【解説:信長の戦い】村木砦の戦い(1554、愛知県知多郡) 信長が初めて鉄砲を使った戦い。家康の伯父・水野氏の窮地を救う!

村木砦址(知多郡東浦町の八劔神社。wikipediaより)
村木砦址(知多郡東浦町の八劔神社。wikipediaより)
 織田信長と今川義元の戦いというと、やはり桶狭間の戦いが有名です。ところが他にも、信長が初めて鉄砲を使った「村木砦の戦い」という合戦がありました。果たして、どのような戦いだったのでしょう。

合戦の背景

 村木砦の戦いが行われたのは天文23年(1554)1月のことですが、その兆しは前年にありました。駿河の今川義元が知多半島にある緒川城を狙い、その北・村木(現在の愛知県知多郡東浦町森岡)に砦を築き始めたのです。

今川義元・織田方の城近くに砦を築く

 緒川城を守るのは水野信元。のちの徳川家康の伯父(家康の生母・於大の方の異母兄)に当たる人物です。今川勢力と織田勢力の境界に領地を有していた信元でしたが、家督を継いで以来、ずっと織田方についていました。

 砦を守る今川方の兵の数は、およそ千人。これには信元も簡単に手が出せず、信長に救援を求めてきたのです。これに対する信長の返事は「ちょっと待って」。おやおや、これはもしかして信元を見捨てる気なのでしょうか?

 いえいえ、決してそうではありません。信長にっとても、緒川城は重要な城だったのです。もし緒川城が今川の手に落ちれば、知多郡から愛知郡南部まで一気に侵略が進んでしまうおそれすらありました。

信長、斎藤道三に加勢を求める

 それから半年後、信長がやっと出陣するという知らせが信元のもとへを届きます。砦を守る兵たちも、油断しきっている頃でした。

 とはいっても、信長はこの間、敵が油断するのをただ待っていたわけではありません。というのも、この頃の信長は守護代家(以後、清須)と対立関係にあったため、すぐに緒川城救援の兵を出すことができなかったのです。もし那古野城の守りが手薄であることが伝わってしまえば、清須勢が攻めてくる可能性が大いにありました。

 そこで信長は、同盟を組んでいた美濃の斎藤道三に援軍を求めます。その要請を受け、道三から派遣されたのは安藤守就(もりなり)という人物。千人の兵を引き連れた守就に那古野城の留守を頼み、信長はいよいよ出陣することになりました。天文23年(1554)1月21日のことです。

織田方・寺本城が寝返る

 一方、そうこうしているうちに、信長にとって不利な出来事も起こっていました。今川方が砦を築くと、それに呼応して、織田方だった城が次々と寝返ったのです。寺本城もその一つ。地図を確認するとわかりやすいのですが、これにより那古野城から緒川城への道が今川方によって寸断されてしまうことになります。

 そこで信長は、海を船で渡ることで寺本城を避け、砦を背後から襲う計画を立てました。しかもこのとき、清須を攻めるふりをして……。

 信長は21日、熱田に宿泊。その翌日、熱田から船に乗る予定でしたが、この日は船乗りも出港を止めるくらいの強風。ところが信長は強引に船に乗り、およそ78kmの距離をわずか1時間で進んだといいます。そしてその晩は野営し、翌日には緒川城の信元と合流したのでした。

戦場は尾張国知多郡村木(愛知県知多郡東浦町)。色塗部分は尾張国

合戦の経過・結果

 そして1月24日の明け方、信長はすぐさま行動を起こします。味方を三手(北は天然の要害のため兵はいない)に分け、村木砦の攻撃を開始したのです。

  • 東の大手門:水野忠分軍
  • 西の搦手(裏門):織田信光軍
  • 南の大堀:織田信長軍

初めて戦いに鉄砲を使用(しかも連射)

 信長が引き受けた南の大堀は、最も攻めにくい場所。ところが信長は狭間(さま)を狙って鉄砲を連射させ(長篠の戦いのように組織的なものではないようです)、猛攻を仕掛けます。これが、信長が初めて合戦に鉄砲を使った瞬間です。今川方は初めて聞く発砲の音にかなり驚いたでしょうね。もし自分だったら、震えますよね。

 そして同日の午後5時、村木砦はついに降参。信長側の勝利で決着がつきましたが、両軍ともに多くの死者・負傷者が出ました。信長の小姓たちも大勢討死したため、あの信長が(!?)泣いたそうです。

道三が漏らした言葉

 翌25日、信長は寺本城下に火を放ってから那古野城へと凱旋。26日には留守居役の安藤守就にお礼を言ったといいます。そして守就は美濃に帰ると、道三に信長の謝意、および戦いの一部始終を詳しく伝えました。

 すると道三は

「すさまじき男、隣には、いや成人にて侯よ(凄まじい男だ。隣には嫌な奴がいるものだ)」
『信長公記』より

と漏らしたと伝わっています。

おわりに

 織田信長と今川義元との間で起こった村木砦の戦い。徳川家康の伯父・水野信元のいる緒川城救援のため、信長は斎藤道三に援軍を頼んで駆けつけました。この戦いで信長は初めて鉄砲を使用し、信長の勝利に終わっています。

 この戦いから6年後には、あの「桶狭間の戦い」が起こるのです。


【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
犬福チワワ さん
日本文化・日本史を得意とする鎌倉在住のWebライター。 都内の大学を卒業後、上場企業の経理部門・税理士法人に勤務するも、体調を崩して離職。 療養中にWebライティングと出会う。 趣味はお笑いを見ることと、チワワを愛(め)でること。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。