室町幕府、2つの東北方面司令部?「奥州探題」と「羽州探題」について

 室町幕府の結束はどちらかというと将軍の強い求心力ではなく、有力守護大名たちによる連合政権のような実態だったことはよく知られています。南北朝の動乱がその草創期にあり、統一後においても室町幕府に肯定的ではない勢力がくすぶり続ける、危ういバランスの政権だったのです。

 特に京の幕府政庁から遠く離れた地方では、その統治に腐心した痕跡がうかがえます。関東の「鎌倉府」、九州島の「九州探題」、そして東北方面には「奥州探題」と「羽州探題」が設置され、より広域にわたる統治権限と執行能力を与えられていました。

 今回は東北方面の統治機関である奥州探題と羽州探題について、その概要をみていきましょう。

奥州探題とは

 東北地方は自然環境も厳しく、在地の強力な勢力が南朝方に与していたことから、古くよりその統治は重要な課題のひとつでした。

 平面上の地図では「東北地方」と一括できそうですが、実際には奥羽山脈によって大きく太平洋側と日本海側に分けられ、地政学上も異なる行政区分として認識されていました。

 時代によってその範囲は異なりますが、一般に現在の青森・岩手・宮城・福島を「陸奥(むつ……奥州)」、秋田・山形を「出羽(でわ……羽州)」と呼んでいます。両者をまとめて「奥羽(おうう)」という呼び方もします。

 室町幕府の地方統治機構では一国について「守護」が置かれましたが、陸奥国は広域に及ぶため守護よりも強力な権限をもつ「探題」という機関が設置されました。

室町幕府の支配体制
※参考:室町幕府の支配体制の図

 その前史としては、建武政権において陸奥国司に任命された「北畠顕家」が、建武2年(1335)に鎮守府将軍を兼務し、のちの後村上天皇である「義良親王」を太守として推戴して陸奥国府に「陸奥将軍府」という統治機関を開設したことに始まります。

 しかし建武政権から離反した足利尊氏は、奥羽に所在した足利氏の領地を管理していた「斯波家長」に奥羽の軍事指揮権を与え、これを「奥州総大将」としました。

 北朝方と南朝方のせめぎあいは続き、北畠氏の陸奥将軍府は在地の武士たちの支持を取り付け、斯波氏の統治はうまく機能しなかったといいます。

 奥州総大将の後継職として南朝:興国6 / 北朝:康永4年(1345)に設置されたのが「奥州管領」で、「畠山国氏」と「吉良貞家」が任命されました。

 奥州総大将を上回る職権を与えられましたが、元中9 / 明徳3年(1392)に陸奥・出羽ともに鎌倉府の管轄となったことで奥州管領職は廃止されます。

 しかし幕府と鎌倉府の関係は悪化の一途をたどり、応永7年(1400)に奥州管領「斯波家兼」の孫、「大崎詮持」が「奥州探題」として任命されます。以降、大崎氏が奥州探題を世襲しますが、大永11年(1514)に「伊達稙宗」が陸奥国守護に任じられ大崎氏の実効支配は終わりを告げます。

 稙宗の子「伊達晴宗」は大崎氏に代わって奥州探題に任じられ、その孫である「伊達政宗」も、正式な補任ではなかったようですが奥州探題を名乗ったとされています。

 豊臣政権に抗戦した大崎氏は滅亡し、奥州探題職を返上して臣従した伊達氏は命脈を保ちます。天正18年(1590)のこの時をもって、奥州探題は消滅したといえるでしょう。

羽州探題とは

 陸奥国同様に室町幕府によって設置された出羽国統治のための機関で、上記の奥州探題の歴史とリンクした経緯をもっています。

 建武政権によって出羽国司として公卿の「葉室光顕」が派遣されましたが、実務上は陸奥将軍府などの介入を受けていたとも考えられています。

 羽州探題は正平11/ 延文元年(1356)、律令制下の地方統治官である按察使(あぜち)として奥州管領・斯波家兼の次男「斯波兼頼」が山形に入部したことに始まります。

 兼頼は在地の南朝勢力を掃討、正平22/ 貞治6年(1367)には「漆川の戦い」で「寒河江氏」を降します。文中2/ 応安6年(1373)には、室町幕府より功績ある武家の当主に与えられる「屋形号」の許しを得、領地の地名から「最上屋形」を称しました。これが「最上氏」の始まりです。

 最上氏からは戦国時代に「最上義光」を輩出し、江戸初期の改易まで米沢を除く山県の大部分を掌握しました。

おわりに

 古来、東北地方というのは中央政権にとって特別な土地であり続けました。古代には「エミシ」と呼ばれる在地の人々が暮らし、ヤマトの政権はいわば侵略的ともいえる形で東北へと勢力を伸長することを試みてきました。

 平安時代には京の都をしのぐとすらいわれる勢力を誇った「奥州藤原氏」が繁栄し、厳しくも豊かな東北の国土を巡って中央政権の野心があらわになる局面が幾度もありました。

 また、古くから鉄製刀剣や馬匹文化が興隆したことからも兵は精強で、武士の発生や日本刀の誕生にも大きな影響を与えてきた土地でした。室町幕府にとっても、東北経営はとても重要な課題として捉えられていたことがうかがえるでしょう。




【参考文献】
  • 『図説 室町幕府』 丸山裕之 2018 戎光祥出版
  • 『故実叢書.武家名目抄(塙保己一)』 今泉定介 編 1906 吉川弘文館

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。