【静岡県】興国寺城の歴史 謎に包まれた北条早雲旗揚げの城

興国寺城跡
興国寺城跡
 静岡県沼津市にある興国寺城(こうこくじじょう)といえば、あの北条早雲こと伊勢新九郎盛時(宗瑞)が旗揚げした城として知られています。筆者も何度かこの城を訪れたことがあり、戦国の気風あふれる素晴らしい城郭だと感じたものです。

 この興国寺城は、伊勢新九郎が築いたものと古くから伝えられてきました。しかし歴史研究が進むにつれて疑義が持たれるようになり、新九郎が築いた城は別の場所にあったのでは?という説まで出てきました。

 そんな興国寺城の謎をひも解きつつ、歴史的な経緯をご紹介していきましょう。

伊勢新九郎が築いた興国寺城はどこにあったのか?

 まず、これまでの通説から見ていきましょう。駿河守護・今川義忠が、遠江で横地・勝間田の残党によって討たれたのが、文明8年(1476)のこと。その直後から義忠の遺児・龍王丸(のちの今川氏親)と、小鹿範満の間で後継者争いが勃発しています。

※参考:今川家の家督争い
※参考:今川家の家督争い

 当時、室町幕府の申次衆を務めていた新九郎(北条早雲)は、自身の姉・北川殿が義忠の正室だったことから、甥・龍王丸の支援に動きました。やがて範満を討った新九郎は功績を称され、富士郡下方12郷を与えられたといいます。そして自らの本拠として築いたのが興国寺城でした。

 その後、出家して「宗瑞」と号した新九郎は、伊豆・堀越公方の内紛が起こった時、興国寺城から出陣して足利茶々丸を攻めたと伝わります。後年には相模へ攻め入り、戦国大名・北条氏の基礎を築き上げました。

 ここで新九郎が興国寺城を築いたという史料を引用してみましょう。

「始興国寺と云精舎ありしを、鳥ヶ谷へ遷し、其跡に城を構へしと云。当城は今川氏親の時、伊勢新九郎長氏に命じて居城せしむ」

 これは文久元年(1861)に、新宮高平が編纂した地誌『駿河志料』に記された内容です。興国寺という寺院を別へ移し、その跡地に城を築いたとあります。ただし『駿河志料』は幕末に書かれたもので、地域の古文書や伝承をそのまま丸写ししたに過ぎません。

 次に、北条氏5代にわたる事績を記した『北条記』です。

「新九郎…富士郡下方庄を給りて、高国寺の城に在て、長禄二年十月韮山へ移りける」

 『北条記』は編纂時期が比較的古い史料ですが、異本も多く、成立経緯についても研究が進んでいません。また筆者の立場が不明であり、かなり脚色があると考えられています。いわば軍記物語の域を出ない史料だと言えるでしょう。ちなみに新九郎が生きていた時代、一次史料に「興国寺」あるいは「高国寺」といった文言は見当たりません。15世紀半ばに、駿河東部が今川氏の領国下になって初めて見えるようになります。

 もし新九郎が興国寺城を築いていないのであれば、いったいどこを本拠にしたのでしょうか? そのカギは、伊豆江梨郷を領する鈴木氏の古文書にありました。そこには次のように記され、駿河の西端にあたる石脇城(現在の焼津市)が新九郎の本拠だったのでは?という説が注目されているのです。

「早雲寺殿様、駿州石脇御座候」

 また、江戸時代後期の書物『駿国雑志』によると、龍王丸を擁護する新九郎が、山西の石脇城へ入ったことが記されています。やはり新九郎は興国寺ではなく、違う場所に城を築いたのでしょうか。

興国寺城は今川義元によって築かれた!?

 ここで興国寺城について、初見となる一次史料をご紹介しましょう。

「興国寺の敷地についてだが、城を構えるにあたって蓮光寺を廃絶させ、その代わりとして寺号を真如寺と改めること。その後は善得寺の末寺として、長く寄進することを約束しよう。今後もお勤めを励むように」

 これは天文18年(1549)に今川義元(氏親の子)が発給した判物です。もともと興国寺という寺院があり、その場所に城を築くため、寺を別の場所へ移転させることを示しています。また、替地として蓮光寺を廃絶させ、改めて真如寺とすること。寺領から得る米や銭は、興国寺時代と同様に寄進させるという内容です。

 「城を構える」という記述から見ても、これは城の改修や増築ではなく、新たに築城すると考えたほうが妥当でしょう。つまり義元が築く以前は、そこに城はなかったことが示されているのです。

 最近になって、宗瑞が興国寺城を拠点としたのは、長享元年(1487)ではなく、明応2年(1493)の伊豆侵攻の直前だったのでは?という説が出てきています。そうなると、宗瑞が興国寺城を拠点にした可能性も見えてくるでしょう。伊豆へ討ち入るにあたり、興国寺城を前進基地とするためです。


