「第五次川中島の戦い(1564年)」5度にもわたる川中島が閉幕。結局どっちが勝者?

 武田信玄と上杉謙信の最大の激突となった第四次川中島の戦いの後、武田勢と上杉勢のせめぎ合いは、北信濃に留まらず、上野国や飛騨国など広範囲に及びました。

 両者最後の戦いとなった第五次川中島合戦は一体どのようなものだったのでしょうか。そして5回にも渡った川中島の戦いがもたらしたものとは?本記事でみていきます。

上野国での謙信と信玄の攻防

 壮絶な死闘となった永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いですが、その後の信玄と謙信の戦いは他国でも繰り広げられました。

信玄が徐々に勢力を拡大

 両者の新たな戦いの舞台のひとつが北関東にある上野国でした。

 ここには武田方の同盟国である北条氏も積極的に介入しており、「上杉氏 VS 武田氏・北条氏連合」という構図でした。そしてこの争いに巻き込まれた関東諸将は服属と離反を繰り返すことになります。

 かつて上野国は山内上杉氏が守護を務めていた土地でしたが、関東管領の上杉憲政が北条氏に敗れて追い出され、その後、憲政を保護した謙信が関東遠征を行います。その影響で上野国と武蔵国は謙信の勢力下に置かれていました。

 実のところ、信玄は川中島を巡る戦いで謙信と交戦中も、着々と諸国への調略の手を伸ばしていました。当然上野国もこれに該当、特に西上野の甘楽郡は、信濃国の佐久郡とは隣接しているのです。

 信玄は甘楽郡の小幡氏と通じ、第四次川中島のすぐ後の永禄4年(1561)11月には佐久郡松原社に願文を納めて戦勝祈願をし、上野国へ出兵して甘楽郡の高田城などを陥落させ、さらに国峯城も攻略しています。国峯城は小幡氏の本拠であり、小幡憲重と小幡信真親子は旧領を取り戻しています。

 続いて翌永禄5年(1562)には和田城の和田業繁を調略し、服属させることに成功。その他にも北条氏と結託し、群馬郡箕輪、惣社、倉賀野城を攻め、さらに上野国から武蔵国へと侵攻して永禄6年(1563)には、松山城を陥落させています。

 『宇都宮家所蔵文書』には、信玄が下野国の宇都宮氏にも書状で戦況を伝え、味方に付けようとしたと記録されています。

武田・北条勢に翻弄される謙信

 謙信も救援のために松山城に向っていましたが、東およそ8kmの武蔵国石戸まで進んだ地点で松山城は陥落しており、目標を切り替えて北条氏の諸城を攻めて、下野国の古河城を陥落させています。

 信玄は松山城からの帰路で上野国の碓氷郡に侵攻し、安中城を攻めて安中景繁を降伏させました。これにより、碓氷郡はほぼ掌握しています。さらに帰国してまもなくの永禄6年(1563)4月、今度は謙信の留守中に北信濃を攻め、越後国を脅かす行動に出ました。飯綱山の麓に軍用道路を整備し、攻略の準備を始めたのです。

 この報を知った謙信は6月に越後へ帰国を余儀なくされました。するとその隙に今度は北条氏が動いて古河城を再び攻略しています。

 信玄は謙信が関東に出れば、北信濃から越後国を脅かし、謙信が北信濃に出れば、また関東を脅かすという具合で、正面からの衝突を避けながらジリジリと勢力を拡大させていきます。

 同時期には上野国吾妻郡で、羽尾氏を支援する岩櫃城主の斎藤憲広と、鎌原氏を支援する真田氏で抗争が勃発。真田幸隆(幸綱)は調略で憲広の甥や海野兄弟の内応に成功させ、10月には岩櫃城を攻略。信玄は岩櫃城の城代に幸隆を任命し、鎌原氏や湯本氏などの吾妻衆を与力として付けました。

真田幸隆の肖像画
真田幸隆の肖像画

12月になると、信玄が再び西上野へ出陣して倉賀野城を攻めたので、謙信もすぐさま関東へ出陣します。謙信が上野国の和田城を攻め、倉賀野城へ迫る謙信を尻目に、信玄と北条氏は由良成繁の上野国新田郡の金山城を攻めましたが、謙信が救援軍を送ると、すぐに撤退しています

 翌年の永禄7年(1564)2月には武田の別働隊が吾妻郡の尻高城を攻略。そして3月には信玄が信濃国水内郡の野尻城を攻略し、ついに越後国領内へも乱入して村々を焼き払う事態に陥ります。4月には信玄に誘われた陸奥国の芦名盛氏が越後国へ侵攻しますが、関東から急いで帰国した謙信に敗れ、やがて野尻城も謙信に奪回されました。

