【東京都】江戸城の歴史 豪華絢爛な天守はなぜ3度も建てられた!?
- 2023/10/13
かつて江戸城には豪華絢爛な天守が聳え立っていましたが、火事や地震に遭ったわけでもないのに、なぜか3度にわたって建てられています。そこにはどんな理由があったか?そんな謎を解き明かしつつ、江戸城の歴史について解説していきましょう。
太田道灌が築城した中世の江戸城
「江戸」という地名の由来は、入り江があった場所、あるいは海に臨んだ川の入り口を意味するそうです。また荏原が繁茂するから「荏土」と呼ばれたという説もあるとか。平安時代末期、この地に移ってきたのが平氏の流れを汲む秩父重継でした。地名を取って江戸氏と称し、子孫たちは武蔵国豊島・荏原郡を領する鎌倉御家人として活躍しています。
南北朝時代から室町時代前半まで勢力を保った江戸氏ですが、永享12年(1440)に起こった結城合戦を契機に没落。江戸の地は扇谷上杉氏の支配下に入りました。
やがて享徳3年(1454)になると、古河公方と扇谷・山内上杉氏が衝突した享徳の乱が勃発。扇谷上杉氏は古河公方に対する抑えとして、江戸城と河越城を築いたといいます。
通説では扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が江戸城を築城したとされていますが、実際には父・太田道真はじめ上杉氏の宿老たちと共同で築いたものでした。長禄元年(1457)に道灌が江戸城へ入っていることから、道灌築城説が流布されたのでしょう。
さて、道灌時代の縄張りはいたってシンプルだったようです。かつて江戸城内にあった静勝軒と泊船亭に架けられていた詩文には、江戸城全体の構造が描写されており、城は崖の上にあって、土塁を周囲に巡らした本城・中城・外城の三重の曲輪から構成されていました。また堀には橋が架けられ、出入り口には堅固な城門が設置されて守りを固めていたとか。
城内を見渡せば主殿のほか、物見櫓・倉庫・馬屋・武器庫などがあり、家臣の居住区も設置されていたようです。さらに船の往来を眺める泊船亭や、富士山を観賞する含雪といった付属施設があり、梅なども植えられていたとか。当時の江戸城は軍事面だけでなく、道灌らしい文化的な側面もうかがえる景観を呈していたのでしょう。
ちなみに中世の江戸城があった場所ですが、現在の北の丸から本丸へ伸びる丘陵上に位置していたと考えられます。なぜなら北の丸に近い国立近代美術館の付近から、道灌時代の遺構や遺物が発掘されているからです。その全貌は明らかではないものの、新たな調査によって未発掘の遺構が見つかるかも知れませんね。
北条氏政の隠居地となった江戸城
文明18年(1486)に太田道灌が主君・上杉定正によって暗殺されると、江戸城は扇谷上杉氏の軍事拠点として存続しました。その後、道灌の孫にあたる太田資高が城代となりますが、祖父を殺された恨みが残っていたのでしょうか。大永4年(1524)に北条氏へ寝返ると、その手引きによって江戸城は落城しています。ちなみに北条氏から厚く遇された太田氏ですが、康資の代になると待遇に不満をもって離反し、そのまま房総半島へ退去していきました。
こうして北条氏の支配下に置かれた江戸城ですが、武蔵支配の重要拠点として機能しています。江戸及びその周辺に領地を持つ家臣を「江戸衆」として組織し、遠山氏や富永氏を筆頭としてまとめさせました。その後は北条綱成の子・氏秀が改めて権限を握るようになります。
天正11年(1583)に氏秀がこの世を去ると、氏秀の嫡子・乙松丸を後見するべく、北条氏政が江戸城へ乗り込んできました。ところが乙松丸が早世したことで、たった2代にして江戸北条氏は断絶するのです。
そんな中、氏政は小田原城へ戻るのかと思いきや、なぜか江戸城に居座り続けました。すでに家督を嫡男・氏直へ譲っていることもあり、御隠居として影響力を及ぼそうとしたのです。
