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【家紋】信長の婿にしてキリシタン大名!都市設計の天才「蒲生氏郷」と蒲生氏の家紋について

  • 豊臣秀吉
  • 家紋
 2020/02/05
蒲生氏の家紋「蒲生対い(むかい)鶴」
蒲生氏の家紋「蒲生対い(むかい)鶴」

戦国時代の記事を読むと、しばしば「人質」という言葉を目にすることがあります。 文字通り、臣従や不戦の意思を表明するためにその担保として相手方に人員を送ることであり、自身にとって近しい者であるほどその効果が高かったと考えられます。

親や兄弟、あるいは子など、大切な肉親を人質として差し出すことは決して珍しくありませんでした。 しかし、当時の人質とは現代でいう所の捕虜や虜囚とはかなり異なる意味合いをもっていたようです。

必ずしも辛い生活を強いられたわけではなく、きわめて丁重な扱いを受けた例も少なくありません。 特に幼少の男子を人質とする場合、これを引き受けた武将は大切に英才教育を施し、将来的な戦力として配下に組み込むことも行われました。

有名武将のなかには幼少期を人質として過ごし、このような待遇で成長した人物も多く存在します。 そんな武将のうち、あの三英傑の一角「織田信長」に見初められて人質からやがて大大名にまで上り詰めた人物がいます。

その名は「蒲生氏郷」。信長の娘婿、つまり義理の息子となり、後にキリシタン大名としても知られる自由闊達な武将でもあります。

今回はそんな、蒲生氏郷と蒲生氏の家紋についてみてみましょう。
(文=帯刀コロク)

「蒲生 氏郷」の出自とは

蒲生氏郷の一族である「蒲生氏」は藤原北家秀郷流の家であるとされ、鎌倉時代以降に近江の蒲生郡を本拠としました。

室町時代には近江守護の「六角氏」の客将となりますが、戦国時代に織田信長が六角氏を滅ぼすと、当時の蒲生家当主「蒲生賢秀」は三男の「鶴千代」を人質として織田家の配下となりました。

この鶴千代こそが後の「蒲生氏郷」であり、信長はその少年の様子が尋常ではないことを気に入り、自分の娘婿にすることを約束したといいます。元服の際には信長自らが烏帽子親を務め、初陣の後約束通り次女をと娶せました。

これらのことから、信長は氏郷の資質を高く評価し、非常に大切にしていたことがうかがえます。

家紋「蒲生対い鶴」
蒲生氏郷の肖像画(西光寺蔵。出所:wikipedia

やがて氏郷は父とともに「柴田勝家」の与力となり、重要ないくつもの戦闘で武功をあげていきます。

本能寺の変以降は秀吉の配下としてやはり実戦を中心に活躍、豊臣の天下となってからは伊達氏への抑止力として会津に封じられ、最終的に九十万石を超える大大名へと列せられます。

順調なキャリアを積んだ氏郷でしたがやがて病を得、文禄の役の後に京都・伏見の蒲生屋敷にて息を引き取ります。 享年四十歳だたっと伝わっています。

蒲生氏の紋について

戦国期に氏郷が実際に使用した紋がどのようなデザインだったかは、残念ながら詳らかではありません。 しかし蒲生氏は伝統的に「鶴」の紋を用いてきたことが知られています。

これは蒲生の祖先が戦場において、鶴の導きによって生き延びることができたという故事に由来するもので、室町中期には「蒲生対い鶴」という紋を使っていたようです。二羽の立ち鶴が向かい合った意匠で、片側は翼を膨らませているためまるで求愛行動の様子を描写したかのような紋となっています。

家紋「蒲生対い鶴」
家紋「蒲生対い鶴」

鶴はよく知られているように長寿を象徴する吉祥の鳥であり、縁起の良いモチーフとされてきました。 鳥が空を飛ぶ姿は矢勢の速く鋭いことに仮託されることから、武家にとっては武勲への願いをこめたものでもあったようです。

また、現代人からすると考えにくいかもしれませんが、鶴は狩猟鳥としても珍重されていました。 当時の伝統的な料理として、鶴はとても格の高い食材に位置付けられていたといいます。

氏郷が統治した会津の「若松城」が「鶴ヶ城」と呼ばれるのは蒲生氏の家紋が由来であるといわれ、氏郷自身の幼名も「鶴千代」であることから、蒲生氏は鶴に特別な思い入れを持っていたのかもしれませんね。

大大名となった氏郷は下野小山氏に代わって秀郷流の嫡流となり、この頃家紋を「三頭右巴」に変えました。 いわゆる三つ巴の紋ですが、円頭部が右側に位置する「右巴」であることが特徴です。

福島正則や九鬼氏も用いたとされる家紋「三頭右巴」
福島正則や九鬼氏も用いたとされる家紋「三頭右巴」

文献上ではほかに「翔鶴」や「松皮菱」といった紋も記載されていますが、画像が残っていないため詳細は不明となっています。

家紋「松皮菱」
家紋「松皮菱」

自由闊達、優れた都市設計者としての氏郷

氏郷は茶人としても高い境地に至り、洗礼を受けたキリシタン大名でもありました。 高山右近のすすめで教義を聞き、感銘を受けたと伝わっています。

また、城下町の作りに優れた手腕を発揮したことも知られています。

会津若松では目抜き通りを十字路にしたり、メインストリートを約7mの四間幅にしたり、火薬を扱うため鍛冶の危険がある鉄砲街を風下に配置するなど、斬新で細やかな数々の工夫を施しました。

会津若松城の復元天守
会津若松城の復元天守

氏郷はこのように、「都市設計者」としての能力にも秀でた人物だったのです。

まとめ

叩き上げの武人であり、当代一流の文化人でもあった氏郷は謹厳な人物として知られていたようです。 目をかけていた部下であっても、軍規に違反した場合は厳しく処罰するなど、家中全体としての風紀に細心の注意を払っていたあとがうかがえます。

その一方で、忌憚のない意見交換を推奨してほとんど無礼講といっていいような上下・長幼の別のない議論の場を設けるなど、公明な主君だったことが伝わっています。

時に自ら風呂を沸かして部下に振る舞うなど、たとえ目下の者であっても破格のもてなしを行う殿様でありました。

「鶴は千年」の言葉通り、もしも氏郷が長生きしていれば豊臣の天下もまた、異なる繁栄の仕方になったのかもしれませんね。


【参考文献】
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
  • 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
  • 『群書類従.第拾四輯』 塙保己一編 1893 経済雑誌社
  • 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)


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