将軍直属の軍事部隊!「奉公衆」とはどんなシステム?
- 2020/01/21
「幕府」と呼ばれる武家による政権が中心となり、諸国を統治してきたことはよく知られています。〇〇幕府、といった場合には本拠が置かれた地域名や開府した氏族名が付けられ、それぞれ歴史上の経緯によって政権が変わっていることも周知の通りです。
武家の最長政権となった江戸幕府は「徳川氏」による一貫支配を実現しましたが、鎌倉幕府では徐々に将軍よりも執権の「北条氏」が権力を握るようになります。そして室町幕府を開府した「足利氏」は、時代とともに求心力や地力が弱体化して地方領主の台頭を許し、世にいう戦国時代が到来します。
室町時代に関しては、将軍家が強力な地方領主を制御しきれなくなっていったことがわかりますが、では足利将軍家自体はどのような軍事力を有していたのでしょうか。今回はよく耳にはすれども、その実態についてはあまり知られていない「奉公衆」にスポットを当て、室町幕府の軍事的なシステムについてみてみましょう。
武家の最長政権となった江戸幕府は「徳川氏」による一貫支配を実現しましたが、鎌倉幕府では徐々に将軍よりも執権の「北条氏」が権力を握るようになります。そして室町幕府を開府した「足利氏」は、時代とともに求心力や地力が弱体化して地方領主の台頭を許し、世にいう戦国時代が到来します。
室町時代に関しては、将軍家が強力な地方領主を制御しきれなくなっていったことがわかりますが、では足利将軍家自体はどのような軍事力を有していたのでしょうか。今回はよく耳にはすれども、その実態についてはあまり知られていない「奉公衆」にスポットを当て、室町幕府の軍事的なシステムについてみてみましょう。
室町幕府の職制について
まず、室町幕府とはどのような構造になっていたのか、その職制をおさらいしておきましょう。もちろんトップは「将軍」です。足利氏から代々就任し、十五代までを数えました。将軍の補佐を行うのが「管領(かんれい)」で、「斯波氏」「細川氏」「畠山氏」の三氏が就いたことから「三管領」と呼ばれます。
管領の下には「政所(まんどころ)」「問注所」「侍所」「地方(じかた)」「評定衆」などがあり、それぞれがさらに細かく専門の「奉行」などに分かれていました。その他に将軍直轄の部署として、後述する「奉公衆」があり、これらがいわば中央の構成要素となります。
一方、地方統治では地域ごとに各国の「守護」「地頭」などを管轄する大きな機関があります。
関東地方から奥州には「鎌倉府」、陸奥には「奥州探題」、出羽には「羽州探題」、九州には「九州探題」などがそれぞれ設置されました。西国は幕府の本拠が近いためか探題は置かれずそのまま守護を、あるいは地頭・御家人などを統括しました。
「奉公衆」とは
先に述べた「奉公衆」は足利将軍直属の部隊であり、将軍そのものの軍事力として機能する側近でもありました。字面がよく似ていることから混同されやすい傾向がありますが、法治実務を担当した法曹官僚である「奉行衆(ぶぎょうしゅう)」とは異なる部署となります。奉行衆を「文官」の官僚とするならば、奉公衆は「武官」のそれであるとしばしば例えられます。
奉公衆は五つの部隊に分かれていたことが記録され、構成員を記した文書などが残っています。これを「御番帳」といい、五ヶ番の構成だったことから奉公衆を別名「番衆」と呼ぶこともあります。
それぞれの番は50~100人程の構成で、五部隊全体で300~400人の構成だったと考えられています。そして各構成員には家臣団がいたため、実質的には5000~1万人にも及ぶ兵力であったことが想定されています。
『大武鑑.巻之1』に収録されている『永享以来御番帳』『文安年中御番帳』を見てみると、「細川」「今川」「毛利」「土岐」「小早川」「朝倉」「畠山」「大内」等々、有名氏族が名を連ねているのが確認できます。
奉公衆は足利氏の一族や有力な御家人・守護・国人から選抜され、中部・北陸・山陰・山陽などの地方出身者が多い傾向にあります。
一方で摂津を除く畿内出身者は少なく、この点も奉公衆の構成員を特徴づけています。奉公衆はいわば親衛隊的なポジションとして直接将軍の戦力となり、重要な戦に投入されてきました。また、関東地方当地の「鎌倉府」にも鎌倉公方の奉公衆が設置されたこともわかっています。
明智 光秀は奉公衆だったのか?
研究が進み、数々の創作でも歴史上の人物の旧来イメージが刷新されていますが、近年注目される武将の一人に「明智光秀」がいます。もはや説明不要の有名人ですが、実はその前半生はほとんど不明という謎の人物でもあるのです。その謎に光をあてる説のひとつとして、「明智光秀は室町幕府奉公衆の一員であった」というものがあります。それというのも、明智氏が仕えた美濃の守護「土岐氏」が奉公衆として多数の人員を輩出し、その庶流である二十近い支族もまた構成員であったことが背景になっています。
また、小和田哲男氏の説によると十三代「足利義輝」の側近を記した『永祿六年諸役人附』に、「明智」の名が見えることから、これを光秀ではないかとしています。ただし、これは「足軽衆」という歩兵部隊の人員であり、三管領に次ぐ高位の家格であった土岐氏に連なる明智氏の処遇としては疑問が呈されています。「明智」としか記載されていないのも家格相当とは考えにくく、別系統の明智氏の者の可能性も指摘されています。
ほかにも奉公衆の一人が改名して明智光秀になった、などの説もありますがいずれも決定的なものではありません。それでも、土岐氏と足利将軍家の近しさや明智氏のポジションを考えると、光秀が奉公衆であったという仮定は魅力的な説といえますね。
おわりに
将軍という幕府最高権威でありながら、その求心力が著しく低下した室町末期。戦国大名の台頭が脅威となり、やがて京の拠点維持すらおぼつかなくなっていきました。そんな中、直属の軍事力である奉公衆はさぞや心強く信頼できるものだったに違いありません。歴史研究の進展で、意外な戦国武将が奉公衆の出身だったことが判明する日がくるかもしれませんね。
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【参考文献】
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「鎌倉府の奉公衆」『史学雑誌 96(3)』 山田邦明 1987
- 「永享以来御番帳」『大武鑑.巻之1』 橋本博 編 1935 大洽社
- 「文安年中御番帳」『大武鑑.巻之1』 橋本博 編 1935 大洽社
- 「永祿六年諸役人附」『大武鑑.巻之1』 橋本博 編 1935 大洽社
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