「小京都」という言葉があるように、京を離れた各地で繁栄した都市がありました。
戦国時代におけるそんな都のひとつが、越前福井の一乗谷ではないでしょうか。
信長と対決したことでも知られる朝倉義景が有名ですが、一乗谷は山城を含めた城下町全体が防御性の都市であり、しかも先進の文化が集まる「北ノ京」でもありました。
今回はそんな、一乗谷城の歴史について見てみることにしましょう。
一乗谷城とは現在の福井県福井市城戸ノ内町を中心に所在した山城です。
城そのものは一乗城山という山上に築かれていますが、川に沿った谷筋である一乗谷をそのまま城塞化しており、武家屋敷などが建ち並ぶ防御性の城下町を抱えていました。
一乗城山は標高約473メートル、そこに約200メートル×600メートルの主郭を設け、全長約15キロメートル・幅約200メートルにもおよぶ曲輪を備えています。
本丸は標高約413メートルの地点に位置し、尾根沿いの東南方向へ順に一の丸・二の丸・三の丸が続き、それぞれの標高は約443メートル・463メートル・473メートルと、本丸より曲輪が徐々に高くなっていくのが特徴です。
曲輪(郭)が段階的に連なる連郭式というタイプに分類され、それぞれの曲輪間は防御機構の堀切で区切られていました。
正確な築城年代は不明ですが、文明3年(1471年)に朝倉氏七代目当主で戦国期朝倉の初代ともされる、朝倉敏景が本拠を構えたといわれています。
しかし14世紀の南北朝時代にはすでに朝倉氏は一乗谷を拠点としていたとも考えられ、一乗谷城も15世紀前半には存在した可能性が指摘されています。
独自の繁栄を築いた朝倉氏は足利将軍家からも特別に頼られ、明応8年(1499年)に10代将軍・足利義稙が助力を仰ぐため朝倉貞景を訪ねています。
永禄10年(1567年)には足利義昭(当時:義秋)が朝倉義景の庇護を求めて一乗谷に来訪。
そして明智光秀の仲介で織田信長の協力を得て京へと入り、15代将軍に就任したことがよく知られています。
しかし義昭はやがて信長と対立、朝倉氏と織田氏の間には緊張感が高まります。
京へ向けて西進する信長と交戦状態となった朝倉氏は、いくつかの重要な戦闘で敗退。
元亀3年(1572年)には朝倉家の重臣で奉行衆を務めた前波吉継(桂田長俊)が造反、信長陣営につきました。
朝倉本拠の地理を熟知していた吉継は信長軍を誘導、諸将が離反していく中、一乗谷に帰陣した朝倉義景のもとにはわずかな手勢しか集まらなかったといいます。
天正元年(1573年)、刀禰坂の戦い(一乗谷城の戦い)を経て義景は一乗谷を放棄。逃亡先で自害を余儀なくされ、越前朝倉氏は滅亡します。
一乗谷には朝倉から織田についた前波吉継(桂田長俊)が守護代として入りましたが、天正2年(1574年)の越前一向一揆により討死。一揆平定後の天正3年(1575年)、柴田勝家が北ノ庄城を築城し越前の首都機能が移転したことにより、一乗谷城は廃城となりました。
一乗谷城を冠し、越前朝倉氏の拠点となった一乗谷は北ノ京と称される繁栄を誇りました。
戦乱を逃れて多くの文化人が居住したこと、独自交易で貴重な海外製品を入手するルートを持っていたことなど、文化・経済が充実する基盤が整っていました。
朝倉氏最後の当主といえる朝倉義景は武人としてよりも文人としての印象が強く、実際に作戦行動においては積極性を見せなかったとされています。
結果論としては越前朝倉氏の滅亡を目の当たりにしましたが、統治者としての同時代の評価は決して低い物ではありませんでした。
滅亡にあたり、一乗谷そのものは一時戦場になったものの、一乗谷城本体は一度も実戦を経験しなかった城としても知られています。
鉄壁の防御力をもっていたはずの一乗谷城でしたが、家臣の造反や離反により、むしろ内部から守る力が失われていったという印象を受けます。
一乗谷の山城本体が戦場になることなく陥落したのも、そんな悲劇を象徴しているかのようです。
文化を愛し、平和を希求したであろう朝倉義景の哀しみに、思いを馳せてみるのもよいのではないでしょうか。
※参考:略年表
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