【麒麟がくる】第19回「信長を暗殺せよ」レビューと解説

越前のあばら家に居を構えた光秀は、朝倉義景に仕官せず牢人の身ですが、なぜか五年ぶりに京へ戻った将軍への贈り物を届ける役目を仰せつかります。およそ10年ぶりの将軍との再会。やや浮かれる光秀ですが、上洛した信長とのやりとりを見て将軍の権威の失墜を実感するのでした。

信長と土田御前の決別

前回、弟・信勝を死に追いやった信長。信勝とともに見舞いに訪れていた母・土田御前と対面します。

母の愛する弟を殺してしまったわけですが、この対面する場面はちょっとうれしそう。父の面前に松平広忠の首を持ってきたときの感じを思い出します。信長としては、最愛の信勝がいなくなった今なら、もしかしたら自分を見てくれるのでは?という期待があったのかもしれません。しかし土田御前の反応は、完全なる決別の意思表示でした。

土田御前いわく、信長は幼い時から自分の大切にしていた小鳥や茶器などの物を壊したと。それが自分を傷つける。それを癒してくれたのが信勝だったのに、今度は信勝までも壊されてしまった。

土田御前にとって、子どもがどういう存在なのか見えた気がします。母として慈しみ愛を与える存在ではなく、「癒してくれる」物なのですね。最愛の子の信勝を小鳥や茶器と並列して語るあたり、子どもすら所有物と見なしていたのでしょう。だから、自分とはまるで違う、思い通りにならない信長を遠ざけたのでしょう。物を壊すって、小さな子ならよくあることです。

ちょっといきすぎたところはあったのかもしれませんが、母が大切な物に向ける目を自分に向けてほしい、幼い信長にはそういう思いがあったのではないでしょうか。

信長はいつも自分を見てほしいと母を追いかけてきましたが、子どもを人として見ず、はなから信長を「言葉を介して理解し合える人」と見なさなかった土田御前とは、一度も線が交わることなく終わりました。

ところで、土田御前は信勝が兄を殺そうとしていたことを知っていたはずですが、あのまま信長が殺されていたら同じように嘆きはしなかったでしょうね。


牢人(浪人)となった光秀は

越前の光秀は、「金はいらない」ときっぱり言い放ったあれ以来禄をもらうことなく、子どもに教えながらつつましく暮らしているようです。

子どもたちが音読していたのは『論語』憲問篇の、「子曰、不患人之不己知、患己無能也。(子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず、己の能なきを患うなり。)」というところです。人が自分を評価してくれないと嘆くよりも、自分に能力がないことを気にしなさい、という意味です。

牢人の身で、誰にも取り立てられることのない光秀の現状と重なります。まさに今、光秀はこれをかみしめているのでしょうか。京へ行って、貸しのある久秀に再会したとき、コネで自分を召し抱えてくれとお願いすることもできたかもしれません。しかしそういうずるい手を使わず、自分で力をつけて地位を得ていこう、と考えるのが光秀の美点でしょう。

春日龍神

朝倉義景の名代として上洛し(若いころより深い色味の衣装は義景からのレンタルだそう)、細川藤孝、三淵藤英と面会した光秀は、二条家で義輝と一緒に能を見る流れに。

義輝に同道せよと言われた光秀はなんだか口元がヒクヒクしていますが、光秀にとって武士の棟梁たる義輝はアイドル的存在らしいので、うれしいのでしょう。そこで名を「義龍」と改めたかつての友人と思わぬ再会を果たします。義龍はあれほど道三を否定していましたが、風貌は父にそっくりです。

「いろいろ変わるけど能は変わらない。能はいい」と憂いたっぷりに義輝が言う能の演目は「春日龍神」です。

唐、天竺への旅を決めた明恵上人を、春日大社の神官らしき老人が引き止めます。天竺や唐に行ってもご利益はない、この春日山こそ霊鷲山(釈迦が説法をしたというインドの山)とみなされる仏法の聖地だというのです。老人は思い留まるなら三笠山で釈尊の一生を見せよう、自分は時風秀行(春日神の眷属)の化身だといって姿を消します。すると三笠山に光が差し、龍神が現れ、龍女が舞い、釈尊の一生が見せられました。こうして明恵上人は入唐渡天を思い留まった、というのがざっくりとしたストーリーです。

龍神は明惠上人の旅立ちを止めることができましたが、義“龍”は今回も“明”智を引き戻そうとしてかないませんでした。また、求心力を失った将軍の、大名たちをつなぎとめようという思いにも通じる演目でした。

義龍による信長暗殺計画

義龍による信長暗殺の計画は事前に漏れ、藤孝から聞いた光秀は久秀を使って計画を阻止するため動きました。

この出来事は『信長公記』にあるエピソードを膨らませたものでしょう。実際は光秀が介入してはいませんし、義龍が信長上洛の同時期に京にいたこともありません。


久秀を使って暗殺を中止させたあと、義龍は光秀を呼んで再度自分に仕えろと言いますが、光秀は応じませんでした。

久秀は義理堅く光秀に借りを返しましたが、光秀は結局「何でも言うことをきく」という約束を果たしませんでしたね。義龍がこのカードを使うことなく終わったのは、貸し借りで光秀をつなぎとめようとしたくなかったからでしょうか。

義龍はこの2年後に病死します。ナレーションで触れたということは、これが義龍最後の登場シーンだったのでしょう。


将軍の相伴衆

上洛して将軍に謁見した信長は、しきりにちょっかいをかけてくる今川を将軍ならどうにかしてくれる、という思いがあったようですが、義輝と話すにつれて徐々に「期待がはずれた」顔に。

今、京を実質的に治めているのは松永久秀であり、その上に立っているのが三好長慶です。和睦して帰京したといえども、いまや将軍の権威は落ちに落ち……。大名同士の争いを調停することすらできないのです。

そのかわりに義輝は「左京大夫」の官職を与えてやろうと言います。今川義元の治部大輔より上なので、これでどうにかなるだろうと。それでもだめなら相伴衆にしてやろうと言いますが……。

相伴衆とは、限られた高い位の者だけが選ばれる身分で、三管領の下、御供衆の上にあたります。この翌年に久秀が御供衆に加わっていますから、単純に言えば信長は京を治める久秀より上の身分を与えられようとしていたわけです。

実は義龍は名門・一色氏を名乗ることを許され、相伴衆に加わって、2年後には左京大夫に任じられています。信長がふいにしたものを拾って手にしたのが義龍だというのがなんとも皮肉ですが、その死後跡を継いだ龍興は信長に敗北して美濃を追われるわけで、もう将軍の与える身分なんて何の抑止力にもならないことがわかります。

今川義元だって、もし本当に信長が左京大夫や相伴衆になったとして、逆に神経を逆なでされてより攻撃的になったかもしれません。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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