明智光秀の歴史は謎だらけ!2020年NHK大河の主役、光秀の生涯まとめ

2020年大河ドラマ『麒麟が来る』で主人公となる明智光秀。「光秀ってどんな人?」と聞かれれば、まず思い浮かぶのは本能寺の変でしょう。謀反人・裏切り者として悪名高い光秀ですが、あの残虐な信長に苛め抜かれた挙句に耐えかねて謀反を起こしたかわいそうな人物、という見方もあり、教養ある愛妻家で家臣にも心を配った人格者という評価もあります。

そういうところが、「主君を裏切った悪人だ」と切り捨てることはできない光秀の魅力ではないでしょうか。今回はそんな光秀の生涯をシンプルにまとめてみました。

美濃の土岐氏の流れを汲む?

謎だらけの前半生

本能寺の変でとても有名な明智光秀ですが、彼の前半生にフォーカスしてみると謎だらけです。そもそも生まれた年すらハッキリしません。『大日本史料 』所収の「明智氏一族宮城家相伝系図書」の一説に従うのであれば、享禄元年(1528)に誕生したか、と言われている程度です。

出自についても、一般的に知られる通説「土岐明智氏」の説が有力ですが、その他「進士信周の次男」説、「若狭小浜の刀鍛冶冬広の次男」説など、諸説あります。これほどまでに光秀の前半生が謎なのは、確かな情報を記録した史料が少ないというのが大きいでしょう。


光秀の生涯を詳細に記した史料としては『明智軍記』が有名ですが、これは江戸時代に入ってから書かれた軍記物であり、同時代の歴史を記したほかの書物と照らし合わせると誤りも多く、歴史を知る史料としては信憑性がないと考えられています。

『明智軍記』に描かれた光秀の前半生とは

とはいえ、『明智軍記』以外に詳細な史料があるかといえば、それも見当たらず。光秀の前半生も『明智軍記』を頼るしかないようです。

あえて『明智軍記』から紹介すると、光秀は土岐氏庶流の明智氏の生まれで、当時の明智氏は斎藤道三に仕えていたといいます。斎藤道三といえば美濃の戦国大名で知られ、「美濃のマムシ」の異名でも有名ですよね。近年の研究だと彼の国盗りは1人ではなく、親子二代で成し遂げられたものとか…。

美濃国を下剋上で乗っ取ったといわれる斎藤道三
美濃国を下剋上で乗っ取ったといわれる斎藤道三

そんな道三もやがて嫡男の義龍と対立して弘治2年(1556)の長良川の戦いで討死しています。このとき明智氏は道三方に加担していたといいます。これが理由でのちに明智城は義龍に攻められて明智光安が戦死。光安の甥であった光秀も越前へ逃れ、家族を預けて永禄3~5年(1560~62)の約2年間、一人諸国を放浪したとされています。

この話も結構知られています。光秀の妻・煕子が自分の髪を売ってまで夫のためにお金を工面したエピソードなどは、このころの話を元にしたもの考えられます。


美濃を追われ、信長家臣になるまで

光秀は信長に仕える前、越前国の戦国大名で知られる朝倉義景を主君にしていた、というのが通説です。しかしこの説も『明智軍記』程度しか史料がなく、本当に仕えていたかどうかの確証はありません。

一方で、朝倉義景ではなくて細川藤孝に仕え、早い段階から幕臣であったという見方もあり、こちらは近年有力視されているようです。

朝倉義景に仕えた説

まずは朝倉義景家臣説について。

美濃を出て、長く諸国を放浪したあとに光秀が頼った先が越前朝倉氏だといいます。朝倉家臣時代の光秀は鉄砲の腕前で名をあげていたといいます。大勢の見物人がいる中で光秀は鉄砲を百発撃ち、ほとんどを的に当てるという凄技の持ち主だったというのです。

光秀は朝倉義景の命により、大勢の前で鉄砲の腕前を披露した?
光秀は朝倉義景の命により、大勢の前で鉄砲の腕前を披露した?

