【解説:信長の戦い】萱津の戦い(1552、愛知県あま市) 清洲織田氏の又代・坂井大膳を撃破!
- 2022/09/14
父・織田信秀の死後、家督を継いだ19歳の信長。しかし、当時は「大うつけ」と呼ばれていただけに、周りからもすんなりと、その地位を受け入れてもらえたわけではありません。それまで味方だった者・大人しくしていた者たちが、信長へ挑戦状を叩きつけてきたのです。
今回ご紹介する萱津(かやづ)の戦いも、それらの出来事の一つ。さてさて、一体どのような戦いだったのでしょうか。
今回ご紹介する萱津(かやづ)の戦いも、それらの出来事の一つ。さてさて、一体どのような戦いだったのでしょうか。
合戦の背景
弾正忠(だんじょうのちゅう)家の当主になったばかりの信長。まず直面したのが、鳴海(なるみ)城主・山口教継の寝返りでした。教継は織田信秀に重用されていた人物でしたが、新当主・信長を見限って今川方につきます。これが天文21年(1552)4月に起こった、「赤塚の戦い」です。信長方2つの城を占領される
引き分けに終わったこの戦いから、およそ4カ月。同年の8月15日、今度は清須織田氏に仕える坂井大膳(だいぜん)が、信長への敵意を明らかにしました。坂井大膳は坂井甚介・河尻与一・織田三位(さんみ)らと謀り、信長方の松葉城と深田城を占領。それぞれの城で人質を取り、無理矢理味方に引き込んでしまったのです。
坂井大膳とは?
この坂井大膳という男は、清須織田氏の重臣。「小守護代」や「守護又代」とも言われます。とはいえ、当時の守護代・織田信友(彦五郎)の力はすでに衰えており、守護代家の家宰(かさい)であった坂井大膳が実権を握っていたのでした。そんな人物が信秀亡き後、まだ若い信長に喧嘩を売ってきたのです。あの信長が、なめられたもんですね! というよりも父の信秀には、なかなか手を出せなかった(※1)からかもしれませんが……。
※1 天文16年(1547)11月20日、信秀が美濃で斎藤道三と戦っている隙に、坂井大膳ら清州の軍勢が信秀の古渡(ふるわたり)城を攻撃。結局は和睦に至っている。
合戦の経過・結果
翌16日早朝、報を聞いた信長は居城の那古野城を出て、庄内川に到着。そこへ守山から駆けつけたのが、叔父の織田信光でした。柴田勝家も活躍
信長・信光軍(※2)は庄内川を渡ると、海津(萱津/かやづ=現:愛知県あま市甚目寺)へと進出。そして清須城から出撃してきた、坂井甚介率いる軍勢と衝突したのです。※2 他にも分隊した兵がいた。
戦いが始まったとされるのは、辰の刻(午前8時頃)。数時間に及んだ戦いの末、織田方の柴田勝家と中条(ちゅうじょう)家忠が協力して坂井甚介を討ち取ることに成功します。その他にも、清須方は50名ほどが討ち取られました。
信長方の勝利に終わる
一方、松葉城や深田城でも戦いが行われましたが、こちらも信長方の勝利。降参した清須方は両城を信長方へと明け渡し、清須城へと撤収していったのでした。清須方にとっては、予想外だったでしょうね。「大うつけ」と聞いていた信長が、親譲りの戦闘力の高さを見せつけてきたのですから……。噂って、簡単に信じちゃいけないんですね。そうそう、この萱津の戦い、前田利家の初陣でもあったそうですよ。
まとめ
家督を継いだばかりの信長が「赤塚の戦い」に続き、尾張国内で巻き込まれたのが「萱津の戦い」でした。清須織田氏の実権を握っていた坂井大膳らは、信長方の松葉城・深田城を占領。しかし信長は叔父・信光と協力し、両方とも取り戻しました。「大うつけ」と散々見くびられていた信長でしたが、この戦いによって尾張国内に実力を見せつける結果となったのです。
「聞いてたのと違う!」BY 坂井大膳
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