「於大の方」天下人となった家康の母は、実家に翻弄され続けた人生だった!

於大の方(伝通院)の肖像(出典:wikipedia)
於大の方(伝通院)の肖像(出典:wikipedia)
近年「親ガチャ」なる言葉が使われていますが、戦国時代はある意味、最も激しく「親ガチャ」が行われた時代かもしれません。そもそも満足に衣食住さえ用意できない場合もあれば、親族同士で骨肉の争いをする家に生まれる場合もありました。

徳川家康はそうした家に翻弄されながら天下人になりました。祖父は殺され、母は幼い頃に生き別れとなり、父は襲われた傷の影響もあって早死にしています。しかし、「家に翻弄された」という意味では、家康の母である於大の方(おだいのかた)の人生こそ、まさにそうでしょう。

戦国時代の女性は総じて家の意向に振り回されるものですが、晩年を除いて、なかなかままならない日々を過ごしていたのが於大の方です。天下人の母でありながら、その人生は苦労の絶えないものでした。今回はそんな彼女について、当時の記録を元に考察していきたいと思います。

出身は尾張と三河の国境の領主「水野氏」

 於大は享禄元年(1528)に緒川城(愛知県知多郡東浦町)で誕生しました。

父は水野忠政で母は華陽院と伝えられています。華陽院は三河の大河内氏か尾張の宮津氏、または青木氏の出身と言われていますが、定かではありません。

於大の出身である水野氏は、愛知県知多半島の付け根にあたる地域を支配していた国人領主です。清和源氏八島氏流(尾張源氏、源満政の子孫)と伝わり、『寛政重脩諸家譜』では源頼朝に仕えた小河重清が春日井郡山田庄に移った際に”水野”を名乗るようになったと記されています。

当時の水野氏は尾張国南部と西三河に勢力をもち、松平氏と並ぶほどの力を誇っていました。父の水野忠政は佐治氏との対立もあって、松平清康や今川氏系の国人領主との連携を強くしています。事実かどうかはともかく、忠政は対立関係にあった松平清康と和睦したときに、妻の華陽院を清康に譲り渡した(再嫁)といい、このときに於大も母につき従ったといいます。

天文10年(1541)には、娘の於大を清康の子(松平広忠)に嫁がせました。於大が満13歳、松平広忠が満15歳のときです。松平広忠の母も青木氏の娘と伝わっているので、2人は青木氏を通じた血縁関係だった可能性もあります。

 天文11年(1542)、広忠と於大の間に生まれたのがのちの徳川家康です。しかし翌年、水野氏では当主の水野忠政が亡くなり、於大の兄・水野信元が当主になったことで、於大の運命に大きな変化がもたらされることになります。

※参考:織田・水野・松平関係略系図
※参考:織田・水野・松平関係略系図

夫と離縁、家康と離れ離れに…

 当主となった頃の水野信元は20歳前後と見られ、正室は桜井松平氏の松平信定の娘です。忠政の死により、水野氏はこの桜井松平氏の影響が強くなったと考えられます。信定の娘は母が織田信秀の妹ですので、水野信元の正室と織田信長は従兄弟同士だったということになります。

 この結果、水野氏は天文13年(1544)中に親今川から親織田へ外交姿勢を変化させました。それに伴い、広忠は於大を離縁しています。これは松平氏からすれば水野氏の明確な裏切りであり、松平・水野間の同盟関係が破綻したと考えられています。

 当時の松平広忠の情勢は相当厳しいものでした。広忠自身も清康暗殺後、一時は本国の三河を追われていることからもわかるように、勢力維持のために今川氏を頼らざるを得なかったのです。水野氏が織田氏に付いたため、おそらく広忠は今川氏を憚り、於大と離縁せざるを得なかったのでしょう。

