「立花宗茂」改易浪人から大名に復帰! 鎮西一の武将

立花宗茂のイラスト
立花宗茂のイラスト

戦国時代、知略と武勇を兼ね備え、海外にまでその名を轟かせた武将がいました。
九州は豊後大友家の家臣であった立花宗茂です。

義父に戦略家として名高い立花道雪を持ち、天下人秀吉と家康からもその才能と人柄を愛されました。
宗茂はいかに戦国を生き抜き、周囲に認められていったのでしょうか。
立花宗茂の生涯を見ていきましょう。


大友家臣時代に猛将として活躍

大友家重臣の子として誕生

永禄10(1567)年、立花宗茂は豊後国筧城の吉弘館で、大友家の一族・吉弘鎮理(後の高橋紹運)の長男として生まれました。幼名は千熊丸です。


天正9(1581)年、十五歳となった宗茂は初陣を迎えます。
友軍の立花道雪とともに太宰府に出陣し、敵将の堀江備前を討ち取るという手柄を挙げました。


同年、男児のなかった立花道雪から宗茂を養嗣子として迎えたいと希望がありました。初陣での働きを気に入ったようです。
父・紹運は断りますが、道雪は引き下がりませんでした。


結局、宗茂は道雪の娘・誾千代と結婚して婿養子となって家督を譲られています。


宗茂が婿養子に行く際、実父の高橋紹運は「もし敵同士となったなら立花家の先鋒となって自分を討て」と言っています。養子入りにおいての、宗茂と紹運の覚悟が窺い知れます。


婿養子となってから、宗茂は苦労しました。


棘のついた栗を踏み抜いた時のことです。立花家臣の由布惟信が駆け付け、逆に押し付けてきました。宗茂が悲鳴をあげようにも、義父の道雪が睨むように見ていたといいます。


このように立花家に来てから、かなり厳しく教育されていた宗茂ですが、道雪の指導を受けて、さらに活躍を見せていきます。


天正10(1582)年、立花家は秋月、原田、宗方の連合軍二千と矛を交えます。
宗茂は五百の伏兵を率いて、原田氏の笠興長隊の半数を討ち取り、西の早良郡まで追撃して早良城を落城させています。


また、翌天正11(1583)年には、敵将吉原貞安を討ち取り、宗像氏の居城・許斐山城を落としました。


同12(1584)年、道雪と紹運は筑後国を奪回するために出陣。宗茂は一千の兵で立花山城の留守を守ることとなりました。しかし間隙をつくように秋月種実が八千の兵で攻め寄せてきます。
宗茂は火計と夜襲を駆使して打ち破り、さらに龍造寺家の飯盛城などを襲撃するに及びました。


二人の父の死と失地回復

やがて宗茂に悲しい別れが訪れることになります。

まずは天正13(1585)年に義父の道雪が陣中で病没。これによって大友軍は一気に厭戦気分が高まっていきます。

家臣団の離反も相次ぎ、完全に守勢に回ることになりましたが、この時、まさに九州は薩摩島津家によって全土が制覇されようとしていました。


こうした状況の中、さらに宗茂の父・高橋紹運も討ち死にしてしまいます。天正14(1586)年、薩摩島津忠長が五万と号する大軍を率いて筑前国に侵攻して来ました。紹運は岩屋城において抗戦し、籠城兵以下壮絶な玉砕を遂げるのです。


その後、島津軍はすかさず宗茂のいる立花山城も包囲。島津の大軍に対し、宗茂の軍勢は一千五百の寡兵でした。
宗茂は籠城しながら島津本陣への奇襲を敢行。これに成功して敵の力と士気を削いでいきます。
やがて大友家の援軍として、豊臣家の大軍が豊前に上陸。
知らせを受けた島津軍は撤退を開始。ここで宗茂は追撃を行い、数百の島津兵を討ち取っています。


宗茂はこれだけで止まらず、火計を用いて高鳥居城を攻略、さらには紹運が討死を遂げた岩屋城など2城も奪還。
筑前国における島津勢力を完全に駆逐の上、失地回復を成し遂げるのです。


なお、主君の大友宗麟は豊臣秀吉に、宗茂を家臣として取り立ててもらうように要請しています。
宗茂の器量はもちろん、その人格も天下人の直臣となるべく期待されていたことがわかります。


豊臣秀吉に取り立てられる

筑後国で独立大名となる

宗茂はこの後、豊臣の九州平定の軍に加わります。


自羅は先鋒の一人として肥後国の宇土城、薩摩国の出水城を落とすなど活躍。戦後には伊集院家などから人質を取るなど、事後処理にも当たりました。

秀吉はこれらの宗茂の働きを高く評価していました。島津家の降伏後、宗茂は秀吉から筑後国柳川に十三万二千石を与えられています。同時に大友家から独立した大名として認められました。秀吉は宗茂を「その忠義、その剛勇、また鎮西一」と評価しています。


