「山中鹿介(幸盛)」主家尼子氏再興に生涯をかけた七難八苦の忠臣

山中鹿介といえば、尼子十勇士の筆頭、尼子三傑のひとりとして知られる忠義の武将です。尼子氏の家臣として、滅亡した主家の再興に人生をかけた忠義は多くの人の心をひきつけました。

とくに武士は主君に忠義を尽くしてなんぼという徳川の世において彼の生きざまは好まれ、講談などで取り上げられました。


山中鹿介の出自

山中鹿介(鹿之助・鹿之介とも)幸盛は、尼子氏の家臣・山中満幸の次男として天文14年(1545)ごろに生まれたとされますが、明確な生年はわかっていません。

幼名は甚次郎といいました。ちなみに、「山中鹿介」の名が有名ですが、「鹿介」は通称であり正式な名の諱は「幸盛」です。「鹿介」表記も本人が「鹿介」と書いた記録が残っているためこれが正式な表記ですが、人気があり数々の逸話が残されているぶん、名前の表記もいろいろです。

月山富田城の麓にある山中鹿介の屋敷跡
鹿介誕生地とされる、月山富田城の麓にある鹿介の屋敷跡(出所:wikipedia

さて、山中氏は数代さかのぼって山中幸久が尼子清定(経久の父)の弟にあたり、尼子氏の庶流であることがわかります。初代の幸久は兄・清定への謀反が発覚して勘気をこうむり出雲国布部山(ふべやま)の興福寺に蟄居させられたことから、以後山中氏を名乗るようになりました。

鹿介が主家再興にこだわるのは、主家への忠義はもちろんのこと、「宗家の尼子氏」と思っていたからかもしれません。

とはいえ山中氏のルーツには諸説あり、必ずしも尼子の血縁とはいえないようです。鹿介の出自についても軍記物以外の明確な史料がなく、生まれた日すら曖昧です。父・満幸すらも史料が乏しく、実在したかすらはっきりわかっていないようです。

母が女手ひとつで育てた麒麟児

鹿介の父・満幸は鹿介が生まれた翌年に亡くなってしまったため、随分貧乏な暮らしをしていたようです。

そもそも鹿介が生まれたころはすでに主家の尼子氏は落ち目であり、山中家は家臣としては大した身分ではなかったため、母は女手ひとつで子どもたちを育てるのに苦労したことと思われますが、それをものともしない賢母ぶりは『名将言行録』などに伝えられています。

鹿介は幼少期から秀でた能力を見せています。わずか8歳で人を斬り、10歳で弓馬軍法を学んで13歳にして戦場で敵の首級をとり手柄をあげたとされています。少年のころから武勇に優れていた鹿介は、「山陰の麒麟児」の異名でも知られます。

16歳の初陣「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」

鹿介の初陣は16歳のとき。永禄3年(1560)、尼子義久の伯耆尾高城攻めに従い、山名の勇将・菊地音八正茂という男を一騎打ちで討ち取って名をあげたことが『名将言行録』にみられます。

鹿介の兜の前立てが三日月であることはよく知られていますが、三日月関連で祈願のエピソードも有名ですよね。鹿介は三日月に向かい「願わくば我をして七難八苦に遭わしめ給え」と祈願したといいます。この祈願の後に菊地音八を討ち取って手柄をあげたため、以後鹿介は三日月の夜には必ず同じように祈願したとか。

「七難八苦」とは仏語で、多くの苦難が重なることを意味しますが、鹿介は与えられる苦難で自分の力量を試し、成長したいという、ストイックな人間だったようです。

この後、尼子氏は滅亡することになりますが、それに抗おうとする鹿介の人生はまさに「七難八苦」でした。

主家の滅亡

鹿介が生まれたときにはすでに太守・尼子経久は亡く、孫の晴久の時代でした。永禄5年(1562)ごろには、大内氏を破った毛利元就が山陰経略を本格的に進め始めます。

白鹿城の戦いでは殿をつとめる

永禄6年(1563)、白鹿城の戦いで尼子軍は毛利軍に敗れます。

白鹿城は宍道湖の北岸にあり、尼子の本拠・月山富田城と島根半島を結ぶ経済の要衝でしたが、毛利は補給路を断って兵糧攻めし、数か月で降伏することに。尼子軍の撤退時、鹿介は殿をつとめ、わずかな兵で追撃する毛利軍を撃退して複数の首を討ち取ったことが有名です。

尼子氏の本拠・月山富田城跡
尼子氏の本拠・月山富田城跡

品川大膳(棫木狼之介勝盛)に勝つ

鹿介のエピソードとして有名なものに、品川大膳との一騎打ちがあります。

品川大膳(将員)は石見の国人領主・益田藤兼(藤包)の家臣で、弓の名手でした。尼子家中の勇将・山中鹿介の噂をきき、それに対抗して「棫木狼之介勝盛(たらのきおおかみのすけかつもり)」と改名しました。

