700年受け継がれてきた日本三大山城のひとつ、「岩村城」の歴史について

ろひもと理穂
 2022/11/18
岩村城跡
岩村城跡
本丸が全国で最も高い標高717mに築かれたのが、高取城や備中松山城と共に日本三大山城に数えられる岩村城(いわむらじょう)です。

戦国時代は甲斐の武田氏、尾張の織田氏に挟まれたことで壮絶な奪い合いが起こっています。築城されたのはなんと鎌倉期までさかのぼります。今回はそんな岩村城700年の歴史についてお伝えしていきます。

織田氏と武田氏の奪い合い

岩村城が築城されたのは、文治元(1185)年に源頼朝が守護地頭を置いた時期です。頼朝の重臣であった加藤景廉は遠山庄の地頭に補せられました。景廉は遠山には住まずに頼朝の側近として奉公しましたが、景廉が岩村城の基礎を築き、その子である加藤景朝が完成させたと伝わっています。初代遠山氏はこの景朝です。

岩村城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

戦国時代でも遠山氏が岩村城の城主として統治を続けていましたが、甲斐の武田信玄、尾張の織田信長という大勢力の間に挟まれており、当初は武田氏に臣従していました。しかし、遠山景任は信長の叔母であるおつやの方(修理夫人・女城主)を妻に迎え織田氏の助力を受けて武田氏と争いました。元亀元(1570)年には武田勢の秋山信友が侵攻してきましたが、信長の支援を受けている景任は自ら出陣してこれを退けました。

元亀3(1572)年になると景任が病没。後継者がいなかったため、信長は我が子である御坊丸(後の織田勝長)をその嗣養子として岩村城へ送り込みます。ただし、御坊丸は8歳とまだ幼かったことから、おつやの方が実質的な城主を務めています。信友はその後も岩村城の包囲を続け、やがておつやの方を妻に迎えることで岩村城を接収することに成功しました。このとき、御坊丸は人質として甲府に送られています。

武田氏が長篠の戦いに敗れた後は、織田氏が攻勢に出て、信長の嫡男である織田信忠が岩村城を包囲。天正3(1575)年に信友は岩村城を明け渡して降伏。信長は事前の約定を破り、信友とおつやの方を磔にして処刑しています。岩村城には河尻秀隆が城主として入り、城郭の改築・造営を取り組みました。

森氏の3兄弟が城主を務める

天正10(1582)年に信長が武田氏を滅ぼすと秀隆が甲斐国へと移封となり、替わって森蘭丸(成利)が18歳で岩村城の城主となります。しかし、蘭丸は同年に起きた本能寺の変で戦死したため、岩村城城主は兄の森長可が信濃から戻り引き続きました。

天正12(1584)年、豊臣秀吉と徳川家康が小牧・長久手の戦いで激突。中入りして三河侵攻を目指した長可は戦死してしまいます。岩村城は弟の森忠政が引継ぎ、森氏が岩村城の城主を3代に渡って務めている間は、家老の各務元正が城代として岩村城の守りをさらに固めました。家康に味方する遠山利景が小牧・長久手の戦いの最中に岩村城に攻め寄せましたが、天正がこれを撃退しています。森氏はこうして旧支配者である遠山氏の復帰を防いだのです。

慶長4(1599)年、忠政は信濃松代へと移封となると森氏の統治は終了し、伊勢北畠氏の庶流である田丸直昌が城主となりました。ただし翌年の慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが始まると直昌は西軍に味方し、戦いの終了後に改易となってしまいます。

江戸期以降の経歴

関ヶ原の戦い後、岩村城の城主を務めたのは大給松平氏6代当主の松平家乗で、岩村藩2万石の初代藩主となります。家乗は上野那波に建立した菩提寺・盛巌寺を岩村に移し、自らの菩提寺の龍巌寺も岩村城山麓に建立しました。この際に藩邸も山麓に移し、家乗は城下町を整備しています。

