「織田信光」は織田信長の第二の父であった!?
- 2020/03/25
織田信長の尾張統一について紐解いてみると、織田信〇という人物が数多登場する。当然彼らの能力値は玉石混交であるわけであるが、織田信光(おだ のぶみつ)はまさに「〇」に該当する人物である。
にもかかわらず、その名があまり知られていない点は、如何に尾張統一戦争が激しく、非情なものであったかを窺い知ることができよう。大体にして美濃斎藤、今川、松平に囲まれている地で独立を維持し、しかも統一を図るのであるから、その困難さは尋常でない。実際、若き信長は何度も危機的状況に陥っているし、様々な裏切りにも会っている。
さぞかし大変であったろうと同情すら覚えるのであるが、信光がいたことは信長にとって大きな救いであったに違いない。武勇に優れ、知略も相当なものであった信光は信長の良き相談相手であったという。
信長も頼った名将信光が、なぜ歴史にあまり足跡を残していないのか。今回は史料に見え隠れする群像劇を浮き彫りにしてみたい。
にもかかわらず、その名があまり知られていない点は、如何に尾張統一戦争が激しく、非情なものであったかを窺い知ることができよう。大体にして美濃斎藤、今川、松平に囲まれている地で独立を維持し、しかも統一を図るのであるから、その困難さは尋常でない。実際、若き信長は何度も危機的状況に陥っているし、様々な裏切りにも会っている。
さぞかし大変であったろうと同情すら覚えるのであるが、信光がいたことは信長にとって大きな救いであったに違いない。武勇に優れ、知略も相当なものであった信光は信長の良き相談相手であったという。
信長も頼った名将信光が、なぜ歴史にあまり足跡を残していないのか。今回は史料に見え隠れする群像劇を浮き彫りにしてみたい。
武篇者信光
織田信光は永正13(1516)年、織田信定を父として生を受けた。兄は後に家督を継ぐ信秀であった。つまり、信光は信長にとって伯父にあたる人物なのである。信光は武勇に優れた武将であったらしく、小瀬甫庵の『信長記』によると、兄信秀に従って出陣した小豆坂の戦いで武功を挙げ、小豆坂七本槍の一人として挙げられているほどである。
先の『信長記』は史料というよりは物語に近いと思われるが、一次史料である『信長公記』にも、「備後殿(信秀)御舎弟織田孫三郎殿一段武篇者なり」という記述があることから、武勇に優れた武将であることは間違いないであろう。
信長を支持
天文21(1552)年に信秀が死去すると、信光は後継者の信長を支持したという。以後、信長は弟の信行を支持する勢力に悩まされるが、信光は終生信長を支え続けたと言われる。「うつけ」と評判の信長を支持したあたりに、信光の人眼の確かさを垣間見ることができよう。
信光は萱津の戦い(かやづのたたかい)・村木砦の戦いなどで活躍、次第に信長の片腕的な存在になっていく。
あわせて読みたい
冴える謀略
弟の信行派という抵抗勢力に悩まされながらも、着々と尾張統一を進める信長であったが、特に信秀の代から、尾張の覇権を巡って対立していた清洲城主・織田信友は厄介であった。萱津の戦い
先に述べた「萱津の戦い」は信秀の死後、鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返ったことに端を発する。実は、信友にも今川の息がかかっていたものと思われる。というのも、信友の重臣坂井大膳及び山口教継の寝返りに呼応するかのように挙兵しているからである。
天文21(1552)年大膳は挙兵するにあたって坂井甚介らと共謀し、信長方の松葉城及び深田城を攻撃した。これを知った信長は那古野城を出陣、信光も救援に駆けつけたという。
救援の甲斐あってか、萱津における戦闘で信長は大膳の軍を撃破し、坂井甚介を討ち取ることに成功する。
清洲方は50騎ほどが討ち取られたとの記録が残っている。
深田口、松葉口の戦闘においても信長方の勝利となるが、これ以降信長と信友の対立は劇化することとなる。大膳はこれ以降、戦で信長に勝つことを諦め、調略策に舵を切ったと思われる。
まずは、信長の片腕的立場になりつつあった信光に接近し、調略を開始したのである。
