【麒麟がくる】第16回「大きな国」レビューと解説

前回、次男・三男を殺されたことで己の選択の誤りに気づいた道三。高政と戦う道を選びました。今回の見どころはなんといっても、歴史史料でもはっきりしない「光秀はこのときどちらについたのか?」というところでしょう。

戦を止めるため帰蝶のもとへ

道三と高政の関係は修復不可能になり、光秀と光安は「このままでは戦になる」と案じます。これを止められるのは帰蝶様だけだと考えた光秀は帰蝶に会いに行きますが、弟を突っぱねた光秀に憤慨する帰蝶はまったく取り合いません。

今川や織田彦五郎など、信長にとって不安が続く中で道三から高政に代替わりしたわけで、このまま同盟が守られるかどうか不安な帰蝶が弟に近づくのは無理もないことでしたが、光秀が言うように高政が信長との同盟をすぐどうこうする感じもなかったわけですし、もう少し様子見してもよかったのかもしれません。

花が散る冬

隣の間で、信長は帰蝶と光秀のやりとりを聞いていました。信長は状況を客観的に見て、兵力で劣る道三は今戦に踏み切るべきではないと言います。

信長も援軍を出したいが、城を留守にすればすぐに敵対する岩倉城主・織田信賢が背後から攻めてくるかもしれない。だから親父殿は、今は身を守ることに徹するべきだ、と。

「わずか2000、3000の兵でどうやって身を守るのか」と怒る帰蝶に、「わからぬ!この歌もさっぱりわからぬ!」と書物を放り出す信長。

その歌は『古今和歌集』巻第六の冬歌「冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ」という清原深養父(きよはらのふがやぶ/清少納言の曾祖父)の和歌で、「冬なのに空から花が降ってくるよ。するとその(雪)雲の向こうはもう春なのであろう」という意味。

信長は「なぜ冬なのに花が散るのかわからぬ」と言っていますが、帰蝶が呆れて説明したように雪を花に見立てて詠んだ和歌です。

これ、実は信長自身もどういう和歌なのかはわかっていたはずです。『古今集』を読んでいたなら、当然この和歌の詞書「雪の降りけるをよみける」も目に入っていたはずですから。

散った花は雪でした。このときの季節は秋。帰蝶が伊呂波太夫を探すよう女中に命じる引きの画には赤く色づいたもみじが映っています。ちょうど同じころに亡くなったのが、今川の家臣・太原雪斎でした。

今川では雪斎の死が外に漏れぬよう注意しているようですが、信長はもしや雪斎の死を知っていたのではないでしょうか。

「冬に散る花」は雪、つまり雪斎。また、散る花は人の死にも例えられます。雪斎が死んだ今、信長は焦って動く必要はありません。

また、雪の降る冬(高政とのにらみ合いを耐えどきとする)が過ぎるのを待つ道三を指すものかもしれません。

光安の矜持

今まで、光秀の叔父の光安は「長い物には巻かれろ」を体現する人物という印象がありました。だから、代替わりして高政が力を持った今は、道化のように振る舞ってすり寄ろうとする。

しかし光安が道化を演じてでも高政に近づいたのは、亡き兄から預かり、甥の光秀に託す明智庄を守るためです。

高政が領地替えすることを明らかにすると、光安ははじめて本音を漏らします。「あの高政ごときにわしの命を預けようとはゆめゆめ思わぬ」「道三様のためなら心置きなくひと踊りできる」。

光安にとってほかの何を捨ててでも守りたい大事なものは、兄から預かった領地でした。もしそれが安堵されたなら、己の意思に反してでも高政に従っていたでしょう。でもそれが失われようとする今、もはや光安に守るものはありません。あとは自分の心に従うだけです。

とりあえず強い者に従う、事なかれ主義、日和見、そういう情けない印象すらあった光安は、「兄から預かった領地」という重荷を降ろせば、道三をただひとりの主君として敬う、武士の矜持をもつ忠臣だったのです。

戦いを前に、光安は大切に飼っていたメジロを放しました。しかし、人に飼われた小鳥は外の世界では長く生きられないといいます。放たれたメジロはまるで光安の行く末を暗示しているようです。

光秀の選択

叔父の光安は道三方につくことを決めました。光秀はどうするのか。

光秀は直接道三に会い説得を試みますが、心を決めた道三は出陣を決めてしまいます。越前に逃げ道を用意したという帰蝶の助け舟も不意にして。

道三は自身の老いと衰えを自覚して高政に家督を譲りましたが、しかしそれは誤りでした。譲る相手を間違えた道三はそれを正さなければなりません。

光秀は道三が勝てないことを知っています。明智家を守ることを考えれば、高政につくのが賢い選択です。しかしそれでは身内で敵味方に分かれることになる。

平氏源氏の武士、皇族、貴族それぞれが親兄弟で敵味方に分かれて戦った『平清盛』の保元の乱や、真田家の生き残りをかけた『真田丸』の犬伏の別れを彷彿とさせます。

が、光秀が選んだのは道三でした。

高政とは幼いころから共に学び成長した仲で、一緒に美濃の未来を背負っていこうと約束し合った仲です。しかし、結局はそれだけしかありません。

道三は頼芸の子を自称する高政を「人を欺き、自らを飾ろうとした」者だと言いました。高政自身、自分が道三の実の子であることを知っている。それなのに嘘をついているのです。「人の上に立つ者は正直者でなければならない」。

そう言う道三は自分がケチであることを隠さず(ケチを自覚していたのか……)、正直者であり続けました。

「自分は油売りの父をもつ子」であることを隠さず、その父が目指した大きな国をつくろうと生きてきたのです。国の違いなく、豊かで、誰も手出しができない大きな国を。

光秀も道三が思い描く国づくりに賛同していました。そして、光秀も正直者なのです。道三の大望の前には、高政との関係なんてかすんで見えたのかもしれません。道三の支援で都や堺を見てきた光秀は自分の気持ちに嘘がつけなかったのでしょう。

前回も血について触れましたが、自分の意志を曲げられないところは光安も光秀もやはり明智の血なのでしょうか。

正直者の道三と人を欺く高政の戦い

次回、斎藤親子による戦い「長良川の戦い」です。道三の軍は2000~3000程度、対して高政の軍は1万以上という兵力差で、すでに結果は見えているようなものですが……。

大きな国をつくるという大望を光秀に託し、信長とならそれも成し遂げられるだろうと言った道三は、すでに負けを覚悟しているようです。戦に向かうのは、ただ自分の誤りを正すためです。盛大な親子喧嘩ですね。


【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 校注・訳:小沢正夫・松田成穂『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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