【解説:信長の戦い】一乗谷城の戦い(1573、福井県福井市) 刀根坂での大敗が響いた?朝倉滅亡へ
- 2023/11/02
天正元年(1573)8月、織田信長が朝倉氏を滅ぼしたのが一乗谷(いちじょうだに)城の戦いです。一乗谷といえば越前朝倉氏の本拠地ですが、一番の激戦が行われたのは一乗谷ではありません。近江から一乗谷、さらに別の場所へと逃げに逃げた朝倉義景を追い詰めたのは、まさかの身内でした。
合戦の背景
織田と朝倉の戦いがはじまったのは、元亀元年(1570)年の金ヶ崎の戦いです。このときは途中で信長と同盟関係にあった浅井長政が裏切り、織田軍は撤退しています。その後、信長はすぐに報復にでて同年6月に姉川の戦いが勃発。浅井・朝倉連合軍は信長に敗れましたが、その敗北は“致命的”と言えるほどではありませんでした。その証拠に、9~12月の志賀の陣では信長を追い詰め、持久戦に持ち込んでいます。その後もしばらく、両者の対立は続きました。
この頃は信長と将軍足利義昭が不和となり、義昭を中心とする反信長勢力が構築されていました。いわゆる「信長包囲網」です。浅井・朝倉氏のほか、武田信玄や本願寺勢力、比叡山延暦寺などの多くが信長を苦しめました。
しかし、元亀4年(1573)に入って大きな変化が訪れます。4月には反織田の最大勢力だった武田信玄が突如病死。これをきっかけに信長は反撃に転じ、7月の槇島城の戦いで将軍義昭を京都から追い出し、ここに約240年続いた室町幕府を滅ぼすのです。
信長は8月4日に本拠・岐阜城へと戻りますが、4日後に浅井氏の配下にあった山本山城主の阿閉貞征(あつじ・さだゆき)が、信長方に寝返ったという報せが届きます。これを浅井攻めのチャンスと捉えた信長は、その日の夜のうちに岐阜を出発するのです。
小谷城を中心に織田・朝倉両軍がそれぞれ布陣
8月10日、約3万という大軍勢の信長軍が浅井氏の居城である小谷城下へと到着。一方で朝倉義景も浅井長政から援軍の要請を受けて、約2万の兵(5・6千との見方も)を率いて小谷城の救援に向かいました。信長は小谷城周辺に軍勢を集めると同時に、その北西に位置する山田山にも兵を集結させ、その西の高月に本陣を構えました。
信長は朝倉の救援軍が向かってくることを事前に察知していたようです。山田山は小谷城を見下ろせる場所にあり、ここを取ることで義景を小谷城へと近づかせないようにしたのです。
信長軍の布陣が終わると間もなく、義景軍が余呉・木ノ本(いずれも現滋賀県長浜市)付近に着陣しました。また、義景軍は本陣の他に、小谷城と峰続きの大嶽砦(おおずくとりで)とその麓にある丁野山砦(よおのやまとりで)にも兵を置いていました。
ちなみにこの頃、浅井方の家臣の離反が相次いだようです。まず月ヶ瀬城が開城となり、続いて12日には大嶽砦の麓にある焼尾城の浅見対馬も信長に降伏して織田方の城となっています。
8月13日の「刀根坂の戦い」で朝倉軍は壊滅状態に
そして大雨となった8月12日の夜、信長が仕掛けます。自ら少数の兵を率いて大獄砦に夜討ちを仕掛けて陥落させると、翌13日には丁野山砦も簡単に降伏させ、山田山にいる家臣たちに「朝倉が退くのを見たら追撃せよ」という指令を出すのです。
信長はこの時点で「義景軍は越前へ逃げるだろう」と推測していました。義景の戦いっぷりを、これまでに見てきましたからね。指令は再三出されたので、信長には確証があったのでしょう。指令を受けた当の家臣たちは、半信半疑だったようですが……。
13日夜中になると、義景軍は信長の想定したとおりに撤退を始めます。信長は馬廻を引き連れ、いち早く義景軍を追いましたが、一方で油断をしていた家臣たちは、すぐには義景軍を追撃できませんでした。その後、家臣たちは信長に激怒されますが、その中で佐久間信盛だけが思い上がった弁明をして火に油を注いだ話は有名ですね。
