【富山県】高岡城の歴史 前田利長の隠居城として築城、急ピッチで作られたワケ

高岡城跡(高岡古城公園)
高岡城跡(高岡古城公園)
 現在の富山県高岡市にあり、日本百城にひとつにも数えられる高岡城(たかおかじょう)は、城として機能していた時期がわずか5年ほどという珍しい経歴を持っています。築城された時期も関ヶ原の戦い以降であり、合戦に利用された記録もありません。

 今回はこの高岡城がどのような理由で築城され、どのようにして城址が現代に残されたのか、その歴史についてお伝えしていきます。

前田利長の隠居城として築城

 江戸時代初期、加賀藩主の前田利長は、家督を弟の前田利常(利長の養子でもある)に譲った後も富山城を居城として藩政を支えていました。

 しかしその富山城は慶長14年(1609)に焼失。利長は魚津城に移りますが、より地の利に適した場所を拠点にすべく、幕府に願い入れて越中関野に新城の建設と城下の整備を開始します。これが高岡城です。利長は半年後の高岡城が完成する前から入城し、関野を高岡という名称に改めました。

高岡城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 高岡城の縄張りは、当時客将となっていた築城の名手である高山右近と伝わっていましたが、最近の研究によると、利長自身で縄張りを行った可能性が高くなっています。利長が高岡城の築城や城下町の造成のために記した書状は30通以上残されているのです。

 前田氏は利常が家康の孫を正妻に迎えており、完全に徳川方の大名となっていましたが、大坂には豊臣秀頼も健在で、その間にあったからこそ、すぐに軍事行動がとれるように富山城以上に堅固な軍事拠点が必要でした。

 築城のために集めた人夫は、加賀・越中・能登という前田氏の領地全域からおよそ1万人で、利長自身その書状で築城をかなり督促しています。砦も館もない状態から城をわずか半年ほどで完成させたのは、豊臣氏と徳川氏の関係がそれだけ緊迫していたからです。

 その急務ぶりは、『越登賀三州記』によると、高岡城築城には秀吉から賜った伏見にある豊臣秀次の館の良材を用いるほどでした。あまりにも築城を急ぎすぎたため、本丸の石垣が崩れるという事故も発生しています。人員の徴収については、農作業への負担になるため回避したい領民が、夫銀を支払い労役免除になる制度が設けられ、明治維新まで存続しました。

 しかし、急ピッチで作られた城ながら、高岡城は自然の地形、水堀、複数の郭を土橋で繋げた重ね馬出が効果的に利用されており、その防御力は富山城をもしのぐものだったと考えられています。研究家によっては、近世城郭で馬出をここまで有効活用しているものは他にないと高い評価をしています。

 利長は前田氏居城である金沢城の地勢上の弱点も見抜いていたため、その弱点も克服した難攻不落の強固な城郭をここに作り上げたのです。なお、天守や櫓が建てられていたかどうかははっきりとはわかっていません。発掘調査によって幅50cm以上の御殿が本丸にあったことが確認されています。


高岡城の廃城

 そうして完成した高岡城でしたが、利長が慶長19年(1614)に死去。徳川氏と豊臣氏の最後の決戦となった大坂冬の陣の際には稲垣与右衛門、夏の陣の際には岡嶋備中守一吉が高岡城に入城して守りを固めました。高岡城が注目され、活躍するような機会はありませんでした。

 そして慶長20年(1615)、豊臣氏が滅ぶと幕府は一国一城令を発したため、高岡城は廃城と決まります。ここで当時の建設物はすべて破却されたものと考えられており、現在は一部の石垣と井戸以外の遺構は何も残っていません。ただし総面積の37%にあたる人口の水堀を利常は埋め立てることはしませんでしたので、軍事拠点としての防御機能は有した状態のままでした。

 米倉などを設置しつつ、番人を設置して一般の出入りを禁止し、さらに大手口の前に古定塚町から町屋を移転させて高岡城跡を隠すようにして利用しています。つまり高岡城跡は、幕府に気づかれないようにしながらも領地を守る拠点として存続していたのです。

 正保2年(1645)、利常は利長の33回忌に向けて菩提寺となる瑞龍寺の着工を開始。翌年には八丁道と利長墓所を造営して南方の防衛線を強化しました。

 なお、高岡町奉行が管理していた米蔵、塩蔵、火薬蔵などは文政4年(1821)の高岡大火によって一度全焼してしまいました。本丸には御収納米蔵が2棟、御詰塩蔵が1棟、御郡方作喰米蔵が1棟、御本丸が1棟、番所が1棟、二の丸には番人御賃家が2棟、矢来門1棟、明丸には鉄砲薬土蔵が1棟、三の丸には矢来門1棟が設置されていたと伝わっています。

高岡古城公園として整備される

 明治3年(1870)になると、金沢藩は高岡城跡を払い下げて開墾させようと試みましたが、保存を請願する町民運動などがあり、落札者も決定されていたものの開墾はされませんでした。

 明治6年(1873)には二上山麓の射水神社が高岡城本丸跡に遷座することが決定。さらに公園指定請願の動きは強まり、明治8年(1875)、ついに高岡古城公園として認められます。

 明治36年(1903)以降は、高名な庭師や造園家によって改築工事や改修工事が行われて近代公園として整備されていきます。中の島が造成されたのは明治40年(1907)のことです。さらに昭和26年(1951)に開催される高岡産業博覧会に向けて大改修が行われ、現在の高岡古城公園の原型を作り上げました。

 昭和40年(1965)には県史跡に、平成元年(1989)には都市公園百選にも選定されています。

 高岡城跡は一国一城令が発せられた際に利常が埋め立てることをしなかった水堀がほぼ完全な状態で保存されており、その貴重価値が評価され、平成27年(2015)には国の史跡に指定されました。二の丸、三の丸の馬出郭もほぼ当時のまま残っていることから、軍事面や築城技術について研究されています。

おわりに

 まったく何もないところからわずか半年ばかりで築城された高岡城。城として機能する機会はほとんどありませんでしたが、廃城となった後も金沢藩にとってとても重要な軍事拠点だったのです。

 天守や櫓といった防衛建築物の存在が確認されなくても、城の防御の要となった水堀と馬出は高い評価を受けており、県内で唯一、日本百名城に認定されています。他の名城とは違った歴史や特徴を堪能できる貴重な城址と言えるでしょう。

 特に前田氏の歴史に興味がある人は訪れて、徳川氏と豊臣氏の間で揺れる時代の中で、なとしても領地を守ろうとした利長や利常の周到さを感じてみてはいかがでしょうか。

補足:高岡城の略年表


出来事
慶長14年
(1609)
前田利長が関野に新城の建設を開始
慶長20年
(1615)
一国一城令により高岡城は廃城
正保2年
(1645)
前田利常が利長の菩提寺である瑞龍寺着工
文政4年
(1821)
高岡大火によって米倉全焼
明治3年
(1870)
金沢藩が高岡城跡払い下げ開墾布達
明治5年
(1872)
七尾県が払い下げ断行
明治7年
(1874)
射水神社が本丸跡への遷座決定。公園指定請願書が提出される
明治8年
(1875)
高岡城址が高岡公園となる
明治36年
(1903)
4年に渡り改修工事が行われる
明治40年
(1907)
中の島が造営される
昭和26年
(1951)
大改修後、高岡産業博覧会開催
昭和40年
(1965)
県史跡に指定される
昭和42年
(1967)
県定公園に指定される
平成元年
(1989)
日本都市公園百選に選定される
平成18年
(2006)
日本百名城に選定される
平成27年
(2015)
国史跡に認定される


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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