記されています。梅雪が家康をなぜ疑っていたかは書かれていませんが、帰国途上に殺される、そして自分の領地を奪われるとでも思っていたのでしょうか。
梅雪は徳川の誘いを断り、別行動をとったばかりに、宇治田原(京都府宇治田原町)にて、落武者狩りにあい、命を落としてしまいます。一方、家康は宇治田原、南近江を経て、伊賀に向かい、伊勢国加太(亀山市)・関・亀山・四日市と進む。そして、白子(鈴鹿市)から船に乗り、6月5日には、大浜(愛知県碧南市)に辿り着くのです。
『徳川実紀』には、茶屋四郎次郎が土地の者に金を与え、道案内させたこと、途中、一揆の者どもが道を遮るも、本多忠勝らが追い払ったことなどが記載されています。また、『三河物語』には、伊賀国の人々が、家康を助けたという記述があります。同書によると、かつて、家康は信長の伊賀攻めにより、避難してきた伊賀の人々を保護した。よって、恩返しをということで、家康を送ったというのです。様々な人々の助けを借りて、家康は領国に帰ることができたのでした。
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