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 2019/05/21

「第二次川中島(1555年)」別名は犀川の戦い。長期滞陣で両軍とも疲弊か?

信玄vs謙信の一騎打ち

天文22年(1553年)9月、信濃国八幡でついに激突した武田信玄と上杉謙信(この時は長尾景虎)でしたが、あくまでも前哨戦であり、相手の様子をうかがうような小規模な戦いで互いに兵を退きました。

おそらく、互いにこれまで戦ってきた相手とは一味も二味も違う好敵手と感じていたことでしょう。こうして信玄と謙信が繰り広げる「川中島の戦い」は、なかなか決着がつかず、合計で五回行われました。

今回は両陣営の二度目の武力衝突となる「第二次川中島の戦い」についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

戦いの背景は?

武田信玄の長野盆地への侵攻

第一次川中島の戦いが行われた後、信玄は信濃国伊那郡の和久氏を滅ぼし、佐久郡の反武田勢力を鎮圧。さらにはその間に謙信方の諸将らに調略を仕掛けていました。

越後国刈羽郡の北条高広は、そんな信玄に内通して天文23年(1554年)に反乱を起こしました。ただ、結局は信玄からの援軍を得られずに、謙信の攻撃を受けて翌天文24年(1555年)2月に降伏しています。

このような情勢の中、信玄が川中島をはじめとする長野盆地の制圧を目指して侵攻してくるのは時間の問題でした。

同年3月には、信玄は家臣である大日方入道・主税助らに感状を与えていますが、これは彼らに安曇郡千見(北安曇郡美麻村)を占領させて、糸魚川方面からの越後勢の侵略に備えさせたことによるものです。

こうして信玄は用意周到に長野盆地への侵攻の準備を進めていきました。

善光寺を巡る戦い

長野盆地には善光寺があります。この頃の善光寺別当職には、大御堂主である里栗田氏と、小御堂主である山栗田氏がありましたが、信玄は調略によって山栗田氏を離反させ、味方につけることに成功しました。

この事態を放っておけない謙信は雪解けを待って4月に出陣します。山栗田氏の当主、栗田永寿は旭山城に籠城しました。信玄は旭山城の援軍として兵三千に弓八百張、そして鉄砲を三百丁ほど送っています『勝山記』。そして4月末には信玄自らも出陣したのです。

謙信は旭山城の向いに葛山城を築き、信玄は犀川を隔てた大塚(長野市青木島町)に後詰として着陣して、謙信の軍勢と対峠しました。なお、具体的な日時は不明ですが、武田氏と同盟関係にあった駿河国の今川氏も援軍を送り込んでいます。

第二次川中島の戦いの経過

両者の力が拮抗しているため、犀川を境にして長いにらみ合いが続くことになります。

信玄としては謙信の主力を調略によって崩したわけでもなく、策もなく正面からぶつかっていたずらに兵を失いたくなかったのでしょう。敵陣に隙が見えないためか謙信も5月、6月と動かずに静観しています。おそらく小規模な小競り合いはあったと思われますが、詳細は記録されていません。

第二次川中島合戦の要所。色が濃い部分は信濃国

意を決した謙信が7月19日になって、犀川を渡河して交戦になったものと推測されますが、どれほどの兵力で信玄の陣へ攻め込んだのかはわかっていません。様子見程度の攻撃だった可能性もあります。その後、これ以上の規模の交戦はなかったようです。

こうして二度目の対峙は、なんと200日間にも及ぶ膠着した長期戦となってしまうのです。

今川氏の仲介で決着。

長期対陣によって兵糧の問題や士気の問題など次々と浮上、この対処には信玄も謙信も苦労したようです。

信玄が味方の士気を上げるために対陣中に知行地を与える約束をしていた記録が残っています。

9月10日には、諏訪上社神長官である守矢頼真に、怨敵退散の祈願を依頼。9月25日には水内郡漆田郷(長野市)の社領を安堵。10月5日には、7月の戦功の賞として、小島修理亮と同心7人に、高井郡高梨のうち河南1500貫を与えると約束しています『歴代古案』。

謙信も長期戦を覚悟しており、家臣らに「対陣が何年に及ぼうとも在陣する」ことや「陣中での喧嘩は成敗とする」ことなどの誓紙を提出させ、士気を維持しようとしています。

信玄はこれ以上対陣を続けても消耗するだけと判断し、調停を今川義元に依頼し、10月15日には謙信と和議を結びました。両軍がそれぞれの勢力を侵すことのないように誓詞を交換して撤兵帰国することになったのです。

和議を結ぶ条件として、信玄は最大限譲歩し「武田方の旭山城を破却する」ことと、「川中島一帯に領土を持っていた井上氏、須田氏、島津氏の帰国」を提示しました。謙信はこの条件には満足したようです。ちなみに村上義清の領土については、完全に武田領となっていたためか、謙信もこれについては触れていません。

まとめ

このように第二次川中島の戦いは、実際に川中島で衝突があったものの、長期に対陣が及んだため両陣共に疲弊しただけで終わりました。

この戦いで信玄が出した感状は10通とされていますが、謙信のものは1通しか確認されていないため、信玄の方が優勢だったのではないかと考えられています。


【主な参考文献】
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 柴辻俊六『信玄と謙信』(高志書院、2009年)




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