【麒麟がくる】第38回「丹波攻略命令」レビューと解説

天正2(1574)年3月に信長が蘭奢待を手にする前後から、「信長がわからない」ことが続く光秀。言い合いになりながらも、しかしこの時点では絶妙なバランスを保っている感じです。最終章の登場人物も次々と登場し、いよいよクライマックスへ。

一度は咲いた花の誇り

三淵藤英は天正2年の夏に自害を命じられました。坂本城の光秀にペライチで「成敗せよ」と命じた信長。光秀は納得がいかない様子で「信長様を説得する」と息巻いていましたが、当の藤英は凪いだような目で断ります。

義昭の敗北以降は一応信長の下で働いた藤英ですが、生まれた時から将軍に仕えることを運命づけられていた藤英は幕府から一歩も出るつもりはなく、「生あるかぎり信長殿につくことはない」と言い切ります。

たまが切り落とした百合の花を手に取り「捨てられる花にも一度は咲いてみせたという誇りがあるように見える」と言って笑います。きっと信念を曲げて信長に仕えれば、誇りが失われるのでしょうね。

ところで、捨てられる花にも誇りはあると言った藤英の台詞、前回に続き名言が多いなあと思いますが、この台詞で思い出すのがたま(ガラシャ)の辞世の句です。

「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」

花も人も、散り時を心得ていてこそ美しい。散り際を知って美しく咲く花のように、私もそうありたいというガラシャの句。

ガラシャの肖像画のひとつに、昭和に堂本印象が描いたもの(「細川ガラシャ夫人」大阪玉造教会壁画下絵)があります。そのガラシャが持っているのが百合の花でした。今回たまと百合の花、ときて、これはきっと無関係ではないなと感じました。

散り際を知る潔さは、たまにも共通するものです。

斎藤利三

最終章の重要人物が登場しましたね。斎藤利三は作中での話どおり、稲葉良通(一鉄)に仕えた人物で、のちに光秀に仕え、光秀最後の戦・山崎の戦いでは先鋒をつとめたとされます。

作中では、比叡山焼き討ちで信長の命令に逆らって女子供を逃がした光秀の心意気に感銘を受けたというのが光秀を頼ってやってきた理由として説明されました。

実際はどういう理由だったのかわかりませんが、一説には、利三の母が光秀の妹であったとか。つまり光秀の甥であった可能性があるということ。そのほかにも、従兄弟だったとか、利三のおばが明智光安(光秀おじ)の妻であるとか、いろんな説があります。

この利三を家臣に加えたことで一鉄は怒り、信長が光秀を叱責したとか、また家臣になった利三が別の一鉄家臣(那波直治)を引き抜いてこれに一鉄が激怒し、信長が利三自害を命じたとかいう話があり、利三がトラブルの種であったことがうかがえます。

また、利三の兄に石谷頼辰という人物がいます。妻が石谷光政の娘で、頼辰は婿養子でした。この義父・光政のもうひとりの娘に、長宗我部元親の正室がいます。つまり、利三は元親とは兄を通してつながりがあるということ。

利三の主君・光秀は長宗我部氏との外交の窓口であり、この長宗我部氏との関係が本能寺の変に関わっている、という説もあります。


情緒不安定な信長に物申す光秀

光秀は京・妙覚寺で信長に「利三を稲葉に返せ」と言われるも、速攻で断ります。おまけに藤英の処遇についてあれこれ苦言を呈し、さっきまでご機嫌だった信長を怒らせてしまいます。藤英のことだけではありません。

信長は「一人の命」を大事にしていると言いますが、若江城に送った義昭がどのような待遇であったか。また、このころ長島一向一揆、越前一向一揆と殺戮してきた信長が本当に「一人の命」に目を向けているのか疑問が残るところです。

口うるさく諫められ「帰れ」と怒鳴るも、すぐ呼び戻す信長は大分情緒不安定ですね。呼び戻したのは大事な話(丹波攻略)があったからですが、それとは関係なく伴天連の衣装をプレゼントしてみたり。

怒っていたはずの光秀も家に帰って南蛮衣装に身を包み、まんざらでもない様子。なんともよくわからないふたりです。しょっちゅうケンカになるからひとつひとつのことを根に持っていてもしょうがないのか。これこそ「信長を一番よく知る男」光秀が信長を御す心得なんでしょうか。

誠仁親王への譲位

正親町天皇の第一皇子・誠仁(さねひと)親王が登場しました。誠仁親王は春宮(東宮)で、次期天皇としてもう即位も間近か、というところ。しかし、正親町天皇の譲位はなかなか行われず、信長が生きているうちに叶うことはありませんでした。そして誠仁親王が天皇になることなく天正14(1586)年に病没し、遺児が後陽成天皇として即位しました。誠仁親王は死後に太上天皇の尊号を追贈されています。

誠仁親王は信長がお気に入りの様子ですが、これは資金難で先延ばしにされていた親王宣下・元服が信長のおかげで永禄11(1568)年に行われた、というのもあるでしょうね。誠仁親王はのちに信長の猶子になります。

今回、蹴鞠の会で登場した誠仁親王。独特な掛け声が印象的だった蹴鞠の会は、天正3(1575)7月3日に行われました。『信長公記』に詳しい記録があります。この会は誠仁親王主催で、正規の儀礼に則った立派なものだったようです。

ちなみに、この日信長は官位昇進の勅諚(勅命)を伝えられますが固辞しています。かわりに家臣らが官位を賜ることになり、信長の推挙でこの時光秀は惟任の名字を許され、日向守になっています。

丹波攻略へ

信長の命により丹波攻略をすることになった光秀は、丹波にいる近衛前久を頼って現地で情報収集を始めます。やる気を見せる光秀ですが、丹波攻略はなかなか一筋縄ではいかない、大変な仕事になります。

『明智軍記』によれば丹波平定を命じられたのが天正3年正月。同年9月に丹波出陣の命が下り、丹波平定がなるのは天正7(1579)年9月のことで、5年近くを費やしました。平定では長い道のりで、その間光秀は本願寺との戦にも出て死にかけたり、病気になったり、そして妻・煕子が亡くなったり……。なかなかハードになります。




【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 芝裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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