 ちなみに近年では水野氏との同盟を主導した叔父の松平信孝を追放したことが引き金になったという説も有力ですので、その場合は離縁原因は広忠ということになります。

 時代の流れに夫婦・親子間を引き裂かれ、離縁後は実家の水野家に戻ったという於大。椎の木屋敷と呼ばれる邸宅で日々を過ごしたと言われています。於大が家康を大切にしていたことは家康誕生の2か月後、三河妙心寺に薬師如来の銅像を奉納していることからも明らかであり、失意のどん底にいたことは想像に難くありません。

再婚、そして家康との再会

 於大は離縁当時は満16歳であり、そのまま生涯を終えるにはあまりにも若すぎます。そこで水野信元の意向もあり、天文19年(1549)前後に知多半島の領主・久松長家と再婚となりました。

 久松氏は知多半島で水野氏と敵対する佐治氏と勢力争いをしていた一族です。元々、水野・久松両家は別の水野氏の女性が嫁いで関係を強化していましたが、その女性が亡くなったので、お互い2度目の結婚という形になったのです。

 於大は天文21年(1552)に次男康元と三男康俊を、天文22年(1553)に多劫姫を、永禄3年(1560)に四男定勝を産んでいます。なお、この間に水野氏は勢力を拡大する今川義元に圧迫されており、天文18年(1549)に安城城が今川氏に占領されると、一時は今川氏に従属しています。しかし、天文23年(1554)の今川と織田による村木砦(愛知県知多郡村木)の戦い以降、水野氏は信長の協力を強く受けるようになっていきます。

 久松氏も尾張・三河国境で水野氏と連携していたと考えられます。一方、於大は家康と交流がなかったわけではないようです。定期的に家康に手紙を送っていたと見られているからです。

家康幼少期の松平氏と三河の要所マップ。桶狭間の戦い(1560年)の頃の対立構図は「織田・水野・久松氏」VS「今川・松平」

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いによって、於大も大きく運命が変わります。このときに於大が家康と再会したエピソードがあります。

19歳となった家康が今川軍に従軍した際、ひそかに久松長家の阿古屋城を訪れ、長家は母子の体面を許可し、於大との間に生まれた3人の男児を家康に引き合わせたとか。そして家康は、「のちに三河を統一した際には、弟らを呼び寄せてともに働きたい」と言い、於大を慰めたとか。

 戦後、今川義元の死によって家康が独立すると、久松長家は於大との縁からこれを全面支援、家康の配下に加わりました。永禄4年(1561)に家康が鵜殿氏の本拠・上ノ郷城を落とした際には、同城のその後の守備を任せられています。このため、於大も上ノ郷に移住しています。

かつては今川家臣・鵜殿氏の本拠城だった上ノ郷城跡(出典:wikipedia)
かつては今川家臣・鵜殿氏の本拠城だった上ノ郷城跡(出典:wikipedia)

 上ノ郷で生まれたのが永禄8年(1565)の松姫と永禄12年(1569)の於きんの方です。家康は於大の子どもに松平を名乗らせて一門にしており、元服時も自身の「康」の字を偏諱として与えています。次男康元は永禄5年(1562)には上ノ郷城主となり、三男康俊は永禄6年(1563)に今川氏真と和睦で人質として駿府入りしています。康俊は武田氏の駿府侵攻で甲府に人質として連れ去られますが、元亀元年(1570)に家康の手配で三河に戻ることに成功しています。

 なお、一説には於大は今川家を恨んでいたといわれています。最初の夫・松平広忠との離別や、家康を人質にしていたことなどが理由かと思われます。また、家康の正室・築山殿の名の由来は、岡崎城外の「築山」という場所に館を与えられていたとされており、これは築山殿が今川家の血をひくゆえに、於大から疎まれていたからだといいます。

兄が信長に討たれる

 天正3年(1575)の長篠の戦いでは、子の松平定勝が参戦していることが確認されています。長篠の戦いは織田・徳川連合軍の大勝利で終わりましたが、このことで於大の兄・水野信元の存在が難しいものになっていきました。