光秀は諸国遍歴で得た知識を活かして発言したり、鉄砲で戦に貢献したりして活躍しました。しかし優秀な光秀は家中の者の讒言によって義景に冷遇されるようになります。

さらに光秀にとって敵である斎藤竜興が美濃を追われて義景を頼ってきたため、光秀はだんだん越前に居づらくなったのでしょうか。義景の家臣を辞めて織田信長の家臣になったと言われています。

同じころ、のちに将軍となる足利義昭は朝倉氏を頼って越前国に滞在していました。ところが義景は義昭を担いで上洛するつもりはありません。

光秀はこれを好機と見たのか、仲介役となって義昭と信長をつなぎ、義昭の上洛、および将軍職就任を助けています。光秀と信長とのつながりはこれがきっかけであると考えられています。


藤孝の中間となり、早くから幕臣だった説

もうひとつの説では、光秀は細川藤孝の中間( = 武士の最下級のこと)だったと言われています。いつ・どの段階で藤孝に仕えることになったかはわかりません。

本能寺では光秀に加担しなかった細川藤孝。光秀の親友だったとか。
本能寺では光秀に加担しなかった細川藤孝。光秀の親友だったとか。

その根拠としては、『永禄六年諸役人附』の中にある幕府役人リストに足軽として「明智」の名が見られることです。この「明智」が光秀のことを指している可能性が高く、これまで光秀に関わる最古の史料とも考えられてきました。

永禄6年といえば、将軍はまだ13代足利義輝の代で西暦でいうと1563年です。ただし、この史料の「明智」の部分は後年、つまりは足利義昭が将軍になった後に書き加えられたとされていますので、年に関してはアテになりません。

しかし、近年には新たに光秀に関する最古の史料(『米田家文書』所収)が発見されました。これによると、光秀は永禄8年(1565)の永禄の変(13代将軍の足利義輝が殺害された政変)の前後に近江高島城に籠城していたことがわかっています。ちなみに同城主の田中氏は幕府奉公衆だそうです。

こうしたことから正確な時期はともかくとして、早い段階から光秀が幕臣だった可能性があるのです。

光秀と細川藤孝とのつながりは幕臣の藤孝が幕府再興をめざす義昭とともに朝倉義景を頼った永禄9年(1566)頃に始まった、というのが通説ですが、実はもっと以前から付き合いはあったのかもしれません。

この二人は茶の湯や連歌という共通の趣味を持っており、藤孝の子・忠興の正妻は光秀の三女・玉(細川ガラシャ)です。公私ともに付き合いがあり、その後長きにわたって親友であったと言われています。

幕臣から信長家臣へ

前述のように義昭と信長のパイプ役を担い、いつの頃からか信長に仕えるようになった光秀。そこでまずは上洛までの義昭の動向について触れてみます。

義昭の将軍就任までの道のり

義昭の兄は13代将軍の足利義輝です。永禄の変で義輝が殺害された当時は一条院門跡として奈良の興福寺にいた義昭ですが、身の危険を感じた幕臣らの機転によってすぐに脱出。以後、義昭は還俗して幕府再興を掲げ、諸大名たちに上洛の手助けを要請しました。

しかし、上洛するにも兄の仇である三好三人衆らを追い出すには戦う軍勢が必要です。なかなか上手く事が進まず、各地を転々としますが、最終的にこの要請に応えてくれたのが織田信長でした。

当時の信長は、美濃国を制圧したばかりでしたが、永禄11年(1568)に大軍勢を動かして上洛、義昭を15代将軍に就かせるという、大きな仕事を果たしています。そしてこの上洛軍に光秀も従ったと考えられています。

信長のおかげで将軍になれた足利義昭。その後は、信長に痛烈に批判されて逆恨み?
信長のおかげで将軍になれた足利義昭。その後は、信長に痛烈に批判されて逆恨み?

幕臣と信長家臣の時期が重なっていた?

よく光秀は一時的に信長と幕府との両方に仕えていたとされ、当時の武家社会で異例のことではあるものの、そこは「光秀が優秀だという証拠」として語られています。ただし、実際に両属だったかどうかは判然としていません。やはり有力な史料に乏しいからでしょう。

また、どちらを主君として重視していたのかもハッキリしませんが、どっちつかずの時期がしばらく続いた後、信長ひとりを主君と定めたのはおそらく元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちのころだと考えられます。

このころになると光秀は義昭に見切りをつけています。義景から離れて信長についたこともそうですが、このあたりの光秀は時流と人を見る目が冴えていたようですね。

色々と口をはさむ信長に不満を募らせた義昭は、やがて信長を敵視していきますが、元亀4年(1573)に挙兵するもあっさりと敗戦。結局は京を追放されることになりました。