氏政は江戸一帯だけでなく、下総の関宿や佐倉を直接支配下に置き、武蔵・下総・房総方面の実質的な領国経営を担いました。その理由は本拠・小田原城が西へ寄り過ぎていたからです。江戸城に拠点を置くことで、関東平野へ睨みを利かせようとしたのでしょう。氏政・氏直の二人が「両屋形」と呼ばれたのも、そこに理由があったのです。
さて天正18年(1590)、豊臣軍の侵攻によって北条氏は終焉の時を迎えました。氏政は氏直とともに小田原城で籠城し、城主がいなくなった江戸城には1千の軍勢が置かれたといいます。
しかし小田原攻めが始まると、早くも江戸城は豊臣方の浅野長吉に降伏・開城。こうして戦国の城としての役割を終えました。
家康がおこなった江戸大改造プロジェクト
小田原攻めののち、滅亡した北条氏に代わって徳川家康が関東へ移ってきました。この時、関東8ヶ国経営の拠点として、小田原城ではなく江戸城を選んでいます。やはり小田原城が西へ寄り過ぎていたことで、本拠として不適格だとみなされたのでしょう。その点、江戸城は関東平野を視野に入れる絶好の立地ですし、城が面する江戸湾は天然の良港として期待できました。ちなみに家康の入部を伝える記録を見ると、当時の江戸は寂れた寒村というイメージが先行しがちですが、決してそんなことはありません。江戸氏いらいの江戸湊が発達し、相模や武蔵、さらには房総・常陸方面と連絡する交通の結節点にあったことで、すでに街道網が整備されていたといいます。
また江戸城が「一国を持ちたる大将の住たるにもあらず」と表現され、粗雑で粗末な造りだったというのも不思議な話です。実際には北条氏政が居を構えており、それなりの設えは出来上がっていたはずでしょう。
それらの諸記録は、江戸城を造り替えた家康を賛美するための描写だった。その可能性は否定できないのです。
さて江戸城へ入った家康ですが、当初は城下町の整備に力を注ぐのみで、ほとんど改修は施されていません。しかし、家康が満を持して大拡張工事に乗り出したのは、慶長8年(1603)のこと。つまり関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開いたことで実質的な天下人に昇り詰めたからです。
これは家康渾身の大プロジェクトでした。とりわけ目玉になったのは、武家屋敷や町人町を確保するための普請です。まず神田山を切り崩して土砂を運び、当時は入江だった日比谷一帯を埋め立てました。さらに並行して外郭を成す外堀の掘削も行われています。
かつて小田原城の巨大な総構を見た家康は、外郭の重要性を認識したうえで城づくりに活かしたのでしょう。こうして江戸城は内郭と外郭の二重構造を持つ城となったのです。
ちなみに内郭は、本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸・吹上から構成されており、幕府の中枢を成す場所でした。もちろん政庁としての機能だけでなく、将軍や大御所、将軍の生母や側室などが暮らしており、大奥も本丸御殿の一角にあったといいます。
いっぽう外郭にあたる範囲には城下町が広がり、大名屋敷や武家屋敷、町人町などが造成されました。内郭と外郭を含めた広さは豊臣期大坂城の倍もあったらしく、まさに日本最大の城郭都市だったのです。
さらに江戸城を語る上で外せないのが、石垣の存在でしょうか。堅固に積まれた石垣は城を覆い尽くし、現在でも豪壮で優美な景観を楽しませてくれます。とはいえ関東平野でこれだけの石垣を調達できるはずはなく、主に伊豆半島から石船によって運搬されていました。
実に28家の大名が石船の建造を命じられ、その数はおよそ3千艘にのぼったといいます。この時に運搬された石材は「百人持之石」と呼ばれ、およそ4トンもあったとか。慶長期の天下普請では、石高10万石につき220個の石を差し出せと命じていますから、その数は58,240個に上ったそうです。
このような大工事が3代将軍・徳川家光の頃まで続いたといいますから、城の巨大さといい、労働力といい、掛かった費用といい、まさしく史上空前の城だといえるでしょう。
※参考:以下の動画で江戸城の規模の大きさがわかります。
なぜ江戸城天守は3度も建てられた?
