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  • 毛利元就
 2019/11/19

「布部山の戦い(1570年)」月山富田をめざす尼子再興軍が挙兵、毛利と対決!

遠景より望む布部の中山。(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E9%83%A8%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84" target="_blank">wikipedia</a>)
遠景より望む布部の中山。(出所:wikipedia

室町期の名門・尼子氏が毛利氏に取って代わられた経緯は、戦国の下克上そのものでした。

布部山(ふべやま)の戦いは、毛利によって滅亡に追い込まれた尼子による、尼子氏再興の戦いのうちの一戦です。尼子旧臣の山中鹿介、立原久綱らが尼子勝久を擁立して月山富田城奪回をねらいました。
(文=東 滋実)

毛利に滅ぼされた尼子氏

もともとは尼子氏の家臣に過ぎなかった毛利元就。元就の家督相続時に尼子経久が首を突っ込んできたことをきっかけに徐々に離れていき、大内氏へ行ったり尼子氏に戻ってきたりをしばらく繰り返しますが、小領主であった元就は中国の有力大名であった尼子・大内両氏を滅ぼして中国地方で最大の戦国大名になりました。

尼子の居城・月山富田城をめぐっては大きく2度戦っていますが、第一次月山富田城の戦いでは大内の家臣として敗北し、第二次月山富田城の戦いではついに尼子氏を滅ぼすに至ります。

永禄9(1566)年、尼子の当主・義久はもはや毛利に抵抗するのは難しいと悟ると、開城して降伏し、ふたりの弟とともに毛利の元で幽閉されることに。ここに戦国大名・尼子氏は滅亡してしまったのですが、牢人となった家臣たちは尼子氏再興のチャンスをねらっていました。

尼子再興をめざす山中鹿之助

鹿介らが尼子勝久を擁立

若くして毛利との戦いでは大いに活躍した山中鹿介(幸盛)。尼子氏再興をめざす中心的存在です。

主家を失ってしばらくは放浪していたと伝えられていますが、永禄11(1568)年に京都に入ると、東福寺に預けられていた尼子の遺児・孫四郎を見つけ出して還俗させます。

この孫四郎は尼子経久の弟・国久の孫にあたる人物で、国久とその子の誠久(孫四郎の父)が粛清された際に密かに逃がされて寺で育っていたのです。鹿介らはこの孫四郎を当主として擁立し、「勝久」と名乗らせて「その時」を待ちました。

毛利の九州出陣の隙をねらい挙兵

永禄12(1569)年、またとないチャンスが訪れます。

前年の頃より毛利の北九州討伐が始まっており、この年には元就自身も兵を率いて出陣しました。毛利は北九州討伐に力を入れており、山陰の国人領主たちの多くも九州へ出兵していました。

つまり、このとき山陰は手薄になっていて、再興軍が月山富田城を奪回する最大のチャンスだったのです。

同年6月23日、尼子氏再興軍は200の兵で出雲に上陸し、各地へ檄を飛ばして知らせます。各地の旧臣たちが数日のうちに集まると、兵は6000にもなったといいます。

再興軍は7月には守りの薄い月山富田城を囲み、城主・天野隆重は降伏しますが、城の受け取りに現れた鹿介が油断したところに斬りかかりました。このあと月山富田城はなかなか落ちませんでしたが、出雲のあちこちはすでに再興軍の支配下となり、優勢な状況が続きます。

布部山の戦い

毛利軍の侵攻

尼子再興軍の挙兵から数か月遅れること、10月。山口では大友義鎮の援助で大内の遺児・大内輝弘が立ち、周防で挙兵しました。つまり、毛利に滅ぼされた尼子と大内の2氏が相次いで再興のために立ち上がったのです。

これはさすがに毛利にとっても危機的状況です。元就は北九州討伐を注視して撤退することを決め、10月に吉川元春小早川隆景らの主力が引き返してあっという間に大内の反乱を鎮圧すると、年内に吉田郡山城へ帰還しました。そして年が明けた永禄13(1570)年1月、すぐに出雲へ向かって兵を進めたのです。

布部山の古戦場と各要所。色塗部分は出雲国。青マーカーは毛利方、赤は尼子方が守備する城。

毛利の大将は毛利輝元。副将に叔父の吉川元春と小早川隆景がつき、毛利軍は15000(諸説あり)ほどであったといわれます。毛利軍のなかには水軍も含まれていました。

毛利軍が急ぐべきは、月山富田城を守ることです。半年ほど尼子の再興軍に囲まれたままで、兵糧も尽きかけていました。

毛利の侵攻の勢いはすさまじく、尼子再興軍は時間稼ぎもできずに次々と攻略され、2月13日には尼子方の布部要害山城まで毛利の手に渡っています。

布部の要害山城
布部山のすぐ南に位置する布部要害山城(出所:wikipedia

鹿介らが毛利を食い止める最後の砦として本陣を敷いたのが、島根県安来市の広瀬町にある布部山でした。ここから月山富田城までは10kmほどで、毛利軍が月山富田城へ向かうには必ず通る場所でした。

2月14日、布部山のふもとで攻防

2月14日、布部山のふもとで、尼子再興軍と毛利軍の戦いが始まりました。

布部山の山頂あたりに陣を敷いた尼子軍は、上がってくる毛利軍を上から攻めればよかったので当初は優勢でした。水谷口を守っていた鹿介も4000の兵を指揮して有利に進めましたが、吉川元春の奇襲によって戦局が一変します。

布部山の戦いの布陣図
布部山の戦いの布陣図。(出所:wikipedia

横道高光、政光らが守る中山口が破られ、本陣が落とされてしまいます。本陣を破られてしまった尼子再興軍は結局、総退却を余儀なくされ、末次城に逃げ帰ることになるのです。

山中鹿介が布部山の戦いでの逃走時に馬で飛び降りたと伝わり、滝つぼに蹄の跡が残る「蹄の滝」
山中鹿介が布部山の戦いでの逃走時に馬で飛び降りたと伝わり、滝つぼに蹄の跡が残る「蹄の滝」(出所:wikipedia

まとめ

第一次尼子再興運動の戦いのひとつである布部山の戦い。これに勝利した毛利軍は翌日の2月15日には月山富田城に入り、兵糧を入れて城を救いました。すでに兵糧はほとんどなく、かなり危ない状態でした。

一方で敗れた尼子軍はその後、新山城(真山城)を最後の拠点として守りますが、元亀2(1571)年8月21日に陥落。尼子軍の月山富田城奪回はならず、中心人物の山中鹿介は吉川元春に捕えられ、幽閉されることになります。

こうして出雲国より一掃されることとなった尼子再興軍ですが、尼子勝久・山中鹿介らはこれで諦めたワケではありません。第二、第三の戦いに挑んでいくのです。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 米原正義編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社、1989年)
  • 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
  • 米原正義『出雲尼子一族』(吉川弘文館、2015年)
  • 妹尾豊三郎・島根県広瀬町観光協会『尼子氏関連武将辞典』(ハーベスト出版、2017年)



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