「細川氏綱」打倒細川晴元を実現した最後の管領。三好長慶の傀儡ではなかった?

室町時代末期、管領の細川京兆家の当主として最後の管領(※晴元と氏綱は管領ではなかったという見方もある)を務めたのが、細川氏綱(ほそかわ うじつな)です。

長らく、氏綱は「三好政権の傀儡であった」という評価がなされてきましたが、近年は管領として主体性を持っていた、と見直されつつあります。傾きかけた高国派の後継として、三好長慶に担がれなければ晴元を倒せなかった、そのような見方しかされなかったのは、政権を得た歴史の主人公が細川高国→細川晴元→三好長慶へと移っていく中で、氏綱は端役としか見なされなかったためかもしれません。

細川典厩家に生まれ、高国の養子になる

細川氏綱の生年ははっきりしませんが、一説には永正10年(1513)4月の生まれとされています。

細川京兆家の養子となった細川高国のいとこにあたる細川尹賢(ただかた)の長子として生まれました。父の尹賢は細川持賢を祖とする細川分家の典厩家当主でしたが、もともとは野州家の出です。


宗家当主の高国は、子の稙国(たねくに)を後継としますが、彼は管領となってわずか半年で亡くなってしまいます。このため、高国自身が再び管領に復帰してつないでいます。そして稙国のほかに後継となる子がいなかった高国が次期当主として目をつけたのは、氏綱でした。

細川高国の肖像画(東林院 蔵)
野州家ながら、細川京兆家の家督、幕府管領の座をつかんだ細川高国。

高国には年の離れた弟・晴国がいましたが、晴国は野州家の後継者でしたし、同じ細川の分家といっても家格は典厩家のほうが上。そういうわけで、高国は氏綱を猶子とし、弟の晴国と同時に元服させました。

晴元に敗れた高国派、勢力衰退

当時の中央は細川京兆家の家督、および室町幕府将軍の座を巡る内戦の真っただ中でした。(両細川の乱)

そうした中、中央を掌握していた高国ですが、大永7年(1527)の桂川原の戦いで細川晴元・三好政長らに敗れたため、高国政権は終わります。その後も晴元らが樹立した堺公方府を倒そうとするものの、享禄4年(1531)の「大物崩れ」と呼ばれる天王寺の戦いで晴元派の三好元長軍に敗れ、自害に追い込まれました。

そもそも高国政権崩壊のきっかけは、重臣の香西元盛を殺害した一件でした。これが元盛の兄弟である柳本賢治や波多野稙通らの反発を招き、ほころびが生じたところを晴元らに狙われたのです。

「香西元盛が晴元と内通している」と高国に讒言したのは、氏綱の実父である尹賢です。子の氏綱が高国の後継として養子になったとはいえ、高国には実の弟・晴国がいます。晴国に近い存在の元盛を消すことで、氏綱の立場を盤石なものにしようと目論んだのではないか、という説があります。つまり、高国派の勢力衰退を招いたのは氏綱の父であった可能性がある、ということです。

高国の死後、晴国と氏綱はそれぞれ時間差で晴元打倒の兵を挙げます。同じ高国派として呼応して攻撃してもよいように思われますが、両者の間で確執があったため、別々に挙兵したと考えられます。互いに「自分こそ高国の後継者である」という自負があったのではないでしょうか。

高国の後継として打倒晴元を掲げる

晴国が晴元討伐に失敗したあと、氏綱は天文9年(1540)ごろから軍事行動を起こしていたことがわかっています。「氏綱」の名を使い始めたのは、『天文日記』の記録によれば天文11年(1543)ごろでした。

天文12年(1544)には和泉で打倒晴元の兵を挙げます。それ以前から連携していた細川国慶らも味方でした。この挙兵は高国派の残党が氏綱を担いで行ったもの、という見方もありますが、氏綱は自ら高国後継者と名乗り、味方を集めた上での挙兵でした。氏綱は本願寺に一揆の蜂起と兵糧の調達などを要請しますが、断られたことで戦いは劣勢のまま始まり、結果的に撤退を余儀なくされました。

その後しばらく黒星が続きながらも、反撃の機会をうかがっていた氏綱は、天文15年(1546)についに晴元方の三好長慶を撤退させるに至ります。このとき、遊佐長教が味方となって三好勢を越水城へ退け、晴元を丹波逃亡へ追い込みました。が、翌年には再び晴元方優勢となり、晴元を倒すには至りませんでした。


三好長慶と組み、上洛を果たす

天文17年(1548)ごろに転機が訪れます。晴元方の主力・三好長慶は河内十七箇所や三好政長をめぐって晴元と対立し、池田信正殺害の一件で反晴元派に転じたのです。

当時範長と名乗っていた長慶は遊佐長教と縁戚関係を結んで同時期に名を改め、氏綱を支持し始めます。翌天文18年(1549)、江口の戦いで三好政長が敗れ、彼を支援していた晴元は将軍・義輝を伴って近江へ逃れます。

江口の戦いマップ。色塗部分は摂津国

共通の敵をもつ氏綱と長慶

三好長慶と手を組んだ氏綱はとうとう宿敵・晴元を都から追放し、政権を奪うことに成功しました。

思えば、氏綱と長慶が手を組むことは必然だったのかもしれません。長慶は晴元の家臣だったとはいえ、晴元は父の元長を死に追いやった張本人です。氏綱の養父・高国はもちろん晴元に敗れて自害しました。実父・尹賢は一時晴元派に寝返ったものの、高国の死後に殺されています。

晴元は、氏綱にとっても長慶にとっても「父の仇」だったのです。

氏綱は長慶の傀儡だったのか?

さて、晴元打倒の宿願を果たした氏綱は、これ以降は一般に「長慶の傀儡であった」と語られます。

三好政権期とされる時代、氏綱の発給文書は上洛後の初期に集中しており、氏綱に管領としての権力があったとしてもわずかな期間だけだったのでは、といわれます。しかし、政権交代から間もない時期に文書が集中するのは当然のことであり、それだけで上洛からしばらくして氏綱の権力は失われた、とは言い切れません。

馬部隆弘氏は『戦国期細川権力の研究』の中で、三好政権期の氏綱について次のようにまとめています。

  • 三好政権期に動いていた人物は長慶被官と見なされるが、氏綱被官であった可能性を考えることなくそう見なすのには問題がある。氏綱の配下を長慶の配下と誤認している可能性がある。
  • 天文18~19年ごろ、京都周辺の支配は氏綱が担っており、長慶は氏綱の主体性を尊重していた。
  • 天文21(1552)年、長慶は幕臣となり、立場上は氏綱と同等になった。これを転機に天文22(1553)年以降は分業し、共同統治体制となっていった。
  • 氏綱と長慶は一度も衝突することなく、協力的であった。長慶と協調するために、自発的に第一線から退いたのではないか。実権を奪われ傀儡にされたのではなく、自ら長慶に委ねたのではないか。

氏綱は弘治年間ごろ居城を淀城に定め、第一線から退いています。しかし、晩年の永禄年間も儀礼の場では尊重され、長慶とともに出仕しています。

以後、氏綱が亡くなるまで義輝のもとへ長慶と一緒に出仕しており、最後まで協力関係にあったと思われます。氏綱の権力後退に関して当人がどのような心境だったかはわかりませんが、氏綱は決して傀儡などではなく、主体性をもった細川京兆家の当主であったのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年)
  • 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
  • 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)


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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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