 ただし、義元の判物にあるとおり、興国寺城の築城は天文18年のこと。それ以前は寺院しかなかったわけですから、宗瑞が入ったのは興国寺そのものだったのかも知れません。当時の一般的な寺院は、堀があって塀が高く、まるで方形城館のような佇まいでした。宗瑞は興国寺の堅牢な造りに目を付け、そこを拠点に選んだ可能性は否定できないのです。

興国寺城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

城主が次々に入れ替わった戦国時代

 天文23年(1554)、今川氏・武田氏・北条氏による三国同盟が締結され、興国寺城は今川氏による支配が続きました。

三国同盟は三家による婚姻同盟だった
三国同盟は三家による婚姻同盟だった

 しかし、桶狭間の戦い(1560)で今川義元が信長に討たれた後、今川氏は没落の一途をたどっていき、永禄11年(1568)には武田信玄が同盟を破棄して駿河今川領へ侵攻すると、周辺一帯は争奪戦の舞台となります(駿河侵攻、1568~70年)

 北条氏康は、今川氏を支援するべく駿河東部へ出兵し、興国寺城を含む諸城を占領しました。一方で武田信玄もたびたび駿河今川領へ侵攻し、興国寺城においても大規模な戦いがあったようです。この時、城主・垪和氏続をはじめ、北条方の諸将が奮戦したことで、武田軍を幾度も撃退したといいます。

今川滅亡(1568年)直後の各勢力の関係
今川滅亡(1568年)直後の各勢力の関係

 しかし、北条方は徐々に蒲原城が落城する等の劣勢を強いられていきます。さらに元亀2年(1571)に氏康が亡くなって氏政が跡を継ぐと、外交政策を転換。一転して武田氏と和睦を結ぶのです。程なくして北条勢が駿河から撤退したことで、興国寺城は武田氏の管理下に置かれることとなりました。

 その後、しばらくは武田氏の支配が続くものの、上杉氏の後継者争いとなった御館の乱(1578)をきっかけに、武田氏と北条氏の関係は断裂。互いに睨み合うようになりました。そこで武田勝頼は最前線に三枚橋城を築き、興国寺城は後方支援基地としての役割を果たしています。ただし、北条氏の侵攻が懸念されたことから、根方街道沿いにあった天神ヶ尾砦の城門を移築するなど、興国寺城はそれなりに強化されたようです。

 そして天正10年(1582)3月、織田・徳川、さらに北条の攻撃を受けた武田氏が滅亡。戦後の論功恩賞において、徳川家康に駿河国の大半が与えられたことで、興国寺城も徳川の支配下となります。以前から徳川氏へ通じていたという旧武田家臣の曽根昌世(そね まさただ)は、かつて武田時代に興国寺城を務めていたこともあり、そのまま城主として興国寺城と所領を安堵されました。

 それからまもない同年の6月、織田信長が本能寺の変でこの世を去ると、織田家が支配してまだ日が浅い旧武田領(甲斐・信濃・上野)は大混乱に陥り、周辺大名による争奪戦が勃発します(天正壬午の乱)

天正壬午の乱(1582年)のイメージ図
天正壬午の乱(1582年)のイメージ図

 乱は最終的に北条 vs 徳川の様相を呈し、最終的に和睦が成立して終息。再び駿河国にも平穏が訪れることになります。興国寺城はこの頃に曽根昌世が出奔したことで、牧野康成が城主となりますが、すぐに松平清宗が城主となっています。

 ところが天正18年(1590)、小田原攻めによって北条氏が滅亡すると、天下人・豊臣秀吉の命令で徳川家康は関東へ移封となり、代わって駿河には豊臣系大名の中村一氏が配置されました。

 この時に一氏は駿府城を本拠とし、三枚橋城に弟の中村一栄、興国寺城には重臣・河毛重次を置いています。当時の記録は少ないのですが、重次は大泉寺や桃沢神社に安堵状を発給するなど、領内の統治に努めていたことがわかります。

興国寺城の構造と変遷

 ここで興国寺城の縄張りを見てみましょう。まず城は愛鷹山南麓の尾根先端に位置し、東海道へ延びる竹田道及び根方街道の交差点にありました。つまり街道の要衝を抑えることを意味しています。

 また江戸時代中期以降に描かれた『駿州真国寺古城図』によれば、「蓮池」や「深田足入」といった記載があり、三方を低湿地が囲む要害の地だったようです。

 ちなみに城の構造は、本丸・二の丸・三の丸・北曲輪・清水曲輪から成る連郭式城郭で、石垣や石積みなどはあまり認められず、土を削って堀と成し、残土を土塁として積み上げる「掻き上げの城」でした。

興国寺城の縄張図(『駿国雑志 8冊』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
興国寺城の縄張図(『駿国雑志 8冊』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 たしかに「伝天守台跡」と呼ばれる高まりがあるものの、往時に天守が存在していたわけではなく、せいぜい櫓があった程度でしょう。なぜなら建造物の基礎となるべき礎石が少なく、重層的な建造物がなかったことを示すからです。

