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北ノ京の象徴にして、戦場となることなく滅びた城!「一乗谷城」の歴史について

帯刀コロク
 2020/06/17

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

「小京都」という言葉があるように、京を離れた各地で繁栄した都市がありました。 戦国時代におけるそんな都のひとつが、越前福井の一乗谷ではないでしょうか。

信長と対決したことでも知られる朝倉義景が有名ですが、一乗谷は山城を含めた城下町全体が防御性の都市であり、しかも先進の文化が集まる「北ノ京」でもありました。

今回はそんな、一乗谷城の歴史について見てみることにしましょう。

一乗谷城とは

一乗谷城とは現在の福井県福井市城戸ノ内町を中心に所在した山城です。

城そのものは一乗城山という山上に築かれていますが、川に沿った谷筋である一乗谷をそのまま城塞化しており、武家屋敷などが建ち並ぶ防御性の城下町を抱えていました。

一乗城山は標高約473メートル、そこに約200メートル×600メートルの主郭を設け、全長約15キロメートル・幅約200メートルにもおよぶ曲輪を備えています。

本丸は標高約413メートルの地点に位置し、尾根沿いの東南方向へ順に一の丸・二の丸・三の丸が続き、それぞれの標高は約443メートル・463メートル・473メートルと、本丸より曲輪が徐々に高くなっていくのが特徴です。

一乗谷城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます

曲輪(郭)が段階的に連なる連郭式というタイプに分類され、それぞれの曲輪間は防御機構の堀切で区切られていました。 正確な築城年代は不明ですが、文明3年(1471年)に朝倉氏七代目当主で戦国期朝倉の初代ともされる、朝倉敏景が本拠を構えたといわれています。

しかし14世紀の南北朝時代にはすでに朝倉氏は一乗谷を拠点としていたとも考えられ、一乗谷城も15世紀前半には存在した可能性が指摘されています。

独自の繁栄を築いた朝倉氏は足利将軍家からも特別に頼られ、明応8年(1499年)に10代将軍・足利義稙が助力を仰ぐため朝倉貞景を訪ねています。

永禄10年(1567年)には足利義昭(当時:義秋)が朝倉義景の庇護を求めて一乗谷に来訪。 そして明智光秀の仲介で織田信長の協力を得て京へと入り、15代将軍に就任したことがよく知られています。

しかし義昭はやがて信長と対立、朝倉氏と織田氏の間には緊張感が高まります。 京へ向けて西進する信長と交戦状態となった朝倉氏は、いくつかの重要な戦闘で敗退。

元亀3年(1572年)には朝倉家の重臣で奉行衆を務めた前波吉継(桂田長俊)が造反、信長陣営につきました。

朝倉本拠の地理を熟知していた吉継は信長軍を誘導、諸将が離反していく中、一乗谷に帰陣した朝倉義景のもとにはわずかな手勢しか集まらなかったといいます。

天正元年(1573年)、刀禰坂の戦い(一乗谷城の戦い)を経て義景は一乗谷を放棄。逃亡先で自害を余儀なくされ、越前朝倉氏は滅亡します。

一乗谷には朝倉から織田についた前波吉継(桂田長俊)が守護代として入りましたが、天正2年(1574年)の越前一向一揆により討死。一揆平定後の天正3年(1575年)、柴田勝家が北ノ庄城を築城し越前の首都機能が移転したことにより、一乗谷城は廃城となりました。

北ノ京の拠点、一度も戦に使われなかった城

一乗谷城を冠し、越前朝倉氏の拠点となった一乗谷は北ノ京と称される繁栄を誇りました。

戦乱を逃れて多くの文化人が居住したこと、独自交易で貴重な海外製品を入手するルートを持っていたことなど、文化・経済が充実する基盤が整っていました。

朝倉氏最後の当主といえる朝倉義景は武人としてよりも文人としての印象が強く、実際に作戦行動においては積極性を見せなかったとされています。

結果論としては越前朝倉氏の滅亡を目の当たりにしましたが、統治者としての同時代の評価は決して低い物ではありませんでした。 滅亡にあたり、一乗谷そのものは一時戦場になったものの、一乗谷城本体は一度も実戦を経験しなかった城としても知られています。

まとめ・略年表

鉄壁の防御力をもっていたはずの一乗谷城でしたが、家臣の造反や離反により、むしろ内部から守る力が失われていったという印象を受けます。

一乗谷の山城本体が戦場になることなく陥落したのも、そんな悲劇を象徴しているかのようです。 文化を愛し、平和を希求したであろう朝倉義景の哀しみに、思いを馳せてみるのもよいのではないでしょうか。

※参考:略年表

  • 文明3年(1471年) 朝倉敏景により、一乗城山上に築城(諸説あり)
  • 明応8年(1499年) 室町幕府第10代将軍・足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪
  • 永禄10年(1567年) 室町幕府第15代将軍となる足利義昭(当時:義秋)が朝倉義景を頼り、一乗谷に来訪
  • 元亀年間(1570~73年) 織田信長の侵攻に備え、一乗谷城に約140条の竪堀を構築
  • 元亀3年(1572年) 朝倉家奉行衆の前波吉継(桂田長俊)が造反、織田信長陣営につく
  • 天正元年(1573年) 刀禰坂の戦い(一乗谷城の戦い)で朝倉義景が敗北、一乗谷を放棄
  • 天正2年(1574年)  越前一向一揆により一乗谷城が攻略。信長により越前守護代となっていた桂田長俊は討死
  • 天正3年(1575年)  柴田勝家が北ノ庄城を築城。一向一揆平定後に越前の拠点となり、一乗谷城は廃城に
  • 昭和5年(1930年) 地上部露出の庭園が国の名勝に指定
  • 昭和42年(1967年) 庭園整備事業と発掘調査により、朝倉氏時代の庭園が発掘される
  • 昭和43年(1968年) 城館整備の調査により、重要遺構が相次いで発見。全面発掘が決定される
  • 昭和46年(1971年) 山城を含む城域約278ヘクタールが国の特別史跡に指定
  • 昭和46年(1972年) 史跡公園としての整備を目的とした本格調査を福井県が開始
  • 昭和56年(1981年) 出土品等を展示する一乗谷朝倉氏遺跡保存資料館がオープン
  • 平成3年(1991年) 館跡・湯殿跡・諏訪館跡・南陽寺跡の四つの庭園が国の特別名勝に指定
  • 平成7年(1995年) 朝倉氏時代の城下町並みが200メートルにわたり復元される
  • 平成16年(2004年) 豪雨による水害で、以降の一部及び資料館が浸水
  • 平成18年(2006年) 日本城郭協会により日本100名城に選定
  • 平成19年(2007年) 出土品2343点が国の重要文化財に指定
  • 平成20年(2008年) 刀装具の鋳型37点の出土を発表
  • 平成22年(2010年) 16世紀のガラス工房およびガラス玉の出土を発表
  • 令和元年(2019年) 国立文化財機構・奈良文化財研究所との共同研究を発表

【参考文献】

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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