ふざけた名前ですが、「棫木」は鹿がその若芽食べて強さの象徴である角を落とす植物であり、「狼」は鹿を食う肉食動物であり、「幸盛」に勝つ「勝盛」と、縁起を担ぎまくった名前なのです。

この一騎打ちがあったのは永禄8年(1565)の第二次月山富田城の戦いの真っ最中。城下の川のほとりに鹿介を見つけた大膳は名乗りをあげて一騎打ちを申し込みます。


二人は富田川の川中島(中州)で勝負。先に組み伏せられたのは鹿介のほうでしたが、腰刀で大膳の腹を刺してそのすきに首をはね、討ち取りました(※戦いの詳細は歴史書によって異なります)。

この一騎打ちは両軍の兵が見ており、尼子勢は毛利の兵に向かってはやしたてましたが、討ち取った鹿介本人は「ただ敵をひとり討ち取っただけ」と驕る様子もなかったとか。

21歳で主家を失う

さて、毛利との戦いの中で他にも鹿介は数々の活躍を見せたわけですが、尼子は勢いを失うばかり。とうとう永禄9年(1566)11月28日、尼子義久は降伏し、毛利元就に月山富田城を明け渡しました。
難攻不落の山城・月山富田城は力で落とされることはありませんでしたが、兵糧に事欠き逃亡者も多く、もう抵抗することはできない状態になっていたのです。

以後、義久と弟の倫久、秀久の三人は安芸へ送られて幽閉の身となり、鹿介ら家臣数十人は別れを惜しみ、安芸へ送られる主君を見送ったといいます。

ここに、戦国大名としての尼子氏は滅亡してしまったのです。

尼子氏再興をめざして

主家を失った鹿介は牢人となりましたが、数年の間何をしていたのかははっきりとわかっていません。諸国を放浪して有馬温泉で傷をいやしたとか、武田や北条といった有力氏族の軍法を尋ね歩いたと伝えられています。

放浪の間ずっと尼子を再興したいという思いはあったようで、鹿介はおじの立原久綱らとともに京都に潜伏しました。

尼子誠久の遺児・勝久を還俗させ擁立

尼子氏再興といっても、誰を当主に立てるか。直系の義久とその兄弟は毛利の下で幽閉されているので、これを担ぎ上げることはできません。ならば、と目を付けたのが、尼子経久の次男・国久の孫・孫四郎でした。


国久とその子・誠久は新宮党として尼子を支えていましたが、精鋭の新宮党を邪魔に思った元就の謀略によって同士討ちになり、滅んでいました。誠久の五男・孫四郎は当時わずか2歳で、乳母によって新宮谷から落ちのび、京都の東福寺に預けられていたのです。

鹿介らはこの孫四郎を当主に建てようと考えます。京都に潜伏したのも、孫四郎を探して当主に擁立するためでした。まだ10代半ばの孫四郎は還俗して「勝久」と名を改め、当主に立ちました。

三度にもわたった尼子再興運動だが…

山中鹿介らによる尼子再興運動は三度行われるのですが、結局いずれもうまくいきませんでした。

第一次は失敗し、捕らえられる

永禄12年(1569)、尼子を下した毛利元就は中国の覇者となり、次に九州へ勢力をのばそうと考えます。この年に元就は吉川元春、小早川隆景兄弟を九州に向かわせ、キリシタン大名で知られる大友義鎮(のちの宗麟)と攻防を繰り広げていました。

毛利の兵が九州に集中していて、今なら山陰はがら空き。鹿介らはこのチャンスを逃しませんでした。

第一次尼子再興運動で尼子軍が攻略した各城。色塗部分は出雲国。青が尼子方、赤は攻略できなかった毛利方の城。

尼子再興軍はすぐに兵を動かし、6月に出雲に上陸。各地に尼子再興の檄をとばし、たった200だった兵はあっという間に6000に膨れ上がります。意気揚々と天野隆重の月山富田城を狙いますが、やはり難攻不落の城はなかなか落ちません。

尼子軍は大友義鎮と示し合わせて毛利を挟み撃ちにしようとしますが、うまくいきませんでした。同じころ、尼子と同様に毛利が滅亡に追い込んだ大内でも再興軍が山口へ攻め込んでおり、元就が山陰と山口の反乱にやきもきして早々と九州から兵を撤退させたのは誤算だったでしょう。

やがて主力の大将・輝元と副将の元春、隆景が大軍で出雲に押し寄せ、元亀元年(1570)の布部山の戦いで尼子再興軍はあえなく敗戦。これをきっかけに衰退していきます。


一時は出雲国の大半を勢力下に収めた尼子軍でしたが、その後も毛利軍に押され、元亀2年(1571)8月にはついに最後の拠点の新山城も陥落となりました。

このとき鹿介は吉川元春に捕えられて尾高城に幽閉されますが、これで諦めはしません。所領を与えるといわれても受け入れず、赤痢と嘘をついて何度も便所に通い、監視の者がうんざりして気を緩めたすきに便所の掃除口から逃げ出すのです。

