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  • 明智光秀
 2017/11/18

【入門】5分でわかる明智光秀

明智光秀の肖像画

「明智光秀ってどんな人?」と聞かれれば、まず思い浮かぶのは本能寺の変でしょう。

謀反人・裏切り者として悪名高い光秀ですが、あの残虐な信長に苛め抜かれた挙句に耐えかねて謀反を起こしたかわいそうな人物、という見方もあり、教養ある愛妻家で家臣にも心を配った人格者という評価もあります。そういうところが、「主君を裏切った悪人だ」と切り捨てることはできない光秀の魅力ではないでしょうか。

今回はそんな光秀の生涯をわかりやすく整理してまとめてみました。
(文=東 滋実)

いまだ不明点の多い前半生

明智光秀の前半生は、実は謎だらけです。

まず生まれた年もいつであったかはっきりせず、「明智氏一族宮城家相伝系図書」の一説に従うのであれば、享禄元年(1528年)に誕生したか、と言われている程度です。

出自についても、一般的に知られる通説「土岐明智氏」説が有力ですが、その他「進士信周の次男」説、「若狭小浜の刀鍛冶冬広の次男」説など、諸説あります。

そもそもこれほどまでに光秀の前半生が謎なのは、確かな情報を記録した史料が少ないというのが大きいでしょう。光秀の生涯を詳細に記した史料としては『明智軍記』が有名ですが、これは江戸時代に入ってから書かれた軍記物であり、同時代の歴史を記したほかの書物と照らし合わせると誤りも多く、歴史を知る史料としては信憑性がないと考えられています。

『明智軍記』に描かれた光秀の前半生とは

史料が乏しいので、あえて『明智軍記』から紹介すると、光秀は土岐氏庶流の明智氏の生まれで、当時明智氏は美濃のマムシで有名な、あの斎藤道三に仕えていたといいます。しかし明智城は斎藤竜興に攻められ、明智光安は戦死。光安の甥であった光秀は越前へ逃れ、家族を預けて光秀はひとり諸国を放浪したとされています。

この貧乏牢人暮らしは有名ですね。光秀の妻・煕子が自分の髪を売ってまで夫のためにお金を工面した逸話などは、このころの話だと考えられます。

信長の家臣となる前は?

光秀は信長に仕える前、越前国の戦国大名で知られる朝倉義景を主君にしていた、というのが通説です。しかしこの説も『明智軍記』程度しか史料がなく、本当に仕えていたかどうかは不明。一方で、朝倉義景ではなくて細川藤孝に仕え、早い段階から幕臣であったという見方もあります。

朝倉義景に仕えた説

朝倉義景の肖像画
朝倉義景の肖像画

朝倉義景の家臣時代、光秀は鉄砲の腕前で名をあげていたようです。大勢の見物人がいる中で光秀は鉄砲を百発撃ち、ほとんどを的に当てるという凄技の持ち主だったというのです。

光秀は諸国遍歴で得た知識を活かして発言したり、鉄砲で戦に貢献したりして活躍しました。しかし優秀な光秀は家中の者の讒言によって義景に冷遇されるようになり、さらに光秀にとって敵である斎藤竜興が美濃を追われて義景を頼ってきたため、光秀はだんだん越後に居づらくなったのでしょう。義景の家臣を辞めて織田信長の家臣になったと言われています。

そのころ、のちに将軍となる足利義昭が朝倉氏を頼って越前国に滞在していましたが、義景は義昭を担いで上洛するつもりはありません。光秀はこれを好機と見たのか、仲介役となって義昭と信長をつなぎ、義昭の上洛、および将軍職就任を助けています。光秀と信長とのつながりはこれがきっかけであると考えられています。

藤孝の中間となり、幕臣として義昭に仕えた説

細川藤孝(幽斎)の肖像画
細川藤孝(幽斎)の肖像画

もうひとつの説では、光秀は細川藤孝の中間だったと言われています。いつ・どの段階で藤孝に仕えることになったかはわかりませんが、「明智」の名は『永禄六年諸役人附』に見られ、義昭の幕臣に名を連ねていたことがわかります。

よく光秀は信長と幕府との両方に仕えていたとされ、当時の武家社会で異例のことではあるものの、そこは「光秀が優秀だという証拠」として語られています。

実際に両属だったかどうかはっきりしないのは、やはり有力な史料に乏しいからでしょう。細川藤孝とのつながりは、幕臣であった藤孝が義昭とともに越後を頼ったときから始まったというのが通説ですが、実はもっと以前から付き合いはあったのかもしれません。

