【福井県】越前府中城の歴史 一国一城令を生き延びた、越前の古代政庁跡!

 全国に「府中」という地名が残っていることが知られていますが、これは古代の政庁所在地である「国府」がそこにあったことを示しています。交通網や立地上の優位性から長きにわたって軍事・行政の中心地であり続け、現代にまで利用されているものも少なくありません。

 そんな府中の名を冠する城のひとつが「越前府中城」です。現在はその跡が越前市庁舎となっている、越前府中城の歴史を概観してみることにしましょう!

越前府中城とは

 越前府中城は現在の福井県越前市府中、合併前の武生市府中に所在した平城です。府中という地名が示すとおり、古代には越前国の国府が置かれ、須恵器や墨書土器などの遺物が発掘されています。

 その後も越前国守護所が設置され、戦国期に越前を支配した朝倉氏はこの府中に奉行所を置いていました。

 本格的に城郭が築かれたのは織田信長が朝倉氏を滅ぼして越前の支配権を握った後で、天正3年(1575)に前田利家の手によって築城が開始されました。

越前府中城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 その後、天正9年(1581)に利家が能登一国を拝領すると、代わりに嫡男の前田利長が府中城城主に着任します。天正11年(1583)に勃発した賤ケ岳の戦いの後には、羽柴秀吉に合力した丹羽長秀が越前を拝領。府中城を手にします。

 天正13年(1585)に長秀が没すると、代わりに木村重茲が城主となりますが、文禄元年(1592)には山城国に転封となったため、青木一矩が城主として入城します。

 慶長4年(1599)には堀尾吉晴が、徳川家康より隠居料として府中を拝領。翌年の関ケ原の戦いの勲功により、家康次男の結城秀康が越前を領有すると、慶長6年(1601)に秀康家臣の本多富正が城主に着任します。富正は前田氏時代の府中城を拡充整備し、本丸には2階構造の天守があったといわれています。

 全国の城郭がそうであったように明治維新後には破却の一途をたどり、鉄道路線や学校建設などの影響で徐々に構造物が失われていきました。現在の越前市市役所本庁舎が建っているのが府中城跡とされ、平成28年(2016)から翌年にかけてその建設のための発掘調査が実施されました。

一国一城令でも生き残った、別格扱いの城

 府中城は別名を越府城ともいい、越の国の政庁であるという意味が込められてきたことがうかがえます。また、周囲に藤の花の垣をめぐらせていたとされ、藤垣城という名でも親しまれました。

 慶長16年(1611)には徳川秀忠三女・天崇院が結城秀康の子で福井藩主・松平忠直に輿入れする際、この府中城で休息をとったことから御茶屋という愛称も伝わっています。

 慶長20年(1615)には一国一城令が発布。府中城は本来であれば廃城となるはずでしたが、本多家は大名格の御附家老という待遇であったため例外的に存続を許されました。

 御附家老とは幕府から派遣されて将軍家一門の藩主のサポートを行った役職者であり、事実上の領主相当の待遇を受けたお目付け役ともいえるものでした。

 時代とともにその権益や実態は変化していきますが、本多家は越前松平家の御附家老であったため、府中城の存続が必要とされたものといえるでしょう。

 一方で、府中城は天守そのものではなく居館が本体であったともされ、陣屋としての城郭ではなくあくまでも館であるという体裁に配慮したとも考えられています。

 また、日野川を天然の防御線として利用し、南北約180メートル・東西約100メートルという平城にしては大きな規模の堀を有していました。

 正徳元年(1711)に描かれた絵図には東側内堀の様子が記録され、さらにその外側の堀は長さ約506メートル・幅約29メートルという規格外のものでした。これは居館のサイズに比べると明らかに大きすぎ、日野川が乱流していた当時の河跡湖を堀として利用したものと考えられています。

おわりに

 冒頭でも触れた通り、府中という地名は古代の政庁があったことを示すヒントのひとつです。多くの場合、そこは陸路・水路による交通の要衝であり、ある程度の空間的広がりをもった立地条件を備えるという傾向が認められます。

 それはすなわち、戦国期の軍事拠点や近世以降の政治中枢としても適した土地であるともいえ、脈々とその立地特性が活用されてきた経緯を肌で感じることができるでしょう。

補足:越前府中城の略年表

※参考:略年表
天正3年
(1575年)
前田利家により築城
天正9年
(1581年)
前田利家が能登一国を拝領、嫡男・前田利長が越前府中城主に
天正11年
(1583年)
賤ケ岳の戦い勃発。戦後、丹羽長秀が越前を拝領
天正13年
(1585年)
丹羽長秀没。木村重茲が城主に
文禄元年
(1592年)
木村重茲が山城国に転封。青木一矩が城主に
慶長4年
(1599年)
堀尾吉晴が隠居料として府中を拝領
慶長6年
(1601年)
結城秀康の家臣・本多富正が城主に
慶長16年
(1611年)
天崇院が藩主・松平忠直に輿入れの際、府中城で休憩
慶長20年
(1615年)
一国一城令が発布されるも、府中城は特例として存続
正徳元年
(1711年)
府中惣絵図に府中城の東側内堀が描かれる
明治2年
(1869年)
府中が武生に改称
明治5年
(1872年)
府中城跡が小学校の敷地に
明治29年
(1896年)
北陸線開通工事で城内敷地に影響
明治34年
(1901年)
武生小学校が府中城跡に移転、後に同地には武生市庁舎建設
平成28年
(2016年)
越前市役所本庁舎建設のため発掘調査。翌年まで継続


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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