第二次は山名氏を味方につけ、各地を転戦。

その後、再び尼子家再興の機会をうかがっていた鹿介。逃亡中の鹿介の行動がわかる確かな史料はありませんが、『雲陽軍実記』によれば、尾高城から脱走後は出雲の岩屋寺山 (島根県奥出雲町)に隠れ、神出鬼没の山賊の頭目となっていたとか。

やがて因幡国を舞台に行動を起こします。当時の因幡国はすでに毛利氏が進出しており、鳥取城主の武田高信を支援して国衆らの統制にあたっていました。

鹿介らは天正元年(1573)の初頭に桐山城を攻略して再興運動の拠点にすると、同じくお家再興をめざす山名豊国を味方につけ、一気に諸城を攻略。天正2年(1574)9月ごろには鳥取城や私部城などを奪取したとみられます。

第二次尼子再興運動で尼子軍が攻略した各城。色塗部分は因幡国。

順調に勢力を拡げていった尼子軍でしたが、今回も事はスムーズにすすみませんでした。またもや吉川元春が大軍でやってくると鳥取城に入城していた山名豊国があっさり寝返ります。

再興軍はあっという間に劣勢となって各城も奪い返され、天正4年(1576)ごろまでに因幡国での活動は終焉を迎えるのです。

第三次は信長配下となるも、最後は見捨てられる

二度の失敗にも勝久や鹿介がくじけなかったのは、彼らが背後で密かに織田信長の支援を受けていたからです。

信長はこれからの中国攻めを見据えて、毛利の力量をはかりたいという意図があったのでしょう。毛利は織田方に「尼子を援助するなよ」と再三言っているのですが、表では「ハイハイ」と言っていても裏では援助していたのです。

天正5年(1577)、いよいよ織田方の中国攻めも本格的になり、秀吉が毛利の播磨の拠点・上月城を落としました。秀吉はここに勝久らを入城させます。

※参考:秀吉の中国攻めの舞台(該当エリアと要所)。青マーカーは織田の城、赤は敵方の城。

鹿介のおじの立原久綱は「敵の攻略を受けやすい城で、両川(元春と隆景)」が攻めてきたらひとたまりもない」と入城を反対しましたが、鹿介は「もし両川が攻めてきたとしても、尼子の背後には秀吉がいるし、それがだめでも信長がいるから」と久綱の意見を聞き入れません。勝久は鹿介に従って、2300の兵とともに入城してしまいます。

鹿介は楽観視していましたが、久綱が案じたとおりの結果になりました。天正6年(1578)、秀吉が別所長治の三木城を攻めている間に、毛利3万の軍勢(もちろん元春、隆景が指揮する)が上月城を包囲したのです。わずか2300の兵では太刀打ちできるはずもありません。

秀吉は毛利が城を包囲したことを知ると、荒木村重ら1万の軍を救援に向かわせますが、それでも毛利3万と差がありすぎます。秀吉は信長に応援を送ってくれるよう頼みますが、信長は「上月城は捨てて三木城攻めに集中するように」と返事をするのみ。

結局尼子軍は信長に見捨てられ、7月5日に降伏しました。当主の勝久は切腹。鹿介は人質になりました。

鹿介の最期

勝久が切腹するとき、鹿介は「自分もすぐに後を追うべきですが、憎い敵の吉川元春に一太刀浴びせてからお供いたします」と言ったといいます。

そして尼子再興のために担ぎ上げられた勝久は恨み言を言うでもなく、「僧として生涯を終えるはずだった自分が尼子の当主として数万の兵を動かして戦えたことは本懐であった」と感謝の言葉を述べて亡くなったというエピソードが『陰徳太平記』に見られます。

その後、人質となった鹿介は元春に一太刀浴びせることは叶わず、最期は安芸国へ連行される途中、備中国甲部川(阿井の渡し)で暗殺されました。斬りかかられてもなお逃げようとした鹿介は「往生際が悪い」と笑われたと言いますが、勝久に誓ったとおり、元春に一太刀浴びせるまでは死ねない、という思いがあったのでしょうか。

山中鹿介の最期の地「阿井の渡し」にある鹿助の墓所
山中鹿介の最期の地「阿井の渡し」にある鹿助の墓所

再興運動の3度の戦いはいずれも詰めが甘く、とくに鹿介が他者を信用したばかりに失敗したことが何度もありました。

最初の大友義鎮にしても、次の山名豊国、最後の織田信長にしても、どう見ても尼子再興軍と同じ覚悟で動いてはいなかったのですが、そこに考えが及ばなかったのが鹿介の甘いところではないでしょうか。

自分は尼子再興に人生をかけて戦っていて、その思いが強すぎるあまりに他者もそうであると勘違いしたのか。大内の再興軍の反乱失敗にも同じことが言えますが、再興軍と彼らを支援する者との間に温度差があったにもかかわらず、疑いもせず頼りすぎていたのが敗因のように思われます。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 米原正義編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 米原正義『出雲尼子一族』(吉川弘文館、2015年)
  • 妹尾豊三郎・島根県広瀬町観光協会『尼子氏関連武将辞典』(ハーベスト出版、2017年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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