【家紋】本州最北部の戦国武将!「南部信直」と南部氏の家紋について
- 2020/02/14
東北地方を表す古語に「みちのく」というものがあり、現在でも慣例的に使われることがあります。これは「道の奥」のことで、古代の国土感覚としての最果てを意味しています。みちのくの範囲というのは時代とともに変遷していき、「道奥」または「陸奥」と表記されます。やがては青森や岩手など東北地方北部を指すようになり、現在では「陸奥(むつ)」といえば青森県の旧国名というイメージが定着しています。
「道」というのは通常の交通路という意味の他に、道州制などで知られるように国土の区分でもありました。「東海道」「西海道」などのように、街道とともにその地域の国々をまとめていう概念として用いられます。
酷寒や積雪などの厳しい気候風土の東北地方ですが、古代には先住民族の「蝦夷」、平安の頃には「奥州藤原氏」が繁栄し、豊かな国土として憧憬されてきた面があります。また、東北は精兵が育つ土地としても知られ、歴史上その屈強さが称えられています。
そんな陸奥国を拠点にした戦国武将が「南部氏」です。今回は南部氏のうちでもっとも知名度が高いとされ、南部家中興の祖ともいわれる「南部信直」を中心にその家紋についてみてみることにしましょう。
「道」というのは通常の交通路という意味の他に、道州制などで知られるように国土の区分でもありました。「東海道」「西海道」などのように、街道とともにその地域の国々をまとめていう概念として用いられます。
酷寒や積雪などの厳しい気候風土の東北地方ですが、古代には先住民族の「蝦夷」、平安の頃には「奥州藤原氏」が繁栄し、豊かな国土として憧憬されてきた面があります。また、東北は精兵が育つ土地としても知られ、歴史上その屈強さが称えられています。
そんな陸奥国を拠点にした戦国武将が「南部氏」です。今回は南部氏のうちでもっとも知名度が高いとされ、南部家中興の祖ともいわれる「南部信直」を中心にその家紋についてみてみることにしましょう。
「南部 信直」の出自とは
まず、信直が生を受けた南部氏とはどういった氏族だったのかを概観してみましょう。本州最北端にあたる国の武将であるにも関わらず、「南部」という氏族名を不思議に思われる方も多いでしょう。南部氏は清和源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の初代「加賀美遠光(かがみとおみつ)」の系統です。
遠光の三男であった光行は甲斐国(現在の山梨県あたり)巨摩郡南部郷に拠ったことに因み、「南部氏」を称するようになりました。つまり南部氏は「武田信玄」で有名な、甲斐武田氏と源流を同じくする氏族であるといえます。
鎌倉時代末期には北条氏の地頭代として、陸奥国の糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部あたり)に配されたと考えられています。
南北朝時代には「北畠顕家」より糠部郡の国代に任じられ、南部氏一族は陸奥の北部に分散して拠点としました。
八戸南部氏・一戸南部氏など、地域ごとの勢力に区分されますが、室町時代には「南部守行」の三戸南部氏が台頭します。
戦国期には三戸南部氏の第二十四代当主「南部晴政」は積極的な領土拡大を企図し、陸奥北部を支配下におくことに成功します。この晴政の養嗣子であり、第二十六代当主となったのが「南部信直」です。
家督争いや周辺地域との紛争を切り抜けつつ、小田原攻めでは豊臣側に参陣、その功から南部氏所領の内七か郡の領有を安堵されます。
この処分への不満により同族内からの反乱を招きますが、「豊臣秀次」を総大将とした軍の支援により鎮圧。豊臣政権の強力な後ろ盾により当地での支配力を確固たるものにしていきます。
朝鮮出兵により肥前名古屋城に参陣した信直は帰国後、「盛岡城」の築城を開始。完成を待たず五十四歳にて逝去しますが、盛岡城は以後南部氏累代の居城として、幕末まで一族を守り続けました。
南部氏の紋について
先に述べた通り、甲斐武田氏と源流を同じくする南部氏は本来、「武田菱」で有名な割菱紋を用いていました。陸奥国に居住するようになってからは「対い鶴」の紋を加えたとされ、これは戦の勝利に際して二羽の鶴が現れたことに由来すると伝えられます。また、「菱鶴」という紋も記録に見えますが、具体的にどのようなデザインだったかは判明していません。対い鶴は向かい合う二羽の鶴が円形を描くという優美な図案で、南部氏では鶴の中心にそれぞれ「九曜」を配した「南部鶴」を用いています。
九曜紋は大きめの丸を中心として、小ぶりな丸を周囲に八つ配した紋のことで天体や星神信仰と深い関りをもっています。月・火・水・木・金・土・日のいわゆる「七曜」に、「計都(けいと)」と「羅睺(らごう)」という架空の天体を加えたものを指し、古代インドの占星術などで扱われた神々を表します。
星を神格化した事例としては、北極星を司る「妙見」への信仰がよく知られています。不動の星である北極星は航海の目印となり、それを中心に天球を回転するように動く北斗七星は、戦勝祈願の占術にも用いられてきました。
九曜そのものは北極星ではありませんが、妙見を祭神とする「千葉神社」の社紋は中心の大丸を北辰として周囲に九つの小丸を配するタイプの九曜で、「十曜紋」と呼ばれることもあります。
南部氏の南部鶴は吉祥の向かい鶴に戦勝の星神を配したもので、かわいらしいデザインとは裏腹に武家ならではの闘志を秘めたものともいえるでしょう。
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おわりに
厳密にいえば変遷はありましたが、南部氏は伝承上の領地拝領から幕末に至るまで実に六五〇年以上にわたって自領を守り続けた氏族であるといえます。系譜のはっきりとした古い氏族は他にもありますが、武将は転封や移封などで本拠が変わることが珍しくなかったため、同じ土地に拠り続けたのは稀有な例とされています。
屈強で忍耐強い東北の精兵は、そんな長い歴史のなかで育まれてきたのでしょう。
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【参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『青森県史.第四巻』 青森県編 1926 青森県
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
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