さて、次は両属時代と思われるころの、光秀の信長家臣としての目立った働きやポイントをまとめてみましょう。

金ヶ崎の戦い

元亀元年(1570)4月、越前の朝倉義景討伐に出陣した信長が、その途中で当時信長と同盟関係にあった浅井長政の裏切りに遭遇し、危機的状況に陥った戦いです。信長の人生最大のピンチでした。

この戦で手柄を立てたのが、撤退時に殿(しんがり)をつとめた秀吉と光秀です。危うい状況で殿なんて死んで当たり前の状況でしたが、二人とも生還。どちらかというと文官的性格の強い印象の光秀ですが、このエピソードは武の面でも能力を持っていたことを物語っています。

比叡山焼き討ち

「第六天魔王」と呼ばれた信長。その残虐さがわかる最たる出来事が元亀2年(1571)の比叡山延暦寺の焼き討ちでしょう。

神も仏も信じず恐れない信長は比叡山の僧侶や子どもらを山ごと取り囲んで殺したわけですが、このとき光秀がどうしていたのか。焼き討ちを中心で指揮していた光秀は、ドラマなどでは必死に信長を諫めていたのが印象に残っています。

しかし近年光秀直筆の書状が見つかり、「仰木攻めなで切り」にせよと命令を下していたことがわかりました。つまり、織田に反するものは皆殺しにしろということ。情に流されず、意外と合理主義者だったようです。

坂本城の城主となる

比叡山焼き討ちで武功を上げた光秀は、信長から近江国志賀郡を賜ります。通説どおり光秀が明智城を追われ流浪生活を送ったのであれば、念願の一国一城の主の座です。

ちなみに、もともと坂本の地には宇佐山城があり、前の城主は森可成でした。森可成が戦死したため、最初信長は宇佐山城を光秀に与え、別に坂本城築城を命じて後からそちらに移ったとも言われます。


丹波平定し畿内のほぼ全体を統べる

信長の家臣としてしっかり結果を出し続けた光秀は、その忠勤を評価され、天正3年(1575)には朝廷から「惟任」の姓と、日向守の官名を賜りました。

このころ信長の命で丹波攻略に力を注いでいましたが、およそ5年がかりで天正7年(1579)にようやく平定します。

光秀の丹波攻めマップ。色塗エリアは丹波国。赤マーカーは丹波国の城で数字は攻略年。青は織田方の城。

信長も大満足で、この苦労を称えて丹波一国29万石と亀山城を与えました。これによって光秀は信長家臣団の中でも一大勢力を誇る大名となり、畿内ほぼ全域を組織するほどになりました。

新たな丹波領主となった光秀は領民からすればよそ者。前の領主のように搾取するのかと思われていましたが、光秀は善政を敷いて領民に慕われていたのだとか。いまや光秀は主君を討った謀反人ですが、丹波の地ではいまだに「御霊さま」と慕われ、神社に祀られています。

この丹波平定のころは、光秀にとってもっとも輝かしい時代だったと言えそうです。手柄を立てては勢力を増していき、長年苦しめられた丹波攻略もようやくうまくいった。丹波領内を整えて軌道に乗せ、あとは家臣に任せて坂本に戻って過ごそう…。そんなふうに思っていたのではないでしょうか。

しかし、まもなくして暗雲が立ち込めます。


信長に冷遇される

天正10年(1582)ごろ、信長は急に光秀を冷遇するようになります。

有名なエピソードは、ルイス・フロイスが記録した「信長と光秀が催しの準備を密室で行っていた際、信長の好みに合わないことで光秀が言葉を返すと信長は怒り、2度ほど足蹴にした」というもの。

もうひとつは信長が家康をもてなした安土城の饗応において、準備を任されていた光秀は腐った鯛を出してしまい、信長の怒りを買って任を解かれたというエピソード。

『絵本太閤記』信長の怒りに触れて饗応役を解任。食い下がって森蘭丸に殴られるシーン(wikipediaより)
『絵本太閤記』信長の怒りに触れて饗応役を解任。食い下がって森蘭丸に殴られるシーン(wikipediaより)

こちらのエピソードは後世の創作とされていますが、この時期に光秀は所領を没収されてかわりに毛利領の出雲・石見を勝ち取ってこいと言われ、秀吉の中国攻めを支援してこいと命じられたわけで、信長が冷遇していたのは事実のようです。鯛の話はそれを強調するために生まれた後世の創作でしょう。