九州が平定された後も、宗茂の戦いは終わりませんでした。天正15(1587)年、佐々成政の入った肥後国で大規模な国人一揆が勃発。宗茂は救援のために一千二百の兵で出陣します。一日に十三度戦い、敵の城砦を七箇所抜いたというほどの激戦を繰り広げました。


さらに特筆すべきは、宗茂のこの後の行動です。隈部一族の武士の名誉を保つため、隈部一族を放し討ち(真剣勝負の形式を取る処刑)にしました。


監察役の浅野長政はこれを見て恐れ慄き、秀吉に報告しています。秀吉はこれを聞き、むしろ宗茂を褒め称えたと伝わります。秀吉は宗茂にさらなる加増を申し渡しますが、宗茂はこれを固辞。むしろ戦の際は先鋒にと志願したそうです。


天正16(1588)年、宗茂は従五位下侍従に叙任されました。
秀吉からは、羽柴の名字を名乗ることを秀吉に許され、豊臣姓を下賜されています。待遇としては、加藤清正や福島正則らと同等に近いものでした。秀吉からの評価と期待の高さがうかがえます。


天正18(1590)年、小田原征伐にも参陣。これによって天下は統一されました。
秀吉は戦後、諸大名の前で宗茂を「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と褒め称えました。


朝鮮出兵で手柄を立て、日本無双の武将と称される

豊臣政権は、朝鮮出兵に乗り出します。
文禄元(1592)年には、宗茂も参陣しました。


碧蹄館の戦いでは日本軍の先陣を切ることになりました。
このとき、日本軍は四万一千。明・朝鮮連合軍は十五万という大軍でした。
立花宗茂勢は僅かに三千です。宗茂勢は連合軍の先鋒を突き崩すなど、日本軍の勝利に大きく貢献しました。


宗茂の豪胆さをあらわす逸話が残されています。碧蹄館の戦いでは、敵の大軍の前でも悠然と握り飯を食べていたとあります。宗茂は上杉謙信が小田原攻めの時もこうしたと答えたと言います。戦の前のパフォーマンスと言えど、命懸けで望んでいたことがわかる逸話です。


宗茂は秀吉から「日本無双の勇将」との感状を拝領し、その名は海外にもなり響くこととなったのでした。


慶長2(1597)年、蔚山の戦いで八百の兵を率い、明軍二万二千と交戦。火計と夜襲を用いてこれも打ち破っています。

しかし慶長3(1598)年、秀吉が死去します。これに伴い、朝鮮出兵は中止。日本軍には撤退命令が下りました。宗茂の海外での戦いは終わります。


関ヶ原で西軍に付き、浪人となる

関ヶ原唐撤退する仇敵を護衛する

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが勃発。このとき、徳川家康は法外な恩賞を宗茂に約束し、東軍に付くように誘っています。宗茂は秀吉への恩義を理由に断り、西軍に参加しました。


東軍の京極高次の籠る近江国の大津城を攻めた際には、城方の夜襲を予期。
防備を十分に固めた上で、「早込」を用いた鉄砲射撃により、通常の3倍の速さで攻撃してます。
さらには大津城城中に一番乗りを果たし、三の丸から二の丸まで突破するという働きでした。


しかし大津城が開城した9月15日、美濃国の関ヶ原の本戦は東軍の勝利で終わりました。
宗茂は大坂城に退き、西軍総大将の毛利輝元に徹底抗戦を進言します。しかし輝元は抵抗する意志はなく、東軍に恭順を示しました。


仕方なく、宗茂は柳川に引き上げる道を選びました。しかしその途上である人物と遭遇します。関ヶ原から撤退途中の島津義弘でした。実父の高橋紹運は、かつて島津に討たれています。義弘は兵のほとんどを関ヶ原で失い、従うのはわずかな兵でした。


宗茂の家臣たちは仇を討つように進言します。しかし宗茂は首を縦にはふりませんでした。
宗茂は「敗軍を討つのは武家の誉れでない」として退けます。


むしろ島津義弘のもとへ使者を送り、九州までの道中での護衛を申し出るのです。


柳川には、東軍の黒田如水や加藤清正らが押し寄せていました。
ここで宗茂は恭順を決めます。幾度かの矛を交えた後、説得に応じて降伏開城となりました。


開城の日、領民たちは涙ながらに降伏を止めようとしたと伝わります。
それほどに宗茂が領国に善政を敷いていたことがわかります。さらにはこのとき、島津義弘が宗茂から受けた恩義に感じ、柳川へ援軍を送っています。