それはさておき、木ノ本近くの地蔵山で家臣たちは、なんとか信長と合流します。そして刀根坂(現福井県敦賀市)の地で、義景軍に追いつきました。一乗谷の戦いで激戦が繰り広げられたのが、この「刀根坂の戦い」です。
追撃を逃れようとする朝倉軍に対し、一方的に攻勢を加える織田軍。一度退却した朝倉軍はもはや統制もとれず、まともに戦える状況ではなかったようです。
その結果、朝倉軍の主だった武将(朝倉景氏・朝倉景冬・朝倉景行・山崎吉家・鳥居景近・託美(たくみ)越前守・印牧(かねまき)弥六左衛門など)が討ち取られます。『信長公記』によると、信長軍が討ち取った敵の首は3千を超えたとか。
ちなみにこのときの戦いで、浅井長政は朝倉の救援に向かっていません。どうやらそんな余裕はなかったようです。その後の信長はそのまま勢いを保って越前国に侵入し、14日に敦賀城を難なく陥落させています。
一方で義景は、15日に一乗谷にまで退却しますが、迎えた家臣たちの少なさに「もはやこれまで」と自刃しようとしたとか。いかに刀根坂での惨敗が大きかったのかが伺えますね。
義景、同族の裏切りで最期を迎える
その後、信長はそのまま勢いを保って越前国に侵入し、敦賀城を難なく陥落させると、8月17日には木ノ芽峠(現福井県敦賀市・南条郡南越前町)を越えます。3年前の金ヶ崎城の戦いでは浅井長政の裏切りにより、越えることのできなかった峠です。18日には越前府中(現福井県武生市)にまで進み、龍門寺に着陣。柴田勝家に対し、朝倉氏代々の本拠地・一乗谷に進撃することを命じました。
一乗谷は信長方によって焼き払われ、三日三晩にわたって燃え続けたといいます。しかも焼き払ったのは、義景が頼りにしていた平泉寺(へいせんじ)の衆徒でした。彼らも信長の圧力に屈したようです。
一方、義景は一乗谷を捨てて大野郡山田庄(現福井県大野市)へと逃れました。当然勝家や美濃三人衆らは義景の後を追っています。ところが最終的に義景を追い詰めたのは、織田軍ではなく、身内である朝倉景鏡(かげあきら)でした。
景鏡は義景のいとこにあたり、朝倉家臣の中で最も力を有していた人物です。そもそも彼は一乗谷の戦いへの参戦を拒否していました。拒否の理由は「疲れていたから」といいますが、そんなんアリなのでしょうか? この時点で、すでにおかしい気が……。
そして彼は義景に六坊賢松寺(ろくぼうけんしょうじ/景鏡の館の近く)へと逃げるよう進言します。そこで再起を図りましょう、と。義景は景鏡に保護を求めるため、六坊賢松寺に入りました。
すると8月20日の早朝、景鏡は六坊賢松寺を200余騎でもって包囲。もはや鮮やかな裏切りですね! 義景、見事に誘い込まれました。もはやこれまでと悟った義景は、自刃してその生涯を閉じたのです。
おわりに
逃げに逃げ、裏切りに次ぐ裏切りを受けた朝倉義景。最後まで彼につき従ったのは、わずか十数名だったと言われています。はぁ……なんともやりきれない。その後、景鏡は義景の首を信長の本陣に差し出し、さらに義景の母とまだ幼い嫡男・愛王丸を探し出して殺しています。まさに戦国時代といったエピソードですね。
朝倉孝景以来、斯波(しば)氏に代わり、越前の守護を代々務めてきた朝倉氏はこうして滅亡したのです。なお、その後は息つく暇もなく浅井氏も攻め込まれ、瞬く間に滅んでいます。恐るべし、信長。
【主な参考文献】
- 水藤真『人物叢書 朝倉義景』(吉川弘文館、1986年)
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』(中公新書、2014年)
- 加唐亜紀『ビジュアルワイド図解日本の合戦』(西東社、2014年)
- 矢部健太郎『超ビジュアル!歴史人物伝 織田信長』(西東社、2016年)
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