「尼子晴久」山陰山陽8カ国の守護となり、尼子最盛期を築く!

戦国時代に中国地方を制覇し大大名となったのはもちろん毛利元就ですが、それ以前は山陰の尼子氏、山口の大内氏の2氏の力が大きく、両者が領土拡大をめざして常に攻防している状態でした。

そんななか、守護代からスタートして下剋上を果たし戦国大名の仲間入りをした尼子氏。その尼子の最盛期に当主を務めたのが尼子晴久(あまご はるひさ)です。

尼子 経久の嫡孫として誕生

尼子晴久は、永正11年(1514)に尼子政久の次男として誕生しました。母は山名兵庫頭の女(むすめ)。長男であった兄の又四郎が幼くして亡くなったため、次男の晴久が嫡子として育てられることになります。幼名は三郎四郎といい、元服後は詮久(あきひさ)と称しました。


父の戦死により幼くして経久の後継者になる

永正15年(1518)9月6日、磨石城攻めの際、父の政久に矢が当たって26歳の若さで亡くなります。このとき晴久はまだ4、5歳の幼子でしたが、父の死によって早くも祖父・経久の後継者と決まります。

尼子経久の肖像画
支配エリアを大きく拡げ、戦国大名としての尼子氏の礎を築いた尼子経久。

元就と兄弟の契りを結ぶ

大永3年(1523)、安芸の国人領主・毛利氏の当主であった幸鶴丸が9歳で亡くなると、その叔父の毛利元就が当主に立ちます。このあたりから、尼子経久と毛利元就の関係はにわかに悪化。元就の家督相続をめぐって経久が手を出したことで、元就は不信感を抱いたのです。

このころから元就は大内氏の下につくようになりますが、尼子と完全に関係が切れてしまったわけではありませんでした。実際、享禄4年(1531)、晴久18歳、元就35歳のときに二人は兄弟の契りを結んでいます。

毛利元就の肖像画
のちに中国の覇者となる毛利元就も、当初は大内と尼子の狭間で揺れ動いていた。

これで両者の関係は安泰かと思いきや、そうでもなかったようです。元就はこの5年後に嫡男の隆元を大内義隆のもとへ人質に出しており(隆元の名も義隆から「隆」の字を賜っている)、尼子と大内の間でどちらにつくかハッキリとは示していない様子がうかがえます。

家督を継ぎ、尼子当主に

天文6年(1537)、80歳になった祖父・経久がとうとう隠居し、成人してすでに20代となっていた晴久が家督を継いで尼子氏5代当主となります。経久はすでに老齢で晴久を支えるだけの気力体力もなかったため、以後は叔父の尼子久幸が晴久の補佐として当主を支えます。

晴久は当主としては経久の時代以上に勢力を拡大し、尼子氏は最盛期を迎えますが、その反面危なっかしい部分もありました。当主となって間もなくは石見銀山攻略、備中、美作、備前、播磨…… と各地に手を伸ばして勢いづきますが、若さゆえの驕りか、痛い目にあうことになるのです。

西国の一大勢力・大内氏との攻防

安芸遠征の失敗

大内氏との戦いでは勝ったり負けたりですが、勢いよく力をつけていた晴久が敗北し、一時弱体化するきっかけとなったのが天文9~10年(1540~41)の吉田郡山城の戦いです。

晴久は安芸の毛利元就が大内氏に属したことに怒り、毛利攻めを強行してしまいます(動機のひとつには平賀氏の内紛もあるとの見方もあります)。このころ敵の大内は九州に目を向けていたため、時期的に毛利を討つにはちょうど良かったのは確かでしょう。しかし、血気盛んな晴久のこの行動は失敗に終わります。

尼子3万以上の大軍に対し、毛利方は全体で8000。戦闘要員となる人員は3000程度であり、尼子の10分の1程度。晴久は圧倒的な兵力の差で郡山城を落とすつもりだったのでしょうが、うまくいきませんでした。元就は大内の援軍・陶隆房が到着するまで持ちこたえ、尼子を敗走に追い込んだのです。

数か月におよぶ安芸遠征、兵糧もつきかけて兵力は落ち、さらに指揮官の尼子久幸を失ったことも大きかったでしょう。

吉田郡山城跡
毛利元就の本拠・吉田郡山城。元就の入城前は砦程度の小規模な城だったらしい。

そもそも安芸遠征について、叔父の久幸は何度も反対し諫めたといいます。

『吉田物語』や『陰徳太平記』などにそのエピソードがありますが、晴久はしきりに諫める久幸を「臆病野州」とののしり(※野州は久幸が下野守だったことによる)、年長者の意見を退けて強行したのです。

これは晴久の決断が誤りだったと言っていいでしょう。安芸遠征は久幸の言うように早計だったのです。尼子は全軍が撤退しましたが、毛利・大内の追い討ちで多くの兵を失いました。

また、同年中に経久が亡くなったことも痛かったでしょう。下剋上を果たして一大勢力を築いた経久の死は、多くの国人領主たちの離反を招きました。そこに畳み掛けるように、この年に大内義隆は従三位の公卿となり、晴久は差を見せつけられます。

月山富田城の戦いでの勝利

同じ年に12代将軍・義晴の「晴」の字をもらって詮久から「晴久」と改名すると、その2年後に再び大内と対峙することに。

天文12年(1543)、郡山城での戦いで尼子を逃がし、悔しい思いをした大内義隆が、出雲遠征を決行。ところが、今度は大内のほうを前の戦での尼子と同じ敗者の立場に追いやるのです。(第一次月山富田城の戦い)