一説にはこの際協力と引き換えに、守護代待遇を提示されたという。この調略を信長方は想定していたものと思われる。というのも、『信長公記』によると、信光はこの誘いに乗ったふりをして天文24(1555)年に清州城に入ったとある。おそらく、信光は大膳から提示された条件をそのまま信長に報告したのであろう。
信長は信光に尾張下四郡中2郡を提示したと伝わる。信長からより良い条件を引き出すための策であろうが、なんとも信光らしい。
結局、信光は信友を謀殺し、まんまと清州城を奪取することに成功したのである。坂井大膳は今川義元の元に逃れたという。その後の彼の足取りは杳として知れない。
十万石
信光が奪取した清州城を信長に譲ると、代わりに那古屋城を与えられたという。『尾張國誌』によれば、この頃の信光の領地は10万石に達していたという。1593年の太閤検地では、尾張の石高が57万1737石4斗と計測され、1608年の江戸幕府による検地では47万2344石7斗1升7合となっている。
これらを考え合わせると、信光の頃の尾張の石高は40万石~50万石程度と考えてよいのではないか。統計が正しいとすれば、総石高の実に4分の1を領有する一大勢力に信光はなっていたことになる。
信光暗殺
織田家の中枢に入り込んだ信光であったが、その全盛期の真っただ中の弘治2(1556)年11月26日、謎の急死を遂げる。小瀬甫庵の『信長記』によると、信光の近臣であった坂井孫八郎により殺害されたという。驚くことに、孫八郎は信光の正室であった北の方と通じていたが故の暗殺であったとも記されている。
ただ、甫庵の『信長記』は江戸初期の成立であり、その信憑性については、あの大久保彦左衛門が『三河物語』の中で「イツハリ多シ」と述べるなど、甚だ怪しいと言わざるを得ない。
当時の噂の類を調べてみると、坂井大膳が信友方に信光を引き入れるための調略を行った際、どうも同盟の起請文を書いたらしいことがわかってきた。それを破ったがための天罰(暗殺)が下ったというのだ。
しかし、戦国乱世において起請文を破棄するなど日常茶飯事のことであったろうと考えると、この線も弱いなと考えてしまうのは私だけであろうか。私が注目するのは、信長が暗殺を命じたという説である。
もちろん、これを裏付ける史料は今のところ存在しないのであるが、信長の性格を追っていくとその可能性が 0 ではないことが何となくわかるのである。
もっとも、唱えられている説の「信光の勢力を脅威に思い始めた」という点はその通りではあるが、一大勢力となる前に事態は動いていたように思う。
ひょっとすると、以前から信長には信光に対する疑念が生じ始めていたのではないか。それは、信光が坂井大膳からの調略の条件を信長に報告し、それ以上の条件を信長が提示したときなのかもしれない。
というのも、報告されてしまうと信光に破格の条件を提示しなければ、寝返る可能性を排除できないと信長は考えるはずだからだ。この駆け引きに信光の野望を感じ取ったのかもしれない。疑り深い信長は、この点を気にしていたのではないだろうか。
反信長の中心にいた弟の信行はまだ一定の勢力を保っており、その信行を支持している織田信友や坂井大膳は、まさに目の上のたん瘤と言ってよい存在であった。これを排除するために、とりあえず「武篇者」として名高い信光を味方につける必要があったのだが、信友亡き後の信行との争いを考えると、10万石を領有する彼が今度は目の上のたん瘤となることは想像に難くない。
あとがき
信光の死後、信長は信行派の織田信賢(のぶかた)そして信行を倒し、尾張をほぼ統一する。実は信秀は、後継者候補として信長、信行、そして信光を挙げていたとも伝わる。また、遺言として「信長と信光は親子であると思え」という言葉を残したとも言われている。その信光を信長が信頼しないはずはなく、信光もそれに応える働きを見せていた。
そんな信光を尾張の統一のためとは言え、抹殺しなければならないとしたら、その胸中たるや想像を絶するものがあろう。もしかすると、信光の死によって信長は人を信用することが恐ろしくなってしまったのかもしれない。
【参考文献】
- 大久保彦左衛門 (著)、 小林賢章 (翻訳)『三河物語』(筑摩書房、2018年)
- 小瀬甫庵、石井恭二『信長記』(現代思潮新社、2009年)
- 太田牛一『信長公記』(角川ソフィア文庫、2002年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