「仙石秀久」はマイナー武将ながら、秀吉家臣では出世頭だった!

pinon
 2021/09/19

仙石秀久のイラスト

知る人ぞ知る、ヤングマガジンで人気の宮下英樹氏の漫画『センゴク』の主人公となっている仙石権兵衛秀久(せんごく ごんべえ ひでひさ)。秀吉家臣の中ではもっとも速く出世したにもかかわらず、極めてマイナーな存在である。

マイナーでありながら、猪武者というイメージだけはしっかり定着しているのだから不思議なものである。今回は史料が照らし出す秀久の実像を追いかけてみた。

仙石家は土岐源氏支流

仙石権兵衛秀久は天文21(1552)年、美濃の土豪・仙石治兵衛久盛の四男として生を受ける。通称は権兵衛。

仙石家はそもそもは藤原氏を出自とする一族であった。時の当主・仙石基秀の代になると、土岐氏の血を引く傍系の仙石久重が基秀の娘を娶り、次期当主となって以降は土岐源氏支流を称したという。

美濃国主であった土岐氏が没落し、斎藤氏が台頭すると斎藤氏に仕えたとされる。特に秀久の父・久盛は道三・義龍・龍興の3代に仕え、その栄枯盛衰をつぶさに見てきた人物である。

美濃の斎藤家といえば、道三の娘である濃姫が織田信長に嫁いで、織田家と同盟関係になったが、弘治2(1556)年の道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で道三が戦死して以降は、敵対関係に入っている。

まだ幼少の秀久は、四男だったこともあって家督を継ぐ可能性はほぼないであろうという判断のもと、越前の萩原家に養子に出されていた。ところが、信長の美濃攻めが本格化し、織田家との戦闘が劇化する過程で後継者候補が相次いで死去するという番狂わせが起こる。

さらにこの頃、仙石家中では織田につくか斎藤につくかの論争が巻き起こっていた。仙石家が出した結論は「織田につく」であった。

ところが、嫡男久勝が斎藤派であったため、やむを得ずこれを廃嫡したという。父久盛は急ぎ秀久を呼び戻し、家督を継がせたのである。

秀吉の寄騎に

永禄7(1564)年、秀久は信長と対面し臣従を誓った。信長は秀久を「風貌が勇ましい」と評し、大変気に入り、「永楽銭紋」を与えたと伝わる。

信長が旗印として使用したとされる「永楽通宝」
仙石秀久の定紋とされる「永楽銭」

永楽銭紋は限られた家臣にしか使用が許されていなかったことを考えると、かなりの気に入られようだと言ってよい。これ以降、千石家は永楽銭紋を家紋とすることになる。

信長は、秀久を木下秀吉(のちの羽柴秀吉)の寄騎に任命。秀久は秀吉から相当に重用されたという。

これには羽柴家中の事情も関係していたようだ。当時、羽柴隊のメンバーといえば野武士や半分農民の兵等が多く、秀久のような血統のしっかりした武士は貴重であったらしい。

秀久は武勇に優れた武将というイメージが強い。しかし、意外にも羽柴隊の初期には参謀兼指揮官としての役割を果たしていたというから驚く。

この役割は名軍師、竹中半兵衛が羽柴隊として参陣する姉川の戦いの頃まで続いたという。ちなみに秀久も姉川の戦いに参陣している。

なお、美濃は斎藤龍興が永禄10(1567)年、稲葉山城の戦いで信長に敗れて落ち延びて以降、織田家の支配するところとなった。

秀久はやがて羽柴隊の馬廻衆として各地を転戦することになる。

山崎新平

実は、元亀元(1570)年の姉川の戦いには謎が多い。

通説では、織田徳川方3万4千、浅井朝倉1万8千の戦いであったとされる。そして、織田方がかなり追い詰められる中、徳川勢の側面からの攻撃で形勢逆転し、勝利したといわれている。

ところが、史料によって兵の数がまちまちであったり、勝敗も痛み分けに近いものだったことを窺わせる記述が見られるのだ。いずれにしろ、激戦であったこの合戦で秀久は武功を挙げる。

『改撰仙石家譜』によれば、浅井方の山崎新平を討ち取ったとある。ところが、山崎新平という人物はこれ以外の史料には出てこない謎の人物で、しかも「将」ではなく「兵」と記されているため、階級も不明なのだ。

漫画『センゴク』では、剛の者として名高い先駆け隊の大将として登場するが、もちろんこれは創作である。 しかしながら、秀久は討ち取った功により、天正2(1574)年に近江国野洲郡1000石の所領を得たというから、しとめたのが無名の武士であるとは考えにくい。

だとすると、なぜ名前以外の情報が不明なのだろうか。

1つの可能性として、山崎新平が土豪などかなりマイナーな身分の出であったと言うことはないだろうか。 その強さを聞き及んだ浅井氏が新平をスカウトし、浅井配下として初めて参加したのが姉川の戦いだったとしたらどうか。 この合戦で秀久に討ち取られた後に、山崎新平についての詳細が記述されることはないのではないか。 