月山富田城跡
戦国期、難攻不落の要塞だった尼子の本拠・月山富田城

尼子の居城・月山富田城は難攻不落の名城。戦力的に有利な大内軍が力攻めに打って出てきたのに対し、晴久は籠城して長期戦にもちこんだことが功を奏しました。尼子から大内へ寝返った者の中から再び尼子へ戻る者も続出し、見事に大内軍に勝利します。

晴久にとって好都合だったのは、この戦で大内義隆の嫡男・晴持が亡くなり、義隆が以後軍事面への興味を失ってしまったことでしょう。やがて大内は陶隆房のクーデターを経て内側から崩壊し、滅亡することになるのです。

八か国の守護へ

戦後、晴久は大内に与した者を粛清する一方で、有力国人領主たちの本領を安堵するなど勢力回復を図ります。その後、まずは大内に奪われていた石見銀山を奪還。続いて因幡攻略を開始し、さらには安芸・備後まで勢力拡大をめざします。が、このあたりはすでに毛利元就の勢力が大きく……このころから主な敵は大内ではなく毛利になっていきました。

天文20年(1551)、陶晴賢の謀反により、大寧寺の変で大内義隆が自刃すると、名門・大内の正当な血筋は途絶えます。義隆の死後、中国地方の大大名として一気に躍り出たのが晴久でした。

そして翌年には将軍・足利義輝が今までの出雲・隠岐のほかに因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後の守護に任じます。これで晴久は合計8か国の守護になり、尼子氏の最盛期を迎えたのです。

毛利との戦い

一気に台頭する毛利

大内義隆の死以降、目下の敵である毛利元就は陶晴賢との戦いに注力していました。

弘治元年(1555)の厳島の戦いで陶晴賢を破ると、その足で防長経略を進め、大内氏を滅ぼします。その一方で山陰にも目を向けていました。元就は大内を攻めながら、いずれ戦うことになる尼子の勢力を削ぐことも忘れてはいなかったのです。

新宮党の変、元就の謀略にかかる

尼子にとって一番痛手だったのが、新宮党の力を失ってしまったことでしょう。新宮党は新宮谷を拠点とする尼子氏の精鋭。

時を少し遡りますが、当時の尼子氏は経久の次男・国久が統率しており、尼子の勢力拡大の中心的存在として貢献していました。ところが天文23年(1554)11月1日、晴久は新宮党を粛清するのです。仕掛けたのは元就でした。

元就は「新宮党は元就に近づいており、晴久への謀反の動きがある」という噂を流しました。もちろん晴久はこのような噂程度で惑わされはしません。が、元就が放った二手、三手が効きました。宛名のない密書をわざと晴久の元へ渡るように仕向け、疑念を抱かせたのです。

結果、もともと新宮党と折り合いが悪かった晴久は国久に逆心ありと信じ、新宮党の粛清を決行してしまいます。

新宮党館敷地内にある、尼子国久・誠久・敬久らの墓
新宮党館敷地内にある、尼子国久・誠久・敬久のものと伝えられる墓。(出所:wikipedia

元就にしてみれば、自分たちの兵力を一切失うことなく尼子精鋭を滅ぼしてしめしめ……という感じでしょうか。新宮党粛清により尼子の兵力の大半を失ったことになり、これが尼子滅亡のきっかけであるといっても過言ではないでしょう。晴久は元就に踊らされ、自らの手足をもいでしまったようなものです。

新宮党粛清に関しては家督相続の問題があり自滅したという説もありますが、どちらにしても元就にとって有利に働いたのは間違いないでしょう。

石見銀山をめぐって

晴久は、大内義隆を自刃に追い込んで実質的に大内を支配し始めた陶晴賢と同盟を結んでいましたが、厳島の戦いで晴賢が自害したことを知るや否や、石見に侵攻します。

そこからは石見銀山をめぐる戦いが数年続きました。毛利軍を撃退した忍原崩れのときには、最終的に銀山防衛の要である山吹城を陥落させています。その後も毛利が何度も石見銀山を狙ってきますが、晴久の代にこれが奪われることはありませんでした。

石見銀山公園(島根県大田市大森町)にある石見銀山遺跡の模型
石見銀山公園(島根県大田市大森町)にある石見銀山遺跡の模型

晴久の最期とその後の尼子

毛利との攻防が続くなか、永禄3年(1560)12月24日、晴久は急死します。毛利が大内氏を滅ぼし石見経略に全勢力を注ぎ始めたころで、尼子にとっては存亡の危機。そんななか、晴久は手水を使おうとしたところで倒れ、そのまま亡くなってしまったのです。

元就は晴久の死の知らせを聞き、「晴久存命のうちに一戦交えて雌雄を決したかった」と長年のライバルの死を惜しんだといいます。

晴久の跡は嫡男・義久が継ぎますが、毛利は晴久の死を知るとさらに侵攻を進め、永禄9年(1566)にとうとう難攻不落の月山富田城を落とします。

降伏して開城した義久ら尼子一族の命は保証され、安芸へ送られることになりましたが、実質尼子氏は滅亡してしまいました。その後、山中鹿介らが尼子勝久を擁立して再興しますが、それも長くは続きませんでした。

尼子最盛期を築いた晴久は、石見銀山を守り、大大名のまま死にました。晴久の享年は47歳。急なことでしたが、尼子の滅亡を知ることもなく、あのタイミングで死ぬことができたのはある意味良かったのかもしれません。


【参考文献】
  • 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 米原正義『出雲尼子一族』(吉川弘文館、2015年)
  • 妹尾豊三郎・島根県広瀬町観光協会『尼子氏関連武将辞典』(ハーベスト出版、2017年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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