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  • 明智光秀
 2018/11/29

明智光秀の妻「妻木煕子」~光秀はなぜ愛妻家と言われるのか

光秀は生涯でたったひとり、正妻の煕子だけを伴侶としたことはよく知られています。光秀は不遇の前半生を送っており、それを支えた妻なので感謝の念も強かったのでしょう。

ここでは、正妻・煕子の出自から、光秀との仲睦まじさがわかるエピソードなどを紹介します。
(文=東 滋実)

妻木煕子の出自

光秀の前半生に不明点が多いのと同様に、妻の煕子についてもよくわからない部分が多く、生年や父親の名前すらあやふやなのです。『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』(一般的に『細川家記』として知られる)によれば、父は妻木勘解由左衛門範熙(つまきかげゆざえもんのりひろ)の娘であるということです。

別の説では妻木広忠とする見方もあり、いまだよくわかっていません。『細川家記』は細川氏の家史で、この時代の歴史を知る一級史料とされていますが、明智氏に関しては創作性が強く裏付けもない『明智軍記』からの転載と思われる部分が多いため、この出自すら確かな情報とは言い難いのが現状です。

煕子は三男四女をもうけたといわれますが、光秀の子の数も諸説あり、全員が煕子の子なのか、はたまた前妻や側室がもうけた子なのか、よくわかっていません。

煕子以前に妻がいた?

生涯煕子ただひとりを妻としたという光秀ですが、実は煕子以前に妻がいた可能性もあります。『天正記聞』という江戸時代の古記録によれば、光秀は煕子の前に近江の豪族である永原仁左衛門の娘を娶り、一女をもうけているといいます。この娘は大坂夏の陣で豊臣秀頼・淀殿らと運命をともにしたという渡辺正栄尼(しょうえいに)だとか。

光秀の長女で荒木村重の息子に嫁いだ後に明智秀満の妻となった娘は、1552(天文21)年生まれであるとされていますが、嫡男の光慶は生年不明ながら、俗説の享年13歳から逆算すると、1570(元亀元)年生まれ。長女と18歳も年が離れており、同母ではあり得ないという見方もあるようです。

煕子の逸話

煕子についてはいくつかの逸話が残されています。ただこれらは後世の創作であろうとも言われているので、事実かどうかは疑わしい部分も多分に含んでいます。

輿入れ前に疱瘡にかかる?

煕子は輿入れの前、疱瘡にかかって美しい顔に痘痕が残ってしまいました。明智との婚姻をどうしても進めたい妻木氏は、煕子の妹を替え玉にして送りました。しかし光秀はこれを見破り、「容貌などは年月や病気で変わってしまうものだ。不変なのは心の美しさである」といって煕子を迎えたのだといいます。

が、別の説では、疱瘡にかかったのは服部鳥羽守の長女の伏屋姫であったとか。あとの筋書きは同じで、伏屋姫が亡くなったため、煕子が後妻に入ったのだとしています。

光秀放浪時に髪を売って支える

光秀がまだ貧しく諸国を放浪(最近では創作といわれる)して暮らしていたころ、武士の仲間をもてなす際に煕子が自身の髪を売って金を工面し、光秀を支えたという逸話があります。似たような話で、同じく貧乏時代、光秀が連歌会を開くための資金のために髪を売ったともいいます。光秀はこのころの妻の献身に感謝し頭が上がらず、出世してからも側室を持たなかったとか。

夫婦で交互に病にかかり……

光秀と交流があった吉田兼見(吉田神社の神主で細川藤孝の従兄弟)の日記『兼見卿記』は重要な史料として信頼できるものですが、その中にも明智夫妻のエピソードがあります。

1576(天正4)年、光秀が石山本願寺攻めの際に病にかかり、煕子は兼見の邸を訪れて病気平癒の祈願を頼みました。すると今度は同年冬に煕子が病にかかり、光秀が同じように病気平癒の祈願を依頼しにやってきたのだといいます。夫婦仲の良さがうかがえる逸話です。

信長に美しい妻を狙われたから恨みに思った?

『落穂雑談一言集』には、信長と光秀夫婦にまつわる話が収録されています。

信長はある夜、近習と猥談にふけっていた際、明智の妻こそ天下一の美女であると聞きます。噂を確かめたくなった信長は、家臣の妻を出仕させ、物陰に潜んで煕子を待ち伏せしました。後ろから抱きしめようとしたところ、煕子は扇でしたたかに打ち据え、撃退してしまったのです。光秀はこれ煕子から聞いて、おそらく信長だろうと思い用心していましたが、信長は根に持って光秀に辛く当たり屈辱を与えたのだとか。

これが謀反の動機になったという説もありますが、そもそも家臣の夫婦仲に気を配ったという信長がこのような行動に出るとは考えにくく、創作であろうと思われます。

煕子はいつ亡くなったのか

煕子は生年はおろか、没年すらはっきりしません。山崎の戦い後に自害したとも、1576(天正4)年に病で没したとも言われます。明智家の菩提寺である大津市の西教寺にはそのように伝わっており、病死した説が有力です。

濃姫(帰蝶)との関係は?

最後に、少しだけ濃姫との関係に触れておきましょう。光秀と女性との関係を語る上で、濃姫を無視することはできません。大河ドラマなどでよく「光秀と濃姫は想い合う関係」であったように描かれますが、その根拠とするのが『明智軍記』からの情報です。いとこ(濃姫の母・小見の方が明智の出)であり、幼馴染の二人はひそかに将来を誓い合っていた。道三は嫌がる濃姫を無理やり信長に嫁がせた。そんな筋書きで、本能寺の変では明智に味方したとも伝わっています。

本能寺の変以後、まったく行方がわからない濃姫がどの立場にいたのかは依然として不明ですが、出所が『明智軍記』であること、ほかの史料にそのような記述はないことから、創作と考えるのが妥当でしょう。





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