明智光秀の妻「妻木煕子」~光秀はなぜ愛妻家と言われるのか

明智光秀の妻「妻木煕子」(大河「麒麟がくる」では演:木村文乃)のイラスト
明智光秀の妻「妻木煕子」(大河「麒麟がくる」では演:木村文乃)のイラスト
光秀は生涯でたったひとり、正室の煕子だけを伴侶としたことはよく知られています。光秀は不遇の前半生を送っており、それを支えた嫁なので感謝の念も強かったのでしょう。ここでは煕子の出自から、光秀との仲睦まじさがわかるエピソードなどを紹介します。

光秀の正室・妻木煕子の出自

光秀の前半生に不明点が多いのと同様に、妻の煕子もよくわからない部分だらけです。実際には生年や父親の名前すらも "あやふや" です。

まず生年には、享禄3年(1530)と天文3年(1534)の2つの説がありますが、いずれも確証はありません。次に父親ですが、『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』(一般的に『細川家記』として知られる)によると、父は妻木勘解由左衛門範熙(つまきかげゆざえもんのりひろ)とのことです。しかし、別の説では妻木広忠とする見方もあり、これも定かではありません。

なお、『細川家記』は細川氏の家史で、この時代の歴史を知る一級史料とされていますが、明智氏に関しては創作性が強く、裏付けもない『明智軍記』からの転載と思われる部分も多いため、この出自すら確かな情報とは言い難いのが現状です。

ちなみに妻木氏は『妻木氏系図』によると、 美濃国土岐郡の妻木城主・土岐頼照が祖とされています。つまり、煕子も光秀と同じで美濃土岐氏一族ということですね。

光秀には煕子以前にも奥さんがいた?

煕子は三男四女をもうけたといわれますが、光秀の子の数も諸説あり、全員が煕子の子なのか、はたまた前妻や側室がもうけた子なのかも、よくわかっていません。

※参考:光秀の実子の略系図(『明智軍記』)

生涯煕子ただひとりを妻としたという光秀ですが、実は煕子以前にも奥さんがいた可能性もあります。

『天正記聞』という江戸時代の古記録によれば、光秀は煕子の前に近江の豪族である永原仁左衛門の娘を娶り、一女をもうけているといいます。この娘は大坂夏の陣で豊臣秀頼・淀殿らと運命をともにしたという渡辺正栄尼(しょうえいに)だとか。

光秀の長女で荒木村重の息子に嫁いだ後に明智秀満(光春とも)の妻となった娘は、天文21年(1552)生まれであるとされていますが、嫡男の光慶は生年不明ながら、俗説の享年13歳から逆算すると、元亀元年(1570)生まれ。長男と長女が18歳も年が離れており、同母ではあり得ないという見方もあるようです。

細川ガラシャ(明智玉)のイラスト
光秀娘として有名な細川ガラシャ。煕子がガラシャの母という確証はない?

煕子の逸話

煕子についてはいくつかの逸話が残されています。ただこれらは後世の創作であろうとも言われているので、事実かどうかは疑わしい部分も多分に含んでいます。

輿入れ前に疱瘡にかかる?

── 煕子は輿入れの前、疱瘡にかかって美しい顔に痘痕が残ってしまいました。明智との婚姻をどうしても進めたい妻木氏は、煕子の妹を替え玉にして送りました。しかし光秀はこれを見破り、「容貌などは年月や病気で変わってしまうものだ。不変なのは心の美しさである」といって煕子を迎えたのだといいます。 ──

が、別の説では、疱瘡にかかったのは服部鳥羽守の長女の伏屋姫であったとか。あとの筋書きは同じで、伏屋姫が亡くなったため、煕子が後妻に入ったのだとしています。

光秀放浪時に髪を売って支える

── 光秀がまだ貧しく諸国を放浪(最近では創作といわれる)して暮らしていたころ、武士の仲間をもてなす際に煕子が自身の髪を売って金を工面し、光秀を支えた。──

という逸話があります。

また、これと似たような話で、同じく貧乏時代の光秀が連歌会を開くための資金のために髪を売ったともいいます。光秀はこのころの妻の献身に感謝し頭が上がらず、出世してからも側室を持たなかったとか。

夫婦で交互に病にかかり……

光秀と交流があった吉田兼見(吉田神社の神主で細川藤孝の従兄弟)の日記『兼見卿記』は重要な史料として信頼できるものですが、その中にも明智夫妻のエピソードがあります。

── 天正4年(1576)、光秀が石山本願寺攻めの際に病にかかり、煕子は兼見の邸を訪れて病気平癒の祈願を頼みました。すると今度は同年冬に煕子が病にかかり、光秀が同じように病気平癒の祈願を依頼しにやってきたのだといいます。──

夫婦仲の良さがうかがえる逸話ですね。

信長に美しい妻を狙われたから恨みに思った?

『落穂雑談一言集』には、信長と光秀夫婦にまつわる話が収録されています。

── 信長はある夜、近習と猥談にふけっていた際、明智の妻こそ天下一の美女であると聞きます。噂を確かめたくなった信長は、家臣の妻を出仕させ、物陰に潜んで煕子を待ち伏せしました。後ろから抱きしめようとしたところ、煕子は扇でしたたかに打ち据え、撃退してしまったのです。
光秀はこのことを煕子から聞いて、おそらく信長だろうと思い用心していましたが、信長は根に持って光秀に辛く当たり屈辱を与えたのだとか ──

これが謀反の動機になったという説もありますが、そもそも家臣の夫婦仲に気を配ったという信長がこのような行動に出るとは考えにくく、創作であろうと思われます。


まとめ

最後に煕子はいつ亡くなったのでしょうか。この問いも残念ながらはっきりしていません。天正4年(1576)に病で没したとも、天正10年(1582)山崎の戦い後に自害したとも言われています。明智家の菩提寺である大津市の西教寺には「病死」と伝わっていることから、病死説が有力です。

2020年の大河「麒麟がくる」では女優の木村文乃さんが演じることになった妻木煕子。煕子のエピソードからも窺えるように、ドラマでは光秀・煕子夫妻の仲睦まじい姿がみられるのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 藤田達生『明智光秀伝: 本能寺の変に至る派閥力学』(小学館、2019年)
  • 洋泉社編集部『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(洋泉社、2016年)
  • 新人物往来社編『明智光秀 野望!本能寺の変』(新人物往来社、2009年)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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