 同月末頃、信玄自らが西上野へ出陣し、倉賀野城を攻略します。5月になると信玄は信濃国佐久郡平原に帰陣。こうしたまさに神出鬼没といった信玄の動きに謙信は翻弄されていきました。

飛騨国での謙信と信玄の攻防

飛騨国の内乱状態

 6月には、信玄は飛騨国でも調略の成果を発揮します。当時の飛騨国は、南部を支配する桜洞城(岐阜県益田郡萩原町)の三木良頼と、高堂城(同吉城郡国府町)の広瀬宗城が対立しており、ここに高原諏訪城(吉城郡神岡町)の江馬時盛が広瀬氏を支援し、子の輝盛は三木氏に加担するという内乱状態でした。

 信玄は時盛から援助要請を受け、飯富昌景(後の山県昌景)、甘利昌忠、馬場信春の軍勢と、木曾勢を飛騨国へ派遣しました。

 飛騨国にも勢力を拡大する信玄に対して、謙信は良頼の要請を受け、越中の諸将らを派遣して援助させ、武田勢の侵攻を食い止めにかかります。つまり武田方(広瀬宗城・江馬時盛)vs 上杉方(三木良頼・江馬輝盛)という対立構図になったのです。

謙信は再び川中島へ侵攻

 信玄が飛騨国をも支配するようになれば、やがてそれが越中国にも及び、越後国の背後を狙われる恐れがありました。そうした危機感から、信玄の飛騨出兵を牽制するため、謙信は再び川中島への出陣を決意。越後彌彦神社に願文を納め、信玄の滅亡と信濃勢力の回復、関東・越中の平定を願っています。

 謙信は信玄の本陣がどこにあるのか、その情報を掴むことができずにいました。信玄もあちらこちらに本陣の旗を立てて、謙信の目をくらましていたようです。謙信としては、信玄が最重要拠点としている川中島へ出陣すれば、信玄自身が出てこざるを得ないという見通しだったはずです。

 できれば決着をつけたい謙信とそれをのらりくらりとかわし続ける信玄が、こうして再び川中島で対峙しました。

第五次川中島の経緯

2ヶ月に及ぶ対峙

 謙信が越後国の春日山城を出陣したのは、永禄7年(1564)7月のことです。向かった先はやはり長野盆地の善光寺でした。

 7月29日には謙信が善光寺に着陣したと記録されています。そして8月1日には、願文を更級八幡社(更埴市)に納めて信玄の撃滅を祈りました。

第五次川中島合戦、および上野・飛騨等の攻防の要所。色濃い部分は左から飛騨・信濃・上野国

 8月3日には犀川を渡って川中島に布陣しますが、肝心の信玄の姿が見えません。謙信は信玄を倒し、一気に事態解決を目論んでいましたが、既に川中島一帯を掌握している信玄としてみればいたずらに兵を損なう必要がありませんから、初めから合戦する気がなかったと考えられます。

 戦線が関東の上野国、北陸の飛騨国、そしてこの北信濃と長く伸びきっている以上、長期戦となればやはり謙信は北信濃だけにかかりっきりになるわけにはいきません。他の戦局が悪化すれば謙信は兵を退かなければならなくなるのです。

 信玄が塩崎城に入ったことが確認できた謙信でしたが、敵地ということもあり、守りに徹する信玄に対してうかつに攻め込むこともできません。こうして小競り合いもないまま、対陣がおよそ60日間に及びました。やがて下野国佐野の佐野昌綱が、再び北条氏に寝返ったとの報が謙信に届けられると、10月1日、謙信は成果をあげられぬまま春日山城に帰還しました。

 こうして第五次川中島の戦いは睨みあいだけで終わってしまったのです。

おわりに

 その後、川中島を巡る争いはピタリと止まります。理由は信玄の外交方針の転換にありました。

 信玄は相模国、駿河国との三国同盟を破棄し、織田信長と結んで駿河国へ侵攻するようになったからです。結果として北条氏と手切れとなって合戦を繰り返すようになり、信玄は謙信と和睦をして東海道の制圧に力を注いでいくのです。

 長きに渡った川中島の戦いはこうして幕を閉じたわけですが、全体を通じて川中島の支配を強めた信玄方が優勢だったと考えられています。しかし、信玄だけでなく、遠く関東の北条氏とも戦いながらその武威を示した謙信もまた優れた戦国大名だったことに間違いありません。まさに戦国時代を代表する両雄の戦いだったといえるでしょう。


【主な参考文献】
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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