この二人は茶の湯や連歌という共通の趣味を持っており、藤孝の子・忠興の正妻は光秀の三女・玉(細川ガラシャ)です。公私ともに付き合いがあり、その後長きにわたって親友であったと言われています。

信長の家臣として

信長の家臣かつ幕臣であったとされる光秀。どちらを主君として重視していたのかはっきりしませんが、どっちつかずの時期がしばらく続いた後、信長ひとりを主君と定めたのはおそらく比叡山焼き討ちのころだと考えられます。

このころになると光秀は義昭に見切りをつけています。義景から離れて信長についたこともそうですが、このあたりの光秀は時流と人を見る目が冴えていたようですね。信長の傀儡となった義昭は不満を募らせ、信長と対立しますが結局は京を追放されることになりました。

信長の家臣として目立った働きとポイントをちょっとまとめてみましょう。

金ヶ崎の戦い

元亀元年(1570年)4月、越前の朝倉義景討伐に出陣した信長が、その途中で当時信長と同盟関係にあった浅井長政の裏切りに遭遇し、危機的状況に陥った戦いです。信長の人生最大のピンチでした。

この戦で手柄を立てたのが、撤退時に殿(しんがり)をつとめた秀吉と光秀です。危うい状況で殿なんて死んで当たり前の状況でしたが、二人とも生還。どちらかというと文官的性格の強い印象の光秀ですが、このエピソードは武の面でも能力を持っていたことを物語っています。

比叡山焼き討ち

「第六天魔王」と呼ばれた信長。その残虐さがわかる最たる出来事が元亀2年(1571年)の比叡山延暦寺の焼き討ちでしょう。

神も仏も信じず恐れない信長は比叡山の僧侶や子どもらを山ごと取り囲んで殺したわけですが、このとき光秀がどうしていたのか。焼き討ちを中心で指揮していた光秀は、ドラマなどでは必死に信長を諫めていたのが印象に残っています。

しかし近年光秀直筆の書状が見つかり、「仰木攻めなで切り」にせよと命令を下していたことがわかりました。つまり、織田に反するものは皆殺しにしろということ。情に流されず、意外と合理主義者だったようです。

坂本城の城主となる

比叡山焼き討ちで武功を上げた光秀は、信長から近江国志賀郡を賜ります。通説どおり光秀が明智城を追われ流浪生活を送ったのであれば、念願の一国一城の主の座です。ちなみに、もともと坂本の地には宇佐山城があり、前の城主は森可成でした。森可成が戦死したため、最初信長は宇佐山城を光秀に与え、別に坂本城築城を命じて後からそちらに移ったとも言われます。

丹波平定し畿内のほぼ全体を統べる

信長の家臣としてしっかり結果を出し続けた光秀は、その忠勤を評価され、天正3年(1575年)には朝廷から「惟任」の姓と、日向守の官名を賜りました。このころ信長の命で丹波攻略に力を注いでいましたが、天正7年(1579年)にようやく平定。信長も大満足で、この苦労を称えて丹波一国29万石と亀山城を与えました。これによって光秀は信長家臣団の中でも一大勢力を誇る大名となり、畿内ほぼ全域を組織するほどになりました。

新たな丹波領主となった光秀は領民からすればよそ者。前の領主のように搾取するのかと思われていましたが、光秀は善政を敷いて領民に慕われていたのだとか。いまや光秀は主君を討った謀反人ですが、丹波の地ではいまだに「御霊さま」と慕われ、神社に祀られています。

この丹波平定のころは、光秀にとってもっとも輝かしい時代だったと言えそうです。手柄を立てては勢力を増していき、長年苦しめられた丹波攻略もようやくうまくいった。丹波領内を整えて軌道に乗せ、あとは家臣に任せて坂本に戻って過ごそう…。そんなふうに思っていたのではないでしょうか。

しかし、まもなくして暗雲が立ち込めます。

信長に冷遇される

天正10年(1582年)ごろ、信長は急に光秀を冷遇するようになります。

有名なエピソードは、ルイス・フロイスが記録した「信長と光秀が催しの準備を密室で行っていた際、信長の好みに合わないことで光秀が言葉を返すと信長は怒り、2度ほど足蹴にした」というもの。

