【石川県】金沢城の歴史 加賀百万石のシンボルとして名高い、日本百名城のひとつ

 前田利家をはじめとした加賀藩前田氏当主の居城として明治維新まで使用された加賀百万石の象徴「金沢城」。日本百名城のひとつであり、城郭付属の庭園である「兼六園」も有名です。今回はこの金沢城の歴史についてお伝えしていきます。

もともとは浄土真宗の寺院

 金沢城の前身は、加賀一向一揆が拠点としていた浄土真宗の寺院で、天文15年(1546)に建てられました。尾山御坊、御山御坊、金沢御坊といった名称で呼ばれており、空堀や柵といった防御機能を有してお城と同じような防衛拠点だったのです。

 天正8年(1580)、この尾山御坊を攻略したのが、織田信長配下の佐久間盛政でした。盛政は信長から加賀一国を与えられ、尾山御坊を金沢城と改称して居城としました。盛政が統治した期間はわずかですが、初期の城下町である尾山八町や百間堀の整備などに取り組んでいます。

金沢城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 本能寺の変が起ると、盛政は柴田勝家に従い羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立することになります。そして盛政が天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いで敗北して斬首されると、秀吉から加賀を与えられた前田利家が入城。金沢城を一時、尾山城と改称しましたが、高山右近を招いて改修工事を行った際に金沢城に名称を戻したと伝わっています。このときに大手を西丁口から尾坂口へ変更しました。

加賀藩の藩庁として前田氏が統治

 金沢城は加賀藩主である前田氏が14代に渡り、居城としています。

 前田利家は、家督を継ぐ前田利長(初代藩主)に文禄元年(1592)に石垣の普請を命じました。利長は慶長4年(1599)には内総構堀を整備、さらに嗣養子の前田利常に徳川家康の孫である珠姫が入輿すると、蓮池庭内に江戸町を整備してその従者を住まわせています。

 もともとは金沢城に天守がありましたが、慶長7年(1602)に落雷によって焼失してからは幕府に目を付けられることを警戒して再建されず、本丸には三階櫓、二の丸には御殿が建設されました。

 家督を継いだ利常は、慶長15年(1610)に外総構堀を完成。外敵の攻撃を受けることもなく平穏な金沢城でしたが、その後にたびたび火災を起こしています。元和6年(1620)、寛永8年(1631)と火災によって金沢城は被害を受けており、さらに宝暦9年(1759)の大火によって金沢城は全焼しました。お城のほとんどの建設物をここで焼失しています。このときに蓮池御殿が灰となりましたが、11代当主である前田治脩が安永3年(1774)に再興しました。

 ちなみに蓮池庭に御殿を建設し、周辺に作庭して兼六園の基礎を築いたのは5代当主の前田綱紀で、延宝4年(1676)のことでした。大火以降、二の丸を中心とした整備が行われましたが、本丸の櫓は再建されていません。

 天明7年(1787)、二の丸菱櫓と石川門の普請が完成。文化5年(1808)にはまたも火災が起こり、二の丸御殿が全焼しました。文化6年(1809)には橋爪門と二の丸菱櫓の造営が完了しています。

 天保8年(1837)には13代当主の前田斉泰によって現在残る兼六園の姿まで整備されました。三十間長屋は安政5年(1858)に完成。斉泰は文久3年(1863)には母堂真龍院のために巽新殿(成巽殿)を建設しました。前田氏が統治している期間、金沢城はこのように火災と再建・整備を繰り返してきたのです。

国の指定史跡となる

 明治維新後は兵部省、陸軍省の管轄となりましたが、明治14年(1881)に金沢営所からの出火により二の丸が全焼しています。

 なお、兼六園が市民に初めて開放されたのが明治5年(1872)のことで、明治7年(1874)には石川県の公園として正式に開放され、大正11年(1922)には金沢公園という名で名勝に指定されました。ただし、大正13年(1924)には兼六園に名前を戻しています。

 昭和13年(1938)、成巽殿が当時の国宝保存法に基づいて旧国宝に指定され、昭和25年(1950)には文化財保護法によって石川門と同じく重要文化財に指定されました。三十間長屋も昭和32年(1957)に重要文化財に指定されています。

 昭和60年(1985)には兼六園が名勝から特別名勝へと格上げされています。石川県が平成8年(1996)から用地を取得して金沢公園として整備し始め、平成13年(2001)には菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元されて金沢城公園の新しいシンボルとなり、平成20年(2008)に城址は国指定史跡となりました。同年、鶴丸倉庫も重要文化財に指定されています。

 その後も整備が続けられ、平成22年(2010)には河北門、平成27年(2015)には橋爪門二の門、玉泉院丸庭園、令和2年(2020)には鼠多門、鼠多門橋が完成しています。

おわりに

 金沢城は度重なる火災によって当初の姿とはやや異なるものの、復元が進み、金沢城公園と兼六園は江戸期の景観を見事に再現しています。

 この地を訪れて、江戸時代の空気と加賀百万石の前田氏の栄華を感じてみるのもいいのではないでしょうか。

補足:金沢城の略年表


金沢城兼六園
天文15年(1546)金沢城の前身である金沢御坊創建 
天正8年(1580)織田信長の軍勢が制圧し、佐久間盛政が城主となり、金沢城と改名 
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで盛政が斬首となり、前田利家が城主となる 
文禄元年(1592)石垣普請が開始 
慶長4年(1599)内総構堀が完成 
慶長6年(1601) 徳川家康の孫である珠姫が入輿。蓮池庭内に江戸町を設立
慶長7年(1602)落雷によって天守閣が焼失 
慶長15年(1610)外総構堀が完成 
元和6年(1620)火災により金沢城焼失 
寛和8年(1631)再び火災により金沢城焼失 
寛永9年(1632)金沢城に水を引く辰巳用水完成 
延宝4年(1676) 蓮池御殿、蓮池庭(兼六園)の作庭開始
宝暦9年(1759)大火により金沢城全焼蓮池御殿も焼失
安永3年(1774) 蓮池庭を再興
天明7年(1787)二の丸菱櫓、石川門普請完成 
文化5年(1808)火災により二の丸御殿全焼 
文化6年(1809)橋爪門、二の丸橋菱櫓造営完成 
文政5年(1822) 竹沢御殿完成、兼六園と命名
天保8年(1837) 兼六園の整備完了
嘉永4年(1851) 竹沢御殿取り壊し
安政5年(1858)三十間長屋完成 
文久3年(1863) 巽新殿を築造
明治4年(1871)金沢城が兵部省の管轄となる兼六園が初めて一般公開
明治7年(1874) 兼六園が公園に認可される
明治14年(1881)火災により二の丸全焼 
大正11年(1922) 兼六園が金沢公園として名勝に指定される
大正13年(1924) 兼六園の名前に戻る
昭和13年(1938) 成巽閣が国宝に指定される
昭和25年(1950)石川門が重要文化財に指定される成巽閣、重要文化財に指定される
昭和32年(1957)三十間長屋が重要文化財に指定される 
昭和60年(1985) 兼六園が特別名勝に指定される
平成8年(1996)石川県が金沢城公園として整備 
平成13年(2001)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓復元完成 
平成20年(2008)鶴丸倉庫が重要文化財に指定される。金沢城城址が国指定史跡となる 
平成27年(2015)橋爪門二の門、玉泉院丸庭園完成 
令和2年(2020)鼠多門、鼠多門橋完成 


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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