【兵庫県】八上城の歴史 幾度もの籠城戦を経験した、丹波の中世山城!
- 2020/09/29
明智光秀が織田家中でその地位を盤石にした作戦行動といえば、「丹波攻め」が挙げられるでしょう。強力な在地勢力が盤踞し、しかも地形などの自然環境も厳しいため長らく攻略が不可能とされてきた土地のひとつでした。
そんな丹波の戦国大名の一角が「波多野氏」です。波多野氏が長く拠点とした「八上城」は自然地形の利を最大限活用した強固な山城であり、幾度となく籠城戦の舞台となってきました。
今回はそんな、八上城の歴史について見てみることにしましょう。
そんな丹波の戦国大名の一角が「波多野氏」です。波多野氏が長く拠点とした「八上城」は自然地形の利を最大限活用した強固な山城であり、幾度となく籠城戦の舞台となってきました。
今回はそんな、八上城の歴史について見てみることにしましょう。
八上城とは
八上城とは現在の兵庫県丹波篠山市に所在した山城で、別名を八上高城ともいいます。篠山盆地のほぼ中心あたりにある、丹波富士とも称される標高約460メートルの高城山に位置し、すぐ西側には支城の法光寺城が設けられています。山塊各所には多くの遺構が残り、丹波地方有数の大規模城郭のひとつです。
主郭は山頂部にあり、周囲の帯曲輪は側壁に一部石垣が認められます。北側には虎口が設けられ、これらは天正期の明智光秀による改修の結果と考えられています。
西側尾根に位置する曲輪は山麓の城館へと至るルートであり、南東の尾根には堀切や土塁等々、山城らしい波多野氏時代の防御機構がよく残っています。山麓に残る地名などから屋敷地や外堀の存在したことがうかがえ、城下町を形成していたと考えられています。
八上地方では15世紀前半頃には守護所が置かれ、永正年間(1504~1521)頃には波多野元清(稙通)によって高城山に八上城が築かれました。
元清ら波多野氏は当初、室町幕府管領の細川高国派に属していましたが、讒言によって一族を殺されたことにより蜂起。細川氏の勢力を退け丹波を統一することに成功。元清はやがて、細川家の内紛で高国を滅ぼした細川晴元に認められて室町幕府評定衆に名を連ねることになります。
天文21年(1552)には波多野晴通が、元清の娘を娶っていたものの離縁した三好長慶と対立。丹波国波多野城が三好勢の攻撃を受けました。この事件に端を発する波多野氏と三好氏の軋轢は長期にわたり、幾度となく八上の地は戦火にさらされました。
執拗ともいえる三好勢侵攻のなか、天文22年(1553)には三好氏配下の松永久秀が丹波に出陣。永禄2年(1559)には内藤宗勝により八上城が攻撃され、この前後に波多野氏は宗勝に臣従し当地は一時期三好政権の支配下に置かれました。
永禄9年(1566)には前年の宗勝死去に乗じて波多野氏が八上城を奪還、以後は織田氏に臣従することになりますが、天正4年(1576)に波多野秀治が丹波攻略中の明智光秀を裏切り、織田氏と対峙する姿勢を明確にしました。
しかし天正7年(1579)、光秀による包囲戦で波多野氏は敗北。秀治は処刑され、八上の波多野氏支配は終わりを迎えます。
慶長7年(1602)には、父・前田玄以の遺領を継いだ前田茂勝が八上城に居住したとされていますが、豊臣政権下の時代には一部が古城と化して使われていなかったという説もあります。
慶長13年(1608)、八上に封じられた松平康重が高城山の山頂普請に着手しますが、地形の峻嶮さもあり途中で工事を放棄し、ここに八上城は廃城となりました。
当時の遺構をよく残す、典型的中世山城
山陰街道という交通の要衝に面し、本城と支城が城下を挟んで守る八上城は典型的な中世山城の姿のひとつといわれています。幾度にもおよぶ籠城戦でその能力を発揮、中世の遺風を残す戦う城としての強さが特筆されます。平成17年(2005)には兵庫県では41件目の国の史跡に指定されますが、その大きな理由としても中世の遺構が良好に残っている点が挙げられました。
おわりに
幾度も激戦地となった八上城ですが、今や遠目には秀麗な丹波富士が見えるのみです。しかし波多野氏の拠点は、歴史遺産としても貴重な価値を現代に伝えたといえるでしょう。山城本来の戦闘用要塞としての威容を、登山とともにじっくりと楽しむのもよいのではないでしょうか。
補足:八上城の略年表
※参考:略年表
永正年間 (1504~1521年)頃 | 波多野元清(稙通)により高城山上に八上城築城 |
大永6年 (1526年) | 元清が細川高国と対立、八上城に籠城し撃退 |
天文21年 (1552年) | 波多野晴通と三好長慶が対立、丹波国波多野城が三好軍の攻撃を受ける |
天文22年 (1553年) | 松永久秀が丹波に出陣、波多野与兵衛尉方城を攻撃 |
天文24年 (1555年) | 三好日向守が丹州奥ノ城を攻撃 |
弘治3年 (1557年) | 八上城に向けて侵攻の三好軍が波多野方の龍蔵寺を陥落させる |
永禄2年 (1559年) | 内藤宗勝による八上城攻撃。この前後に波多野氏は宗勝配下に降り、多紀郡は一時三好政権が掌握 |
永禄9年 (1566年) | 前年の内藤宗勝敗死により波多野氏が八上城を奪還 |
天正4年 (1576年) | 織田氏に臣従していた波多野秀治が黒井城攻略の明智光秀を裏切り、織田政権と対立 |
天正6年 (1578年) | 丹波攻め実行の明智光秀が、八上ノ城後之山に布陣。包囲戦により八上城は長期の籠城を余儀なくされる |
天正7年 (1579年) | 光秀が八上城陥落の可能性について、書状で小畠氏らに報告 |
同年 | 6月、丹州高城が陥落して400名が討死、波多野秀治は処刑される |
慶長7年 (1602年) | 前田茂勝が前田玄以の遺領を継ぎ、八上城に居住 |
慶長13年 (1608年) | 松平康重が八上に封じられ、高城山頂部を工事するが峻険なため放棄。八上城は廃城となる |
平成17年 (2005年) | 国の史跡に指定 |
【参考文献】
- 『兵庫県史談.2 播磨』 浅羽粛也 1896 船井弘文堂
- 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 丹波篠山市HP 高屋城跡
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