 また、城跡からは瓦が一点も出土していないため、板葺き屋根の建造物があったと推測されています。おそらく今川義元が築いた初期には、本丸を中心とする曲輪しか存在せず、城主が代わるたびに南へ城域を広げたものと考えられます。

 元亀2年(1571)以降に武田氏が入ると、二の丸が整備されて三日月堀が造られました。さらに三の丸が築造されるなど、城は拡張を続けていきます。おおむね興国寺城が完成するのは、徳川氏の家臣・天野康景(あまの やすかげ)が城主になった頃でしょう。

 そんな興国寺城を特徴付けるのが膨大な土木量です。自然地形を巧みに生かすとともに、深さ10メートル以上の巨大な空堀が要所を遮断しています。とりわけ本丸と北曲輪を仕切る空堀は壮大で、見る者を圧倒するのは間違いありません。決して高低差のある城ではありませんが、巧みに配置された土塁や空堀によって、見事に弱点をカバーしていると言えるでしょう。

江戸時代初期に廃城となる

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、東軍に属した中村氏は伯耆へ移封となりました。代わって興国寺城には、徳川氏の家臣・天野康景が配され、1万石の大名となっています。

天野康景
天野康景

 康景は「どちへんなし」の異名で知られ、どちらにも偏らない公平な政治を目指しました。領内の整備に努め、藩政の安定に力を尽くしたそうです。しかし生真面目な性格ゆえに改易となってしまいます。

 慶長12年(1607)のこと、興国寺城を修繕するため、城外に蓄えていた材木が盗まれるという事件が起こりました。不審に思った康景は、家臣に命じて見回りをさせたといいます。そんなある夜、盗みを働く者を見た家臣が、制しきれずに数名を斬るという事件へ至ったのです。

 後日、盗人たちが天領の農民だったことがわかり、幕府は領民を斬った者の引き渡しを求めてきました。ところが康景は幕府の措置を許すことができなかったようです。そもそも家臣は藩の資材を守ろうとしただけであり、幕府の公民を斬ったからといって罰せられるいわれはありません。幕府のやり方は筋が違うとして断固拒否したのです。

 事態が収拾せぬまま、康景は抗議の意味を込めて出奔。城も藩領も放棄して、相模の西念寺へ蟄居してしまいました。こうなると藩は改易とならざるを得ず、興国寺城はそのまま廃城となっています。その後、城跡は農地となって改変が進み、多くの遺構が失われたのです。

おわりに

 伊勢新九郎(北条早雲)旗揚げの城として知られる興国寺城ですが、実際に城としてスタートしたのは、彼の死から30年が経ってからのことでした。

 駿河と伊豆の国境に位置したことで争奪戦の舞台となり、城主がめまぐるしく変わっていく中で、その規模や構造は大きく変化していったのです。現在、多くの歴史ファンが訪れる史跡となっており、戦国の息吹を感じる遺構の数々を楽しませてくれます。

 この記事では、石垣がほとんど検出されなかったと書きましたが、実は令和2年(2020)に伝天守台南面において、自然石を用いた石垣が発掘されています。今後、発掘調査が進んでいく中で、さらに新しい発見があるかも知れませんね。

補足:興国寺城の略年表

出来事
長享元年
(1487)
伊勢新九郎が今川氏親を当主に据え、興国寺に在城する。
明応7年
(1498)
伊豆平定が成り、伊勢宗瑞が興国寺城から韮山城へ本拠を移す。
天文6年
(1537)
北条氏綱が駿河東部へ侵攻し、河東地方を制圧。
天文14年
(1545)
今川氏と結んだ武田晴信が駿河東部へ侵攻。河東地方は今川氏の勢力下となる。
天文18年
(1549)
今川義元が城郭普請のため、興国寺を移転させる。
天文19年
(1550)
興国寺城が本格的な城として築かれ、義元が検分する。(甲陽日記)
天文21年
(1552)
義元、興国寺城普請の功を労い、棟別銭などを免除する。
永禄11年
(1568)
武田信玄が駿河へ侵攻。北条氏康も駿河へ進出し、興国寺城などを制圧する。
永禄12年
(1569)
武田信玄が再び駿河へ侵攻。興国寺城を攻めるも撃退される。
元亀3年
(1572)
武田の重臣・穴山梅雪が、配下の保坂掃部に興国寺城を守らせる。
天正8年
(1580)
天神ヶ尾砦の門が興国寺城へ移築される。
天正10年
(1582)
曽根昌世が徳川氏に通じ、興国寺城と所領1万貫を与えられる。
同年牧野康成、次いで松平清宗が興国寺城主となる。
天正18年
(1590)
中村一氏が駿河を与えられ、河毛重次が興国寺城主となる。
慶長6年
(1601)
天野康景が興国寺城を与えられ、1万石の大名となる。
慶長12年
(1612)
康景が出奔し、相模の西念寺へ逐電。興国寺城は廃城となる。


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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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