現在の江戸城には天守台こそあるものの、上に載せるべき天守は存在しません。しかし江戸時代初期には豪壮な天守が聳え立っていたといいます。それが家康の築いた慶長度天守、秀忠が造らせた元和度天守、そして家光が完成させた寛永度天守です。それにしても、なぜ火災や地震に遭ったわけでもないのに天守が3度も建てられたのでしょう?実は歴代将軍たちにとって一種の思惑があったからです。
まず征夷大将軍として幕府を開いた家康は、満を持して江戸城の大改修に乗り出し、慶長11年(1606)に慶長度天守を造営しました。これは望楼型五重五階だったとされ、一階の床面積は大坂城の二倍以上という巨大なもの。
壁は白漆喰で純白に仕上げられ、屋根には銀色の鉛瓦が用いられました。遠くから見れば雪を頂く富士のような佇まいだったらしく、その威容は新しい天下人の登場を知らしめるのに十分だったようです。
江戸城に在城することわずか2年、将軍職を秀忠へ譲った家康は大御所となり、駿府へ移っていきました。ところが家康は、駿府城でも巨大な天守の造営を命じています。それは六重七階という江戸城天守を凌ぐもので、大御所としての権勢を内外へ誇示する目的があったようです。
まるで自分への当てつけのように築かれた巨大天守の存在を、秀忠は果たしてどう感じたでしょうか。元和2年(1616)に家康が死去すると、その6年後に秀忠は慶長度天守を取り壊すという不可解な行動に出ます。本丸御殿を拡張する意図があったものの、真の目的は家康が築いた天守を廃し、自分好みの天守を新たに造ることにありました。
かつて関ヶ原で大遅参を演じ、家康からきつい叱責を受けた秀忠にとって、何らかの思うところがあったのでしょう。毎日のように目にする父が築いた天守は、もしかすると煙たい存在に映ったのかも知れません。
こうして秀忠が築かせた元和度天守は元和9年(1623)に完成し、大きさは先代天守と同じ五重五階だったようです。ただし様式は層塔型となり、洗練された千鳥破風が用いられました。ところが元和度天守もわずか14年で解体されてしまうのです。
3代将軍となった家光ですが、秀忠が亡くなった5年後には天守の取り壊しを命じ、新たな天守の造営に乗り出しました。
なぜ既存の天守をわざわざ廃する必要があったのか?これは家康の天守を壊した秀忠に対する意趣返しと見る向きが多いようです。父・秀忠が冷たかったのに対し、祖父の家康は自分が将軍になれるよう裁断に及んでくれました。もちろん家光にとって家康は尊敬すべき人物であり、敬愛と憧れの存在だったはずです。
祖父の築いた天守が壊されたことをどうしても許せず、仕返しのつもりで父が築いた天守を取り壊した。そんな思惑が透けて見えてきますね。ただし、これはあくまで推察に過ぎません。真相は依然として不明なのです。
こうして家光が造った寛永度天守は、まさに日本最大の規模となりました。五重天守として築かれたようですが、その高さは天守台も含めると約59メートルに及んだとか。実に20階建てビルと同じ高さという威容を誇りました。現存する姫路城天守が高さ46メートルですから、その大きさぶりがわかるでしょう。
また天守の外装には錆止めを塗った銅板が貼られ、屋根も全て銅瓦が用いられていました。先代・先々代の天守とはまったく違う黒光りの天守は、きっと大きな存在感を表したに違いありません。
度重なる火災や地震に見舞われた江戸城
日本最大の木造建築となった寛永度天守ですが、やはり短命に終わってしまいます。明暦3年(1657)、江戸のおよそ6割を焼き尽くしたという明暦の大火が発生。江戸城は本丸・二の丸・三の丸が全焼し、家光が築いた天守も灰燼に帰しました。その後、幕府内では天守の再建が検討されますが、これに待ったを掛けたのが会津藩主・保科正之です。「実用性に乏しい天守は無用である」と断じ、天守台こそ出来上がっていたものの、再建は見送りとなりました。こうして江戸城は幕末に至るまで、天守なしの城となったのです。
とはいえ明暦の大火は、江戸の都市計画を大きく見直すきっかけとなりました。城内にあった徳川御三家の屋敷が城外へ移され、跡地には回遊式池泉庭園が造られています。これは万が一の火災の際に防火用水となるもので、広大な敷地は火除地として活用されました。
さらに外郭内にあった武家屋敷や町人町も郊外へ移転し、延焼を防ぐ火除地となっていきます。また外堀の東側では新たに両国橋が架けられ、災害時の避難経路として定められました。
こうして城下町が隅田川の東へ広がったことで、現在の両国や本所といった市街地が形成されたといいます。
とはいえ江戸期は、火災と天災が度重なる時代でした。元禄16年(1703)には元禄地震が発生し、江戸城の櫓や城門の多くが倒壊。石垣も崩落するなど大きなダメージを受けています。また明和9年(1772)の明和の大火でも城門のいくつかが類焼しました。
