「高橋紹運」島津軍の九州制覇計画を打ち砕いだ武将!

高橋紹運のイラスト
高橋紹運のイラスト

戦国時代の九州は、島津により統一へと向かっていました。
しかし最後まで大友家に忠義を尽くし、果敢に抵抗した武将がいます。大友家の宿老・高橋紹運(たかはし じょううん)です。

彼による抵抗は、島津家による九州統一を阻み、戦国時代の行く末に一石を投じました。
紹運は立花道雪の盟友にして、立花宗茂の実父にあたります。

一体彼はどのような武将だったのでしょうか。高橋紹運の生涯を見ていきましょう。


高橋氏の家督を相続する

毛利元就を相手に初陣を迎える

天文17(1548)年、高橋紹運は大友家重臣・吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)の次男として豊前国筧城で生を受けました。母は大友義鑑(豊後大友家第20代当主)の娘・貞善院です。


吉弘氏は大友家の庶流にあたります。主君である大友家とは姻戚関係を結ぶなど密接な繋がりで結ばれていました。
紹運は早くから武将としての素質を期待されていたようです。


永禄4(1561)年、第四次門司城の戦いで初陣を迎えました。このとき、紹運はまだ十三歳という若さです。第四次門司城の戦いは、中国地方の毛利元就との戦でした。


結局、この戦は大友家の大敗北に終わりますが、紹運は運よく生き残ることができました。のちに華々しい活躍を見せる紹運の武将人生は、初陣の敗戦から始まったのです。



主君・大友宗麟の主な戦いと要所マップ。色塗部分は豊後国。青マーカーは大友氏の本拠

大友家の風神と称される

永禄10(1567)年、大友家重臣・高橋鑑種(たかはし あきたね)が毛利元就を後ろ盾に謀反を起こします。高橋家は大友家の庶流に繋がり、鑑種は筑前守護代に任じられたとも伝わります。


鑑種は豊前や筑前の国衆をけしかけ、謀反を拡大させました。このとき、紹運が兄の吉弘鎮信と共に鎮圧に出陣。ここで手柄を挙げています。


永禄12(1569)年には、元就が北九州から撤退。鑑種は降伏し、筑後高橋氏の家督と所領が没収されます。同年、紹運が主君の大友宗麟から筑後高橋氏の家督相続を命じました。


紹運は高橋氏の名跡と同時に、高橋氏の領地であった岩屋城と宝満城を受け継ぎます。これはいわば、紹運が事実上の筑前守護代に任じられたとも言えます。


こうして紹運は、同じく大友家の重臣である立花道雪と共に筑前国の軍権を預かる立場となりました。
二人は大友家の双璧とされ、龍造寺家や島津家との戦いで活躍していきます。その働きをして、風神雷神と並び称されたと伝わります。



衰退する大友家を盟友・道雪と共に支える

嫡男・宗茂を立花家に養子入りさせる

天正6(1578)年、大友家は島津義久に日向国耳川で大敗を喫します。紹運の兄・鎮信や一族をはじめ、角熊石宗など多くの大友家の家臣が命を失いました。

主君・宗麟は大友家家中における求心力を失い、家臣団の離反が加速。一方で肥前国の龍造寺隆信や筑後国の筑紫広門らは大友家領へ進撃を開始。国境を脅かすようになりました。


このとき、紹運の高橋家にも異変が起きています。
高橋家の筆頭家老である北原鎮久が大友家を見限るように進言して来ました。
秋月種実は鎮久と組んで紹運の放逐を計画しますが、逆に秋月勢三百人を誘き寄せ、これを殲滅することに成功しています。


紹運は鎮久を粛清し、殲滅に功があったその嫡男を重く用いています。
戦乱の気配が迫る中、紹運は確実に足元を固めていました。


天正9(1581)年、嫡男・統虎(のちの立花宗茂)を立花道雪に婿養子に入らせます。
通常、嫡男の養子入りは異例なことでした。


道雪が紹運親子を能力でも人柄でも深く信頼していたことは確かです。
紹運としても、大友家臣団同士の結びつきを重視したようです。


婿入りの際、紹運は統虎に「立花家と高橋家が争うときは、自分を討て」と備前長光の太刀を渡しています。
それほどの覚悟を持っての婿入りだったことがわかります。


これにより、紹運は次男の高橋統増を後継者と決めました。



筑後遠征を行う

天正12(1584)年、大友家の宿敵であった龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死を遂げました。
当主を失った龍造寺家は、島津家の軍門に降ります。これにより、島津家による大友家への攻勢はさらに激化してきました。


紹運は道雪らと共に筑後遠征に出陣。
高良山に陣を構え、周辺の諸城を攻略していきます。


天正13(1585)年、龍造寺政家らが肥前や筑前などの北九州から三万を超える大軍勢を糾合。
紹運は道雪らと一万に満たない軍勢で出陣。久留米などで見事に敵軍を撃破しました。
しかし盟友である道雪が発病。紹運も看病にあたりますが、道雪はそのまま病没しました。


