【兵庫県】黒井城の歴史 光秀を退けた丹波の赤鬼、赤井直正の堅城!

 覇王・織田信長がもっとも手を焼いた敵……。そのひとつに「丹波」の勢力が挙げられるのではないでしょうか。特に「丹波の赤鬼」の異名で知られる赤井直正には、丹波攻略の司令官であった明智光秀も困難な戦を強いられました。

 今回はそんな赤井直正の城、「黒井城」とその歴史にフォーカスしてみることにしましょう!

黒井城とは

 黒井城は現在の兵庫県丹波市に所在した山城で、保月城(ほげつじょう)または保築城(ほづきじょう)などの別名でも知られています。

 春日盆地のほぼ中央、標高約357メートルの城山(別名・猪の口山)に位置し、周囲三方向の尾根筋に至る広範な城域をもっていました。内藤氏の八木城、波多野氏の八上城と合わせて丹波三大山城として数えられることもあります。

黒井城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 築城は建武年間(1334~38)頃、美作の守護大名・赤松貞範によるものとされ、新田義貞軍との戦闘の功績で足利尊氏より丹波春日部を所領として与えられたことに始まるといわれています。以降、およそ五代にわたって赤松氏がこの地を治めましたが、やがて荻野氏が春日部領を統治するようになっていきます。

 大永6年(1526)の時点では赤井五郎という人物が黒井城主だったとされていますが、後述する赤井直正の赤井家とどのような関係があるのかはわかっていません。

 天文年間(1532~1554)には赤松氏に代わって統治者となっていた荻野氏から、荻野秋清が城主となっていました。しかし天文23年(1554)、秋清の父である荻野元清の養子となっていた赤井直正に暗殺され、直正が城主の座につきました。

 このことから悪右衛門の通称で呼ばれた直正は徐々に版図を拡大、やがて丹波最大の勢力へと成長します。

 永禄7年(1564)には丹波守護代の内藤宗勝と対立、翌年には周辺の軍事的緊張の高まりに対応するため、黒井城を大規模に改修したと考えられています。赤井氏は当時急速に台頭して影響力を強めていた織田氏と、当初は比較的良好な関係を保っていたとされています。

 永禄13年(1570)には織田信長から赤井氏当主の赤井忠家に対し、氷上・天田・何鹿郡等の所領を安堵していることからもその状況がうかがえます。

 しかしその後信長との関係は暗転、天正3年(1575)、ついに丹波攻略のため明智光秀の軍勢が派遣されました。翌年の戦闘で黒井城において籠城戦となったものの、当初明智軍についた波多野秀治がこれを裏切り直正に合力。これによって明智軍を撃退することに成功します。

 以降も幾たびかの戦闘で明智軍を退けるものの、天正6年(1578)に直正が病死。翌年に明智軍の包囲戦法を受けて黒井城はついに落城します。その後、光秀家臣の斎藤利三が城主となりましたが、天正10年(1582)の山崎の戦いで明智勢が壊滅すると、羽柴秀吉家臣の堀尾吉晴が一時入城しました。

 天正12年(1584)の堀尾氏転封後は徳川家康の動きに呼応して、荻野氏一族の芦田時直が黒井古城を占拠。家康にその働きを評価されるものの、黒井城を引き払う命令に従います。慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後は川畑秀氏が城主となりますが、やがて廃城となりました。

 平成元年(1989)に国の史跡、ついで平成29年(2017)には続日本100名城にそれぞれ選定されています。

光秀の軍を撃退した、丹波最後の砦

 本城部分は標高約150メートルの山頂部分を南北に平らにならし、北から順に本丸・二の丸・三の丸と段階的に配置しています。

 その下にはこれらを取り囲むように帯曲輪が配され、本丸と二の丸、そして大手口などには石垣を使用して防御力を高めています。石垣は野づら積みという、自然石をそのまま積み上げていく技法で構築されており、天正期の特徴をよく伝えています。

 本丸跡と二の丸跡からは各種の瓦が相当数検出され、大規模な瓦ぶきの建造物郡が存在したことがわかります。

 難渋した織田氏による丹波攻略の、最後の砦といっても過言ではない黒井城は幾たびも光秀の攻撃を退けたといいます。そしてこの城の落城により、丹波攻略が完遂されたと考えられています。

おわりに

 光秀を苦しめた黒井城主・赤井直正は「丹波の赤鬼」の異名で知られる猛将でした。『甲陽軍鑑』には「名高キ武士」と評価され、筆頭格としてその名を残しています。

 直正の死が戦局に与えた影響は大きく、黒井城の強さはすなわち直正の求心力と相まってその真価を発揮したといえるかもしれませんね。

補足:黒井城の略年表

※参考:略年表
建武年間頃
(1334~1338年)
赤松貞範により築城(諸説あり)
大永6年
(1526年)
八上・神尾山両城の戦いで黒井城主・赤井五郎が神尾山城を攻撃
天文年間
(1532~1554年)
荻野秋清が黒井城主に
天文23年
(1554年)
赤井(荻野)直正が秋清を暗殺し黒井城主に
永禄7年
(1564年)
直正が丹波守護代・内藤宗勝と対立
永禄8年頃
(1565年)
氷上郡の軍事的緊張の高まりにより、黒井城を大規模拡張(推定)
永禄13年
(1570年)
織田信長が直正の実家である赤井家当主・忠家に氷上・天田・何鹿郡等の所領を安堵
天正3年
(1575年)
信長が丹波攻略のため明智光秀の軍勢を派遣
天正4年
(1576年)
光秀を裏切った波多野秀治が直正に合力、光秀軍を撃退
天正6年
(1578年)
直正が病死
天正7年
(1579年)
明智軍の攻撃により、黒井城が落城。以降、光秀家臣の斎藤利三が入城
天正10年
(1582年)
山崎の戦いで明智光秀が敗死。以降、羽柴秀吉家臣・堀尾吉晴が一時入城
天正12年
(1584年)
堀尾氏転封後、荻野氏一族の芦田時直が徳川家康に呼応し蜂起。黒井古城を占拠
慶長5年
(1600年)
関ケ原の戦い勃発。以降、川畑秀氏が城主となるがその後廃城に
平成元年
(1989年)
国の史跡に指定
平成29年
(2017年)
続日本100名城に選定


【参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 丹波市HP 高屋城跡

  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。