さらに天保9年(1838)には江戸城西の丸から出火し、御殿や門・櫓などが焼失。その後も弘化元年(1844)、嘉永5年(1852)と失火は続き、そのたびに再建されています。これ以降も江戸城は幾度も火災に見舞われ、文久3年(1863)に焼けた本丸御殿などは、財政悪化のために再建を断念するほどでした。これだけ巨大な城を維持するのですから、その出費は莫大だったに違いありません。
慶応4年(1868)、江戸城が無血開城となり、同年のうちに明治天皇が入城しました。そして名称も江戸城から東京城へ改められています。これを機に幕府の象徴ともいえる建物群が取り壊され、多くの櫓や城門の撤去が始まりました。いっぽう天皇の居所となる明治宮殿が明治21年(1888)に完成し、明治政府におり「宮城」と改称されています。
その後も関東大震災や東京大空襲で被害を受けた江戸城ですが、戦後の昭和23年(1948)に「皇居」と改められ、現在まで至っているのです。
おわりに
太田道灌の時代から現代に至るまで、長い歴史を紡いできた江戸城ですが、その規模といい、役割といい、大きく様変わりした城は、江戸城の他にはないでしょう。もしその理由を挙げるとすれば、やはり恵まれた立地にあるのかも知れません。古くから整備された街道があり、海運が栄えるべき海があり、また大小の河川を利用した水運の便利さも見逃せないところです。家康が江戸の地へ足を踏み入れた時、「江戸こそ関東支配の要である」と感じたことでしょう。
また、家康がいっこうに江戸城の改修に踏み切らなかった理由は、やはり秀吉との関係を重視したものと考えられます。家康からすれば改修など容易だったはずですが、秀吉存命中は大坂城や伏見城より大きな城を造ることはできません。秀吉の死を経て、関ヶ原で勝ったことにより、ようやく諸大名を動員できる立場となりました。
こうして家康は大坂城を遥かに凌ぐ巨大城郭の建設に踏み切り、江戸城は将軍の居所として江戸幕府を象徴する存在となったのです。
補足:江戸城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
長禄元年 (1457) | 新しく築かれた江戸城に太田道灌が入城。 |
文明18年 (1488) | 太田道灌が糟屋館において暗殺される。 |
大永4年 (1524) | 城代・太田資高が扇谷上杉氏から離反し、江戸城は北条氏の支配下となる。 |
天正11年 (1583) | 城代・北条氏秀、乙松丸が死去。北条氏政が武蔵・下総を直接支配する。 |
天正18年 (1590) | 豊臣秀吉による小田原攻め。同年、徳川家康が関東へ移封されて江戸城を居城とする。 |
慶長8年 (1603) | 家康、征夷大将軍となって江戸幕府を開き、江戸城の大拡張工事に乗り出す。 |
慶長11年 (1606) | 慶長度天守が完成。 |
元和8年 (1622) | 徳川秀忠によって慶長度天守が取り壊される。 |
元和9年 (1623) | 元和度天守が完成。 |
寛永14年 (1637) | 徳川家光によって元和度天守が取り壊される。 |
寛永15年 (1638) | 寛永度天守が完成。 |
明暦3年 (1657) | 明暦の大火によって本丸・二の丸・三の丸が焼失。天守も焼け落ち、再建はされず。 |
元禄16年 (1703) | 元禄地震によって、多くの櫓や門が倒壊。 |
正徳2年 (1712) | 天守再建計画が持ち上がるも、財政難を理由に破綻。 |
明和9年 (1772) | 明和の大火。日比谷門・桜田門・馬場先門・常盤橋門が類焼を受ける。 |
天保9年 (1838) | 西の丸から出火。御殿や御門、多聞櫓などが焼失する。 |
弘化元年 (1844) | 本丸御殿から出火。全焼する。 |
嘉永5年 (1852) | 失火により西の丸が全焼する。 |
文久3年 (1863) | 失火により本丸御殿が焼失。以後再建されず。 |
慶応3年 (1867) | 徳川慶喜による大政奉還。江戸幕府が事実上の終焉を迎える。 |
慶応4年 (1868) | 江戸城が無血開城となる。 |
明治元年 (1868) | 明治天皇が江戸城へ入城。東京城と改められる。 |
明治3年 (1870) | この年から建造物や門などの取り壊しが始まる。 |
明治21年 (1888) | 明治宮殿が竣工。宮城へ改称される。 |
大正12年 (1923) | 関東大震災。多くの建造物が被災するも、和田倉門を除いて再建される。 |
昭和20年 (1945) | 東京大空襲によって明治宮殿が焼失。 |
昭和23年 (1948) | 宮城が皇居と改称される。 |
【主な参考文献】
- 峰岸純夫・斎藤慎一『関東の名城を歩く 南関東編』(吉川弘文館、2011年)
- 三浦正幸『天守再現!江戸城のすべて』(宝島社、2012年)
- 萩原さちこ『江戸城の全貌 世界的巨大城郭の秘密』(さくら舎、2017年)
- 野中和夫『石垣が語る江戸城』(同成社、2007年)
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