いずれの逸話でも、宗茂が周囲の人から思われる武将であったと感じさせます。


浪人、将軍の親衛隊長となる

宗茂は改易され、浪人としての生活が始まります。

加藤清正や前田利長から高禄で家臣に誘われますが、宗茂はいずれも固辞しています。一時、清正の食客となりますが、その後旧臣らを引き連れて京へ上りました。

京での浪人時代は、経済的に困窮したわけではなかったようです。加藤清正や島津氏らの支援もあり、住居を構えて逗留生活を送っていました。


慶長7(1602)年、正室の誾千代が肥後国で亡くなりました。領地も家族も失い、宗茂は失意の底にあったと予想されます。


慶長8(1603)年、宗茂は旧臣たちと共に江戸に下りました。
ここで徳川家臣の本多忠勝と再会しています。かつて秀吉から並び称された武将でした。
忠勝は、宗茂たちに高田の宝生寺を宿舎として世話をしたといいます。


さらに慶長9(1604)年、忠勝の推挙で江戸城に召し出され、将軍となった家康と対面。
家康は、宗茂を幕府の御書院番頭(将軍家の親衛隊長)に任命し、五千石を与えました。


徳川幕府のもとで大名に返り咲く

奥州で大名へ復帰する

宗茂の実力は勿論ですが、その人柄は広く認めていたようです。
まもなく徳川秀忠の御伽衆に加えられ、陸奥国に棚倉藩一万石を与えられました。かつての所領には及びませんが、大名に復帰したことになります。


慶長15(1610)年には、三万五千石を知行するようになりました。

慶長19(1614)年、徳川と豊臣の間で大坂冬の陣が勃発します。
大御所となっていた家康は、豊臣方に加わらないよう、宗茂の説得を行っています。
20(1615)年の夏の陣では、宗茂は将軍・秀忠の軍事顧問的立場として参陣し、秀忠軍の進退を指導しています。


宗茂が家康たちにどれだけ信頼され、能力を見込まれていたかがわかります。
このとき、宗茂は大野治房の軍勢動向と、豊臣秀頼の出陣がないことも予言して的中させました。

さらには宗茂は実戦において、豊臣方の主力である毛利勝永隊を撃退に成功しています。勝永は本田忠朝や小笠原秀政を討ち取ったほどの武将でした。


家康は腹心である本多正信に宗茂を称賛していました。
「天下に隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ」との記録が残っています。


島原に武神再来

豊臣家の滅亡後、日本は元和偃武の時代を迎えました。
元和2(1616)年、坂崎直盛による千姫(秀忠の長女)強奪計画が発覚。宗茂はこのとき、坂崎家の家臣たちに直盛を斬らせて事件を始末しています。


宗茂は、徳川の時代となってからも、国家のために働いていたことがわかります。
同6(1620)年、これまでの働きが考慮されて旧領の筑後国柳川に十万九千二百石をを与えられました。関ヶ原に西軍として参戦し、改易されてから大名に復帰を果たしたことになります。
そういった軌跡を辿ったのは、宗茂ただ一人でした。


元和8(1622)年には、飛騨守に任じられています。
その後は、相伴衆となって秀忠や三代将軍・家光に近侍しました。ある時は戦国時代を語り、茶会や上洛などの行事に随伴しています。
しかし宗茂は、この頃から歩行に困難が生じたため、国許にはほとんど帰れなくなっていました。自身は幕府や大名とのパイプ役となって活動しています。


『徳川実記』には「御前にて頭巾をかぶり、殿中にて杖をつく人は宗茂の他は一人もない」とあります。
この頃の宗茂の歩行に障害があったことと、将軍家による特別待遇が許されていたことがわかります。
そして、宗茂にとって最後の戦がやってきました。


寛永15(1618)年、宗茂は島原の乱に出陣。ここで徳川軍の総大将である松平信綱を補佐しています。宗茂は城兵の様子を見るや、黒田軍への夜襲を予告して見事に的中させています。


ここでは戦略面の指揮を取り、有馬城への一番乗りを果たしています。諸大名は武神再来と称賛しました。
島原の乱の鎮圧後、養子の忠茂に家督を譲って隠居しています。


寛永19(1642)年、江戸の柳川藩邸で死去しました。享年は七十六歳。下谷の広徳寺に葬られました。



【主な参考文献】
  • 工藤章興 『〈立花宗茂と戦国時代〉奇跡の勇将 立花宗茂』 2015年
  • 中野等 『立花宗茂(人物叢書)』吉川弘文館 2000年
  • 吉永正春 『筑前戦国史』葦書房 1977年
  • 立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 「立花宗茂」

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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