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  • 徳川家康
 2019/02/18

「於大の方」時代に翻弄されながらも生き別れた我が子を思い続けた家康の生母

於大の方の肖像画

好き嫌いではなく、政略結婚が当たり前だった戦国時代。運良く良縁であったとしてもお家の事情によって突然別れなければならなくなる…。

今回は周りの事情で結婚や離縁をさせられながらも、巡り巡って愛する我が子と再び暮らせるようになった徳川家康の生母・於大の方をご紹介します。(文=趙襄子)

実家・水野家と松平家との関係

於大の方は享禄元年(1528年)、尾張国の国人であり緒川城主の水野忠政と於富の方との間に誕生しました。

水野家は尾張国南部と西三河に勢力を持ち、同じく三河の領主・松平家と並ぶほどの力を持っていました。彼女の母・於富の方の出身はよく分かっていないのですが、とにかく美しい女性であったようです。

当時、隣国の松平家と水野家は敵対していました。そんな中、美しい於富の方を一目見て心を奪われたであろう松平家当主・松平清康は於富を譲ってもらえないか敵対関係にあった忠政に打診を計ります。忠政も両家の和睦を望んでいたのでしょう。於富を清康に譲り、領国を安定させる道を選びました。
これにより、忠政に離縁された於富は、まだ幼い於大を連れて松平清康の元へ嫁ぐことになったのです。

しかし天文4年(1535年)、清康が「守山崩れ」と呼ばれる内訌で疑心暗鬼に駆られた家臣に斬殺されると、松平家は急速に弱体化していきます。清康の嫡男・松平広忠も一時亡命生活を送ることになりますが、そこで手を差し伸べたのが因縁ある今川家でした。

今川家当主・今川義元の力添えもあり守山崩れから2年後の天文7年(1537年)には松平家累代の居城である岡崎城に帰参を果たすことができました。しかしこれにより今川家に頭の上がらなくなった松平家は今川家に従属する形で生きていくことになったのです。

松平広忠との結婚・出産・そして別れ

於富が清康と死別したことで松平家と水野家との間の繋がりが再び失われてしまいました。その状況を憂えた水野忠政は天文10年(1541年)、まだ若い広忠に目を付け、広忠と歳の近い於大を正室に送り込み、水野家の安泰を計ります。ときに於大14歳、広忠16歳でした。

そして、その翌年には広忠と於大との間に竹千代(のちの徳川家康)が誕生します。

於大は生まれたばかりの可愛い竹千代のために三河国の妙心寺に薬師如来の銅像を奉納して長寿を願いました。戦乱の世なれど親子三人安寧に生きたいとの思いもあったことでしょう。しかしまもなく悲劇は起こってしまったのです。

於大が竹千代を産んでまもなくのこと、実家の水野家では父・忠政が亡くなり、代わって異父兄である水野信元が水野家を継いでいました。その信元はあろうことか今川家を裏切り、当時新興勢力だった尾張国の織田信秀に付いてしまったのです。

今川家に従属している広忠は悩んだことでしょう。妻の実家が敵対してしまったのですから。広忠はやむなく於大を離縁することを決意します。今川氏を憚り、於大と離縁せざるを得なかったのでしょう。

こうして於大は、まだ3歳の竹千代と生き別れ、実家に身を寄せることになったのです。

再婚、そして竹千代との再会

実家に戻った於大は天文17年(1547年)、兄信元の意向により尾張国阿古居城主である久松俊勝の元に嫁ぐことになりました。夫婦仲は睦まじかったようで2人の間には三男四女が誕生しています。しかし初めて自分のお腹を痛めて産んだ竹千代は特別だったのでしょうか。危険を承知で贈り物をしたり気を配っていたようです。

風の噂では元夫・広忠も清康のように家臣に斬殺され、竹千代は後見という名目の下、人質として駿府に送られたと聞きます。そんな中、唯一の救いは母於富が竹千代の養育をしてくれていることでした。

清康を斬殺された於富は、その後何人かの三河の国人に嫁いで生き残りを計っていました。ただ、いずれも死別し、最後に頼ったのが駿府の今川義元でした。そこで於富は出家して余生を過ごそうと決めた矢先、孫が人質として送られてきたことで、義元に孫の養育を頼み込んで元服まで面倒を見たのです。

それから時は経って永禄3年(1560年)、いきなりその時は訪れました。

織田方であった久松家は今川方の侵攻に備え、ピリピリしていたそんな矢先のこと。19歳に成長していた竹千代こと松平元康が 今川軍の先陣を務めることになり、密かに阿古居城を訪ねてきたのです。

見つかれば処罰物にも関わらず、俊勝は於大のために2人の対面を許可したといいます。俊勝と於大との間に生まれた3人の異父弟と対面した元康は「のちに三河を統一した際には弟たちを呼び寄せてともに働きたい」と2人に話したといいます。そしてそれは間もなく真実となるのです。

於大の方の葛藤

元康が先陣を務めた今川軍は大軍にも関わらず、織田信秀の跡を継いだ信長の奇襲戦法により義元が討ち取られるとあっけなく瓦解してしまいました。そのどさくさに紛れ、岡崎城にて独立を果たした元康と信長を同盟させることに尽力したのは於大の方の兄・信元でした。松平元康改め徳川家康は誓いを守って於大の方や久松一族を迎え入れ、久松家は徳川一門として徳川家に尽くすことになるのです。

ですが、独立して信長と同盟を結んだといっても形式上はあくまで今川家に従属している身だった家康に於大の方は複雑な心境だったことでしょう。一説では於大の方は今川家を相当恨んでいたといいます。今川家は最初の夫である広忠と離縁させられる原因を作り、家康と離れ離れにさせられただけでなく家康を今川家の人質としていたからだそうです。そして於大の方の恨みは家康の正室である瀬名姫に対しても向かってしまったといいます。

瀬名姫は義元の姪でした。瀬名姫は築山殿とも呼ばれていましたがその訳は岡崎城内ではなく岡崎城外の「築山」という場所に屋敷を与えられていたことから於大の方が憎き今川家の血を引く築山殿を疎んで場外に屋敷を与えたという説がありますが定かではありません。

さらに悲劇は続きます。天正3年(1576年)、兄の水野信元が信長により武田家内通の疑いをかけられ家康に信元処刑の命令を出します。すでに今川家は滅亡したものの今度は信長に逆らえない家康は家臣の石川数正に命じて信元を岡崎に呼ぶとこれを謀殺しました。

この行いに激怒した於大の夫・俊勝は、家康を恨んで出奔した挙句に隠遁。兄と夫を失った於大の恨みは石川数正に向かい、さらには数正が仕える築山殿に向かったのか、3年後の天正6年(1579年)には、信長の命を受けた家康が、甲斐武田氏の内通疑惑により、正妻の築山殿と嫡男・松平信康をやむなく殺害。また、信長死後に家康と秀吉が対立した際に石川数正が秀吉に寝返った一件に於大が関与していたとする説もあるようです。

我が子・家康の元で

時は流れ、関ヶ原の戦いに勝利して天下人となった家康は、伏見城の再建を進めて於大を近くに呼び寄せました。そして慶長7年(1602年)8月、伏見城でわが子に看取られ、75年の生涯を閉じたのです。

法名は「伝通院殿光岳蓉誉智光」。家康が於大を江戸小石川の伝通院に葬ったための法名でした。




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