淡路5万石から讃岐10万石へ

やがて信長が秀吉に中国征伐を命ずると秀久もそれに従って、徐々に出世していったとみられる。天正6(1578)年、秀久は三木城攻略戦において茶臼山城を落とすよう命じられたという。

秀久の猛攻に、敗北を悟った茶臼山城主の一蓮坊祐之は家臣たちの助命を条件に自決し、城を明け渡した。 この功により秀久は4000石を加増され、天正7(1579)年には茶臼山城を任されるようになる。

またこの時期、湯の山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている。これは、秀吉が三木城攻めの最中に有馬温泉に何度も通ったからであろう。

天正9(1581)年には、黒田官兵衛とともに淡路遠征に参加し、岩屋城・由良城を陥落させる活躍を見せる。

天正10(1582)年、本能寺の変により信長が横死すると、秀吉は中国大返しによっていち早く畿内に戻り、山崎の戦いにおいて明智光秀を破った。この戦いの際、秀久は淡路領内で光秀方についた豪族達の掃討を命じられたという。

続く翌天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは、四国の十河存保(そごうまさかず)らの救援のため淡路に入り、まずは光秀方についた菅達長を撃破する。 その後小豆島を占拠した秀久は四国に渡った。

四国の長宗我部勢は手強く、特に讃岐の引田城での戦いは激しく、引田城は長宗我部軍の総攻撃の前に落城し、秀久は敗走する。

もっとも、この戦は柴田勝家方についた長宗我部元親を牽制するのが目的であった。十河存保を秀吉の元に落ち延びさせ、淡路島と小豆島の守りを固めるという目的は果たされたと言ってよいであろう。

同年、秀久はこの功により淡路5万石を拝領する大名となる。淡路は、そもそも淡路水軍を擁していたが、これに加え小西行長ら複数の水軍も秀久の指揮下に入った。

天正13(1585)年、四国征伐が開始されると喜岡城及び木津城の攻略に貢献する。これにより、讃岐10万石を拝領することとなったのであった。

改易

長宗我部氏を降伏させ、四国平定を成し遂げた秀吉は、次に九州征伐に着手する。

当時島津氏は九州のほとんどを平らげ、大友宗麟の豊後まで迫る勢いであった。焦った宗麟は関白となった秀吉に救援を求めた。

秀吉はこれを快諾し、同年には大友・島津両氏に停戦命令を下す。島津氏は一旦停戦するも、翌天正14(1586)年6月にはこの停戦命令を破り、豊後攻めを再開。たまりかねた宗麟は大坂城で秀吉に謁見し、島津氏の征討を懇願している。

この要請に、秀吉は九州に向けて軍勢を差し向けることを決定。秀久・十河存保ら豊臣勢と長宗我部元親・信親父子ら四国勢は豊後に出陣し、大友軍と合流する。

同年12月、島津家久の軍勢1万余が大友方の鶴ヶ城に攻撃を開始。秀久の軍は動員可能兵数2万だったと言われるが、大友軍は士気が低く、機動的に動くことができる兵力は6000程であったという。

戸次川の戦いマップ。色塗部分は豊後国

『土佐物語』によれば、秀久は鶴ヶ城を救援すべく戸次川を渡河し、島津軍と戦うべきと主張したが元親はこれに反対したという。

秀吉は援軍を待ち、防備を固めよとの指示を出していたからだ。

この鶴ヶ城攻防戦において軍監としての任に就いていた秀久は、この意見を退け戸次川渡河策を強行する。 そして、島津軍が思ったほど精強でなく、徐々に退却し始めたと見るや、追撃を開始した所を側面から伏兵に強襲され壊滅。

いわゆる、釣り野伏にまんまと引っかかっての敗戦というのが、この戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)の定説である。

私は漫画『センゴク』で戸次川の戦いのことを初めて知ったのであるが、当時から疑問に思っていた点があった。1つは、秀久は「釣り野伏」を知っていたのであろうかという疑問である。

漫画『センゴク』では伏兵の存在には気づいていたという設定であるが、相手の退却がフェイクであるという所までは知らなかったということになっている。そして、「釣り野伏」は島津氏の「秘中の秘」策であるため1次史料に記載がないという。しかし、島津氏以外にも「釣り野伏」に類似した戦法を用いる武将がいたという記述も残されている。

例えば1578年の柴田川の戦いにおいて大友氏家臣の立花道雪と高橋紹運が退却を餌とする囮作戦で秋月種実と筑紫広門を破ったとある。 大友軍と合流していた秀久が、この囮戦術の存在を知っていた可能性はないだろうか。

そしてもう1つは、なぜ秀久は戸次川を背にしたのかという点である。

兵法において、川を背にするのがご法度であることは常識であり、かつて秀吉の参謀的役割を果たしていた秀久が知らぬはずはあるまい。ここまできて、秀久は何かを仕掛けようとしていたのではないかという考えが私の脳裏に浮かんできたのである。