 当時の水野信元は『織田信雄分限帳』における収入から、12万石(一説に24万石)ほどの領地を有していたと推測されています。これは織田家中や徳川家中で最大勢力の1つといっていい領地でした。家康家臣で最強と称された本多忠勝が関ケ原の戦い後に伊勢桑名10万石です。同じ時期の秀吉も近江長浜で14万石ですので、国人領主出身としてはかなり強大でした。

 水野氏は織田・徳川双方に血縁をもち、両者の国境を有する有力者でした。織田家臣ながら三河にも影響力がある水野氏は両者にとって邪魔な存在になりつつありました。武田氏が長篠で大敗した以上、三河と尾張の直接支配をしたい信長と家康が結託して水野信元を排除した可能性は高いと言えます。

 いずれにせよ、天正4年(1576)に水野信元は謀反の動きありとして養子の信政とともに殺害されました。この際、事情を知らずに久松長家は信元捕縛時の案内役をやらされたとして、抗議の意味をこめて隠居してしまいます。長家が隠居したため、於大は家康のいる浜松に身を寄せました。

 水野信元はのちに冤罪だったとして罪が許され、末弟の水野忠重を当主として旧領が回復されています。この際の領地と同じものが『織田信雄分限帳』に残されています。

晩年

 その後、小牧・長久手の戦い(1584)の後に息子の定勝を秀吉の元に差し出す話に、於大は強く反対しています。この結果、結城秀康のみが人質として養子入りするのみに留まっています。

 浜松に滞在中の天正15年(1587)には夫の久松長家が病死。於大は俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して尼になりました。「伝通院」と号して隠居生活を送り、慶長7年(1602)8月28日に伏見城で亡くなりました。

 この年は豊臣秀吉の正室・高台院や後陽成天皇にも拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏と豊臣氏が対立することはないことを確認しています。しかし、於大と高台院の目指した形は実現せず、大坂の陣で豊臣秀頼が亡くなって秀吉の血は途絶えたのでした。

おわりに

 家康は江戸幕府を築き、約250年の天下泰平を成し遂げました。久松長家に嫁いでからの子どもたちはそれを支える一族となっていきました。

 次男の康元は関宿藩2万石を任され、関ヶ原の合戦中は江戸城の留守居役を任されています。康元の子孫は一時大垣や小諸で5万石を任されたものの、無嗣断絶などもあって明治維新時には6000石の旗本となっています。

 四男の定勝は遠江掛川藩・山城伏見藩などの要所を歴任し、最後は伊勢桑名藩11万石で事実上の大老として活動しています。定勝は2代将軍である徳川秀忠の相談役もしており、その子孫は伊予松山藩15万石を任されて明治維新を迎えています。

 多劫姫は松平忠正に嫁いだ後その弟の忠吉へ再嫁し、2人に先立たれた後は保科正直に嫁いでいます。それぞれの家で子どもを作り、その子たちは様々な藩の血に受け継がれています。

 松姫は松平康長に嫁ぎましたが、天正16年(1588)に亡くなっています。於きんの方も松平家清に嫁いでいますが、2人目の出産時に死去しました。

 於大が嫁いだ久松氏の領地だった阿久比町には、桶狭間の前夜に家康と於大の方が敵味方ながら再会したという言い伝えがあります。ほぼ間違いなく創作でしょうが、2人の間に細々と交流が続いていたのは事実と見られています。

 周囲の状況に振り回され、我が子と離れ離れになったり兄を失ったりした於大の方。時代の荒波に翻弄され続けながら、四男定勝のように我が子のためには苦言も呈した家康の母は、どの子にも深い愛情を注いだ人物だったのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 『岡崎市史』(2002年)
  • 『蒲郡市誌』(1972年)
  • 『知多郡史』(1923年)
  • 『姓氏家系大辞典 第5巻』(国会図書館デジタルアーカイブ)
  • 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
  • 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)
  • 阿久比町HP 於大の方昔話
  • 歴史読本編集部 『物語 戦国を生きた女101人』(KADOKAWA、2014年)
  • 小和田 哲男 『詳細図説 家康記』(新人物往来社、2010年)

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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