本能寺の変から怒涛の転落

本能寺の変

秀吉の支援を命じられた光秀。6月1日に出陣の準備に取りかかりますが、翌2日の未明、光秀が向かった先は信長が逗留している本能寺でした。この謀反を知らされたのは光秀の5人の家老だけであり、下々の兵は一体誰を襲っているのかもよくわかっていなかったとか。

本能寺の変の動機については、「怨恨説」「野望説」ほか、「秀吉黒幕説」、幕府再興を狙った「義昭黒幕説」、その他「朝廷黒幕説」など諸説あります。


「三日天下」味方を得られなかった山崎の戦い

何を思って謀反を起こしたのか。光秀の考えていたことはわかりませんが、怨恨だったにせよ野望だったにせよ、あまりにも準備不足でした。信長を討つことに成功したのまではよかったものの、ここから光秀は想定外の連続。怒涛の勢いで転落していくことになります。

信長を討った光秀はそれを各地の武将に通達し、朝廷には「信長に代わって天下人になったので許可を」と正式なルートで天下人となる許可を求めます。朝廷から返事が来るまで数日。その間光秀は仲間を集めようと各所に書状を送ります。

とくにアテにしていたのは細川藤孝・忠興親子と筒井順慶でしょう。どちらも信長家臣団の一員で、光秀の与力となっていました。どちらとも家臣としてだけでなく、茶の湯や連歌を通した文化的交流、さらに姻戚関係も結んだ間柄であったため、光秀は当然味方してくれるものと考えていたはずです。

光秀の家臣というだけでなく、養子縁組、姻戚関係にあった可能性もある筒井順慶
光秀の家臣というだけでなく、養子縁組、姻戚関係にあった可能性もある筒井順慶

しかし細川親子は動かず。「落ち着いたら忠興に天下を譲る」とまで言って説得しますが、だんまりを決め込まれたのです。一方、筒井順慶のほうはしぶしぶながら兵を出して助力する姿勢を見せましたが、秀吉が恐るべき速さで中国から引き返しているのを知ると態度を変えて退散。説得もむなしく味方は得られませんでした。

朝廷から許可は得られたものの、想定外の兵力の少なさ、秀吉の想定外の動き、光秀は根回しする暇もなく完全に出遅れます。そして山崎の戦いでは明智軍は倍以上の秀吉軍と対峙して敗れ、秀吉の勝利で光秀の天下は幕を下ろすのです。

光秀と一族の最期

光秀が亡くなったとされるのは6月13日。敗れて山中を逃げている最中に落ち武者狩りに遭い、自害したと伝わっています。光秀が天下人だったのはわずか11日。あっけない最期でした。

ちなみに、光秀の家老であった明智秀満は光秀が敗れたと知って安土から坂本城に戻り、秀吉方の軍に取り囲まれるなか、もはやこれまでと死ぬ支度を整え、光秀の妻子や自身の妻を刺殺したあと城に火を放って自刃しました。

本能寺の変決意からの行動は、智将として知られる光秀にしては性急であり、準備不足と運のなさで敗北してしまいました。光秀最大の誤算は、信長を殺しさえすればみんな味方についてくれると思ったことでしょう。それだけ信頼関係を築けているつもりだったのでしょうか。結局は藤孝や順慶も信長の家臣であり、光秀の忠臣ではなかったのです。

ルイス・フロイスは光秀を「狡猾」で「冷淡」な人物と評しており、織田家中ではよそ者扱いで快く思われていなかったと言っています。信長びいきのフロイスが信長を殺した光秀をあえて悪く書いたとも考えられますが、本能寺の変後にそっぽを向かれた状況を見ると、意外とその見方は正しかったのかもしれません。


まとめ

大河『麒麟が来る』では、光秀の前半生にスポットを当てるようですが、この記事でお伝えしたように残念ながら彼の前半生は伝承の域をでていません。

美濃守護の土岐頼芸、道三父子、濃姫など美濃の主要人物、そして将軍や幕臣など室町幕府の人々。光秀と彼らとの関わりがドラマではどのように描かれるのか。注目したいところです。


【参考文献】
  • 藤田 達生『明智光秀伝: 本能寺の変に至る派閥力学』小学館、2019年。
  • 歴史読本編集部『ここまでわかった! 明智光秀の謎』新人物文庫、2014年。
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。
  • 新人物往来社『明智光秀 野望!本能寺の変』新人物文庫、2009年。
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』文芸社文庫、2007年。
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年。
  • 高柳光寿『人物叢書 明智光秀』吉川弘文館、1986年。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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