戦国期までに各地の要塞として数多く造営された「山城」ですが、そのすべてが必ずしも十分な威力を証明したわけではありませんでした。時にはほとんど戦場になることなく開城した例もあり、城そのものの戦闘力への評価が分かれる原因ともなっています。
そんな真の能力が不明な山城の代表格が、近江の「観音寺城」ではないでしょうか。 きわめて大規模な城塞でありながら、戦闘においては徹底防戦せずに幾度も開城したという謎の多い城でもあります。
今回はそんな、観音寺城の歴史を概観してみることにしましょう!
(文=帯刀コロク)
観音寺城は現在の滋賀県近江八幡市安土町に所在した山城で、佐々木城の別名でも知られています。
琵琶湖の東側、南北に伸びた標高約433メートルの繖山(きぬがさやま)に立地し、日本五代山城のひとつに数えられることもあります。
多数の曲輪や長大な虎口、当時の山城には珍しい総石垣を備えるなど、極めて大規模な城塞です。
築城年代は定かではありませんが、近江源氏の佐々木氏や近江守護の六角氏が居城とし、建武2(1335)年には六角氏頼が観音寺城の前身となった砦に籠ったことが記録されています。
正平7 / 観応2(1352)年には佐々木道誉らが南朝勢力との抗争で敗退、繖山の城砦まで撤退し籠城しました。
一説には、観音寺城が現在知るところの山城として築城されたのは応仁2(1468)年のこととされていますが、これについても正確なところは不明です。
同年、応仁の乱に端を発する六角高頼と京極持清・勝秀・六角政堯との争いである第一次・第二次にわたる観音寺城の戦いが勃発。いずれも観音寺城は開城または落城しています。
翌年には近江守護を解任された六角高頼が観音寺城を修築して再防備を行い、第三次観音寺城の戦いでは京極軍の撃退に成功しました。
延徳元(1489)年、延徳3(1491)年にはそれぞれ室町幕府9代・10代将軍の足利義尚・義稙の親征を受け、いずれも一時的に観音寺城を放棄し後に奪還するという戦術をとっています。
以降、幾度かの内乱などを経て、永禄11(1568)年には上洛途上の織田信長による攻撃を受けます。
信長の上洛以降を安土桃山時代と区分した場合、戦国時代最後の戦いともいえる観音寺城の戦いですが、実際には支城の箕作城などが激戦地となったため、箕作城の戦いとも呼ばれています。
箕作城及び和田山城を落とされたことによって、六角義賢・義治父子は観音寺城を放棄。その後六角氏は観音寺城に戻ることはなかったとされていますが、元亀年間(1570~73)頃に石垣の修築が施されたという説があります。
正確な廃城時期は不明で、平成18(2006)年に日本100名城のひとつに選定されています。
戦国期における六角氏の戦術では、観音寺城を拠点として本格的な籠城戦で対抗したという事例が見当たりません。
これは前線に出撃して防備するというスタイルにもよりますが、一方では観音寺城は防御力に劣る城という考え方も唱えられてきました。
攻撃を受けると躊躇なく一旦放棄し、その後奪還するということが再三あり、戦闘のための要塞というよりは政庁機能を重視した権威付けの城だったのではないかという見方です。
半面、当時においては最大限の工夫が施されており、進化していく築城技術の発展途上として位置づける意見も提唱されています。
東西交通の要衝であり戦略的にも重要な土地であった近江は、古くからその権益をめぐって激戦地となっていました。 観音寺城は最終的には無血開城という運命をたどりますが、おびただしい支城がそれを守るように配されていました。
観音寺城のすぐ目の前、安土山に信長の安土城が建設されたのは、変わることのない近江の重要性を物語っているかのようです。
※参考:略年表