道雪の死を契機に、敵軍も動き始めます。
筑紫広門は紹運の宝満城を奪い、紹運は筑後遠征をから戻ってこれを取り戻しています。既に前線を維持できないほど、大友家の力は低下していました。


島津軍との戦いの末、壮絶な最期を迎える

四面楚歌の中、降伏勧告をはねつける

天正14(1586)年、島津家の軍勢は大宰府にまで進出。
筑前と筑後方面の大名や国衆は、そのほとんどが島津家の軍門に降ります。


大友家勢力は、紹運(筑前国岩屋城主)と息子の立花宗茂(筑前国立花山城主)だけでした。
このとき、主君・大友宗麟は豊臣秀吉に接近して、九州への援軍を要請しています。
紹運・宗茂父子も秀吉への九州出馬を求める使者を送っており、豊臣軍の後詰を期待していたことがわかります。


岩屋城は太宰府旧跡の東側である四天王寺山に築かれた城でした。
筑前を南北に分かつ交通上の要衝です。その背後に宝満城が控えます。


岩屋城には紹運の七百人余り、宝満城に次男統増が約一千二百人ほどが布陣。
対する島津軍は、少なくとも二万人以上という大軍でした。


このとき、紹運は息子の宗茂や豊臣家の黒田孝高らからも降伏するよう勧められています。
しかし紹運は首を縦に振りませんでした。


すぐそばの宝満城には、紹運の妻子をはじめ、避難した女や子供などの非戦闘員がいます。
岩屋城が降伏すれば、宝満城が危険に晒される可能性があったのです。


岩屋城で玉砕を遂げる

岩屋城での戦いは壮絶なものでした。
戦闘期間は半月にも及び、地頭級の侍大将が多数負傷しています。
やがてほとんどの曲輪が落ち、最後は紹運が籠る詰めの丸だけとなりました。


敵軍の総大将・島津忠長は単騎で門に近づいて降伏勧告を行います。まさにそのとき、城兵が打って出て、忠長たちと小競り合いになっています。


紹運自身も長刀を振るい、自ら十数人の敵兵を倒すなどしています。負傷すると高櫓の上に登り、念仏を唱えたのちに腹を切って果てました。享年三十九。


辞世の句は

「骸をば 岩屋の苔に 埋てぞ 雲井の空に 名を留むべき」

と伝わります。


こうして城兵七百六十三人は討死あるいは自害して、岩屋城は陥落。宝満城も降伏開城となりました。
しかし島津方の被害も甚大なものでした。将兵九百人以上の戦死者を出し、負傷者は一千五百人を超えたといいます。


岩屋城下には、ある塚が残されています。ここは島津軍を水の手に導いた老婆が、落城後に領民に生き埋めにされたと伝わる場所です。
紹運が領民に慕われていたことを窺わせます。


おわりに

紹運は武勇だけでなく、知略にも優れた武将でした。
敵陣に虚報を流し、退路に援軍の旗を立たせて混乱させるなどの計略を用いています。
のちに「西国一」と称される息子・立花宗茂も多分に紹運の素質と薫陶を得たと思わせます。


その紹運がどうして最後まで戦い抜き、玉砕という道を選んだのでしょうか。『上井覚謙日記』には、退城しないことを条件に講和を持ちかけたとの記録も存在しています。これが事実とすれば、紹運は時間稼ぎや大友家への忠義、城を守ることの責任を最後まで考えていたとも言えます。


岩屋城の戦いにおいて、島津軍にも甚大な死傷者が出ています。紹運による戦果は、大きく次につながりました。

島津軍は岩屋城の後、立花宗茂の立花山城に進軍。しかし岩屋城における被害のために攻め切れません。結果、時間を食ったことで豊臣家の援軍が九州に上陸することを許してしまいます。


豊臣家の援軍到着により、島津軍は薩摩に撤退します。大友家も滅亡の危機から救われました。
紹運の活躍は、確かに大友家を滅亡の危機から救ったのです。


そして天正15(1587)年、豊臣秀吉が九州を平定します。
秀吉は薩摩からの帰途、立花宗茂を呼んでいます。そこで紹運を「乱世に咲いた華」と惜しみました。


紹運の功績は、天下人も認めるところでした。
高橋紹運がいたからこそ、島津家による九州統一は阻まれ、宗茂や大友家は生き残ることが出来ました。


その後の九州平定が行われたことで、豊臣家による天下統一は前進します。そういう意味では、紹運の活躍と選択がなければ、戦国時代の終わりは遠のいていた可能性すらあるのです。


宣教師ルイス・フロイスは本国宛に紹運を「稀代の名将」と評価した報告を送っています。外国人から見ても、紹運の傑出した力と人柄は並外れていたようです。

紹運は立花宗茂や道雪と比べると、活躍が小さく扱われています。しかし実際は、戦国時代により大きな成果を残した武将でした。



【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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