まず、気になったのは救援の対象であった鶴ヶ城だった。 鶴ヶ城の城主は利光 宗魚(としみつ そうぎょ)であり、大友氏の忠臣として知られる武将である。

秀久たちの軍勢が豊後に入るのと前後して宗魚は鶴ヶ城に入っている。ひょっとして宗魚は秀久が戸次川を渡河し、あえて釣り野伏にかかった振りをしたタイミングで、城から打って出て島津勢に奇襲を仕掛ける約束をしていたのではないか。

ところが、宗魚は戸次川の戦いの数日前に流れ弾に当たって(矢で射られたとも)戦死してしまう。 情報漏洩を防止するため、この謀を知るのが秀久と宗魚しかいなかったとしたらどうであろう。鶴ヶ城からの奇襲隊が打って出ることはないということになる。

鶴ヶ城の家臣たちは宗魚の死を秘して籠城戦を続けたというが、仮に秀久の耳に入っていたとしてもデマとしてとりあわなかった可能性がある。秀久は釣り野伏に驚いたのではなく、鶴ヶ城からの奇襲がないことに驚いたのかも知れない。

宗魚の死は事実で、しかも万一城内の寝返りによるものだとしたら豊後にいること自体が危険と考え、領国である讃岐まで逃げるのもわかるような気がする。大友の一部に寝返った勢力が存在する可能性があるからである。

戦は秀久方が壊滅し長曽我部信親と十河存保が戦死という惨憺たる結果に終わった。秀吉は激怒し秀久は改易の上、高野山に追放されてしまうのである。

小田原征伐での活躍

高野山での秀久がどのように暮らしていたのかはよくわかっていないようだ。ただ、一時期京や大坂に滞在していたこともあると伝わる。

秀久は決して再起をあきらめたわけではなかった。天正18(1590)年、秀吉が小田原征伐を開始したという情報を得るや、三男の忠政とともに美濃にいた旧臣20名を集めて秀吉の下に駆けつけたのである。

急な参戦のため、陣割を受けていない秀久は徳川家康に陣借りすることで、出陣できたという。秀久の出で立ちは陣羽織一面に鈴を縫い付けた異様なものであった。これは敵を引き付けるためだったと伝われ、「鈴鳴り武者」との異名をとったと伝わる。

この戦で秀久はずば抜けた功を立てる。小田原城早川口攻めにおいて、虎口の1つを占拠したのだ。

この大活躍に秀吉から謁見を許された秀久はその働きを激賞され、金の扇子を下賜されたという。そして、信濃小諸5万石を拝領し大名への返り咲きを果たしたのである。

豊臣家臣に復帰した秀久は小諸城よりも京にいることのほうが多かったという。文禄元(1592)年に始まる朝鮮出兵では肥前名護屋城築城、文禄3(1594)年の伏見城築城で功績を挙げ、7000石の加増を受ける。

準譜代大名

京に居ることの多かった秀久は、豊臣政権が次第に凋落していく様をつぶさに見たであろう。秀吉の死後、秀久は早くから家康に接近する。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは東軍につき、真田攻めのため小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田攻めでは老獪な真田昌幸によって秀忠軍が足止めを余儀なくされると、自分が人質となるので関ヶ原本隊に合流するよう薦めている。

結局秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わず、家康は激怒するがそれを取りなしたのも秀久であったという。まるで参謀のような働きぶりに秀忠は秀久を心から信頼するようになったのであった。

慶長10(1605)年、秀忠が2代征夷大将軍となると秀久は特に重用されるようになり、準譜代大名的な扱いを受けたと言われる。

慶長19(1614)年、江戸から小諸へ戻る途中で病となり、5月6日に死去した。享年63の生涯であった。

あとがき

仙石秀久は猪突猛進タイプの武将であるがゆえに戸次川の戦いで大敗を喫した、という見解には私は昔から違和感を持っていた。

あの状況で川を背にし、真っ向から精強で知られる島津軍に攻撃を仕掛けたとするならば、そもそも玉砕覚悟の戦いであったはずだが、秀久は逃げた。

私はどうしても、秀久にのっぴきならない何かが起こったとしか思えなかったのだ。そこから今回の私の見立てが組み立てられたのである。

もちろんこれは史料的には何も残されていないため立証のしようもない。ただ、秀久=猪武者という図式を少しでも払拭したいという試みは多少なりとも上手くいったのではないだろうか。


【主な参考文献】
  • 宮内露風『仙石秀久に学ぶ不撓不屈、七転び八起きの人生術。』まんがびと 2018年
  • 志木沢郁『仙石秀久、戦国を駆ける 絶対にあきらめなかった武将』 PHP文庫 2016年
  • 塩川友衛『シリーズ藩物語、小諸藩』現代書館 2007年

  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。
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