正保2(1645)年、松平氏が上野館林に移封となり、替わって三河伊保藩から丹羽氏信が岩村城の城主となりました。丹羽氏は5代35年に渡り岩村城の城主を務めましたが、元禄15(1702)年、7代藩主の丹羽氏音の時代に抜擢した側用人と旧臣との間で軋轢が生じ、これがお家騒動として幕府に判断されたため丹羽氏は越後高柳藩へと移封となります。

ここで岩村城の城主となったのは、岩村藩初代藩主の子孫にあたる大給松平氏でした。松平乗紀は信濃小諸藩から岩村城へと入ります。この際の記録では、岩村城の標高は717m、城囲いは1255m、山回りは3700m、石垣場所は31箇所で1700m、櫓は11箇所と記されています。乗紀は知新館の前身となる文武所を興して人材育成に力を入れました。こうして大給松平氏は7代170年に渡り岩村を統治していきます。

最後の藩主である松平乗命は、明治元(1868)年に官軍に帰順。版籍奉還によって岩村藩知事に任じられました。しかし、明治4(1871年)に廃藩置県によって岩村藩は廃藩。さらに明治6(1873)年に廃城令により岩村城は廃城となって解体されてしまいました。こうして岩村城は700年もの歴史に終止符を打つことになるのです。

山麓の藩邸は解体されませんでしたが、明治14(1881)年に火災により全焼しています。遺構として本丸、二の丸、三の丸、東曲輪、出丸、櫓、石垣と多くが残されています。昭和47(1972)年、藩邸跡に岩村町歴史資料館(現在の岩村歴史資料館)が建てられ、平成2(1990)年には藩邸の一部であった表御門、平重門、太鼓櫓、さらに藩校の建物と門が復元されました。平成18(2006)年には日本百名城に指定されています。

おわりに

戦国時代に武田氏と織田氏が死闘を繰り返し奪い合った岩村城。廃城令までのおよそ700年間もの長きに渡って岐阜にそびえ立っていました。これほどの長期間存在した城はとても稀です。岩村城はまさに戦国の歴史を物語っています。その壮大な石垣は建てられた時代を偲ばせ、歴史好き・城好きの人々を大いに楽しませてくれるのです。

※参考:略年表
文治元(1185)年源頼朝重臣、加藤景廉が遠山庄地頭に補せられ、築城する
元亀元(1570)年城主である遠山景任が、侵攻してくる武田軍の秋山信友を撃退する
元亀3(1572)年景任が病没し、信長の子で景任の嗣養子の御坊丸が家督を継ぐ。景任の妻であったおつやの方が信友と婚姻する条件で武田軍に降伏。信友が城主となる
天正3(1575)年織田信忠が岩村城を落とす。信友は磔とされる。河尻秀隆が城主となる
天正10(1582)年甲州征伐後、森蘭丸(成利)が城主となる。本能寺の変で蘭丸戦死し、兄の森長可が城主となる
天正12(1584)年小牧・長久手の戦いで長可が戦死し、末弟の森忠政が城主となる
慶長4(1599)年忠政が信濃松代へ移封となり、田丸直昌が城主となる
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで西軍に味方した田丸氏は改易となり、大給松平氏の松平家乗が初代岩村藩主となる
慶長6(1601)年藩主邸を山麓に移し、城下町を整備する
正保2(1645)年大給松平氏が上野館林転封となり、丹羽氏信が城主となる
元禄15(1702)年丹羽氏が越後高柳転封となり、大給松平氏の松平乗紀が城主となる
明治6(1873)年廃城令により解体される
明治14(1881)年残されていた藩主邸が全焼する
昭和47(1972)年跡地に岩村町歴史資料館が建てられる
平成2(1990)年表御門、平重門、太鼓櫓、藩主邸の一部、藩校とその門が再建される
平成18(2006)年日本百名城に指定される


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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