【家紋】赤備えの継承者!徳川四天王・井伊直政と井伊氏の家紋について
- 2020/02/26
乱戦となった場合に部隊識別は非常に重要で、旗指物や部隊標のようなもので自身の所属と味方を認識していたといいます。家中によっては甲冑のデザインや色を統一することもあったようですが、なかでも「赤備え」はもっとも有名なものといえるでしょう。赤備えといえば文字通り、赤色の軍装で統一した部隊のことであり、精鋭の証ともされています。
大坂の陣で獅子奮迅の働きをした「真田幸村(信繁)」の部隊でよく知られていますが、その源流は甲斐・武田家にありました。周知の通り武田氏は滅亡しますが、赤備えを継承した武将がいました。
その名は「井伊直政」。徳川家康の覇業に最大の貢献をしたとも評される、「徳川四天王」の一角にして彦根藩初代藩主です。今回はそんな、井伊直政を中心として井伊氏の家紋についてフォーカスしてみましょう。
「井伊 直政」の出自とは
井伊氏は遠江(現在の静岡県西部)の井伊谷を代々本貫地とした、国人領主でした。藤原北家の流れを汲むと公称していますが、歴史研究の観点からは疑問が呈されています。直政の祖父(父の養父)であった「井伊直盛」は当時の井伊氏当主として「今川義元」に仕えていましたが、桶狭間の戦いで主君らと運命を共にします。
直政が生まれた直後には、父の「井伊直親」が今川氏真より謀反の疑いにより命を奪われてます。幼名を「虎松」といった直政はまだ赤子であったため、直盛の娘である「井伊直虎」が家督を継ぐことになります。
しかし井伊氏の正統な継承権を持つ直政は、今川氏より命を狙われ続け、密かに養育されて最終的には出家のため寺院に預けられます。
やがて井伊氏は直政を徳川氏に仕官させることを企図、直政の母は徳川家臣の松下氏と再婚することでその傘下に入ります。家康から井伊氏への復姓と旧領への復帰を認められた直政は小姓として仕え、対武田氏の戦闘などで武功をあげていきます。
元服は二十二歳という当時としては遅い時期でしたが、やがて武田氏の旧領を手中にした家康は、武田の旧臣たちを直政の配下とし、一部隊を編成します。
これこそが武田四天王の一人と謳われた「山県昌景」の朱色軍装部隊、「赤武者」の系譜をひくものであり、「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭の誕生でした。
直政は家康側近の部隊指揮官でありながら前線に立って自ら戦うタイプであったようで、重装の鎧を身につけつつも最も傷を負った大将といわれるほどの戦働きをしました。
苛烈な性質ではあったものの沈着冷静な観察眼をもち、立ち居振る舞いも見事であったと伝えられるように細やかな心配りができる人物だったようです。
武断派の筆頭ではありますが、関ヶ原の戦い以降は戦後処理や和平交渉に尽力し、敗戦した氏族への温情的な待遇を次々に実現させたことから直政への感謝の言葉が多く伝えられています。
石田三成の旧領である佐和山藩を継いだ直政は、四十二歳でこの世を去ります。次男の「井伊直孝」が家督を継ぎ、佐和山藩の代わりに彦根藩が置かれ、幕末まで井伊の赤備えはその命脈を保つことになります。
井伊氏の紋について
井伊氏は「橘」を家紋として用いています。「源・平・藤・橘」と呼ばれる四大家紋のうちのひとつで、橘姓自体は古代に遡るものの井伊氏は別系統の藤原姓とされています。井伊氏の橘紋は花の付け根や枝の部分が通常のものとは異なり、独自アレンジを加えた「彦根橘」として独占紋の位置づけがなされています。
橘はミカンの原種としても知られ、常緑であることから生命力を象徴する植物とされてきました。
『日本書紀』によると垂仁天皇の時代、勅命を受けた「田道間守(たじまもり)」が海のかなたにある「常世国」から持ち帰ったものとされ、「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」という不老不死の果実と考えられていました。
古代でいう「菓子」とは木の実や果物ののことであり、橘を持ち帰った田道間守は「菓子の神」としても祀られています。
また、井伊氏の「井」の字は旗紋としても用いられ、後に替紋にもなりました。本来は筆文字であったものが、「彦根井桁」という紋ではごく細い直線で表されるようになるのが特徴です。
おわりに
直政の人生を見てみると、厳密には生粋の徳川譜代ではなく外様からスタートしたキャリアだったことがわかります。一族興亡の歴史の渦中に育った直政は、何よりも武功による信頼獲得の重要性を体感していたのではないでしょうか。
苛烈な性格から時に部下の離反を招いたという直政ですが、一方では容姿端麗にして心優しい面があったとも伝えられています。
そんな逸話のひとつに、一時期人質として秀吉の母(大政所)とその侍女たちが家康のもとで暮らしていた折り、直政の丁寧な処遇に感じ入ったというものがあります。大政所はよほど直政に信を置いたものか、帰途の警護に彼を指名したといわれています。
歴戦の勇士であると同時に、普段は橘の紋に違わぬ優雅な雰囲気をまとった人物だったのかもしれませんね。
【参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『静岡県郷土史談』 法月鋭児 1894 修誠堂書店
- 『見聞諸家紋』 室町時代(新日本古典籍データベースより)
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