もうひとつは信長が家康をもてなした安土城の饗応において、準備を任されていた光秀は腐った鯛を出してしまい、信長の怒りを買って任を解かれたというエピソード。

『絵本太閤記』信長の怒りに触れて饗応役を解任。食い下がって<a href='https://sengoku-his.com/508'>森蘭丸</a>に殴られるシーン
『絵本太閤記』信長の怒りに触れて饗応役を解任。食い下がって森蘭丸に殴られるシーン

こちらのエピソードは後世の創作とされていますが、この時期に光秀は所領を没収されてかわりに毛利領の出雲・石見を勝ち取ってこいと言われ、秀吉の中国攻めを支援してこいと命じられたわけで、信長が冷遇していたのは事実のようです。

鯛の話はそれを強調するために生まれた後世の創作でしょう。

本能寺の変から怒涛の転落

本能寺の変

秀吉の支援を命じられた光秀。6月1日に出陣の準備に取りかかりますが、翌2日の未明、光秀が向かった先は信長が逗留している本能寺でした。この謀反を知らされたのは光秀の5人の家老だけであり、下々の兵は一体誰を襲っているのかもよくわかっていなかったとか。

本能寺の変の動機については、「怨恨説」「野望説」ほか、「秀吉黒幕説」、幕府再興を狙った「義昭黒幕説」、その他「朝廷黒幕説」など諸説あります。

「三日天下」味方を得られなかった山崎の戦い

何を思って謀反を起こしたのか。光秀の考えていたことはわかりませんが、怨恨だったにせよ野望だったにせよ、あまりにも準備不足でした。信長を討つことに成功したのまではよかったものの、ここから光秀は想定外の連続。怒涛の勢いで転落していくことになります。

信長を討った光秀はそれを各地の武将に通達し、朝廷には「信長に代わって天下人になったので許可を」と正式なルートで天下人となる許可を求めます。朝廷から返事が来るまで数日。その間光秀は仲間を集めようと各所に書状を送ります。

とくにアテにしていたのは細川藤孝・忠興親子と筒井順慶でしょう。どちらも信長家臣団の一員で、光秀の与力となっていました。どちらとも家臣としてだけでなく、茶の湯や連歌を通した文化的交流、さらに姻戚関係も結んだ間柄であったため、光秀は当然味方してくれるものと考えていたはずです。

しかし細川親子は動かず。「落ち着いたら忠興に天下を譲る」とまで言って説得しますが、だんまりを決め込まれたのです。一方、筒井順慶のほうはしぶしぶながら兵を出して助力する姿勢を見せましたが、秀吉が恐るべき速さで中国から引き返しているのを知ると態度を変えて退散。説得もむなしく味方は得られませんでした。

朝廷から許可は得られたものの、想定外の兵力の少なさ、秀吉の想定外の動き、光秀は根回しする暇もなく完全に出遅れ、山崎の戦いで明智軍は倍以上の軍と対峙することになります。当然敗れ、秀吉軍の勝利で光秀の天下は幕を下ろすのです。

光秀と一族の最期

光秀が亡くなったとされるのは6月13日。敗れて山中を逃げている最中に落ち武者狩りに遭い、自害したと伝わっています。光秀が天下人だったのはわずか11日。あっけない最期でした。

ちなみに、光秀の家老であった明智秀満は光秀が敗れたと知って安土から坂本城に戻り、秀吉方の軍に取り囲まれるなか、もはやこれまでと死ぬ支度を整え、光秀の妻子や自身の妻を刺殺したあと城に火を放って自刃しました。

本能寺の変決意からの行動は、智将として知られる光秀にしては性急であり、準備不足と運のなさで敗北してしまいました。光秀最大の誤算は、信長を殺しさえすればみんな味方についてくれると思ったことでしょう。それだけ信頼関係を築けているつもりだったのでしょうか。結局は藤孝や順慶も信長の家臣であり、光秀の忠臣ではなかったのです。

ルイス・フロイスは光秀を「狡猾」で「冷淡」な人物と評しており、織田家中ではよそ者扱いで快く思われていなかったと言っています。信長びいきのフロイスが信長を殺した光秀をあえて悪く書いたとも考えられますが、本能寺の変後にそっぽを向かれた状況を見ると、意外とその見方は正しかったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』文芸社文庫、2007年。
  • 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫、2009年。
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』新人物文庫、2014年。etc…



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