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武田勝頼の母「諏訪御料人」、いくつもの名を持つ?謎多き女性

小坂観音院にある諏訪御料人供養塔(長野県岡谷市)
小坂観音院にある諏訪御料人供養塔(長野県岡谷市)
 戦国時代に甲斐国(山梨県)を支配しながら、織田信長に敗れて滅び去った武田勝頼。勝頼の父親は誰もが知る名将の武田信玄ですが、母親の諏訪御料人についてはあまりよく知られていません。どんな女性だったのでしょうか?

諏訪御料人と武田氏の関係

 諏訪御料人は、諏訪という名から分かるように、甲斐国に隣接する信濃国諏訪を支配し、諏訪大社上社の大祝(おおほうり)も務める名門・諏訪氏の出身です。

 諏訪御料人の父親である諏訪頼重は、信玄の父・武田信虎が諏訪氏と和睦した際、信虎の娘の禰々(ねね)を正室に迎えています。つまり、諏訪氏と武田氏は婚姻を通じた同盟関係にあったのです。

 ところが、天文10年(1541)に信玄が信虎を追放するというクーデターが起き、同盟関係に変化が生じます。新しい領主となった信玄は、信濃への領土拡大を目論んでおり、その手始めに諏訪への進攻を開始しました。

 戦いの結果、頼重は甲斐に連れて行かれ、切腹させられてしまいます。諏訪御料人は実母(頼重の側室)とともに禰津氏のもとへ身を寄せました。

謎その1~出生も没年も不明

 諏訪御料人について記載された文献はほとんどありません。

 生まれたのは享禄3年(1530)とされていますが、それも正確には分かっていません。信玄が諏訪進攻を始めた頃は10歳くらいの少女だったようです。

 諏訪御料人が信玄に嫁いだ時期も諸説ありますが、勝頼が生まれたのが天文15年(1546)であることから、天文12~14年(1543~45)とみられます。

 享禄3年生まれだとすれば、勝頼を生んだのが16歳となりますが、戦国時代の女性とすれば早すぎるというほどの年齢ではないようです。

 諏訪御料人は若くして亡くなったようですが、没年も定かではなく、弘治元年(1555)頃と伝わっています。ちなみにこの年は、長尾景虎(上杉謙信)と200日にわたってにらみ合いを続けた第2次川中島合戦がありました。

謎その2~父の仇の妻となったのは?

 信玄は父親を殺した仇になりますが、なぜ嫁ぐことを決意したのでしょうか?

 この結婚について、武田家の多くの家臣たちから反対の声が上がりました。諏訪御料人が憎しみを持っていることが想像に難くないからです。

 一方で縁組に賛成したのが、軍師である山本勘助だったといいます。勘助は「諏訪氏の血を引く娘が男児を産めば、諏訪氏再興ができる」と家中を説得したそうで、おそらく信玄も同じ考えだったと思われます。

 諏訪御料人もまた、諏訪氏再興を心から願っており、まだ見ぬ我が子に諏訪氏の将来を託したかったのでしょう。その願いどおり、諏訪御料人は男児(勝頼)を授かったのです。

謎その3~諏訪御料人の名前は?

 諏訪御料人の実名は伝えられていません。

 仇敵の妻となって子を産むという劇的な生涯と、武田家の後継者となった勝頼の母ということで、小説やドラマで取り上げられることも多く、近年では代表的な二つの名前で呼ばれています。

 一つは由布姫(ゆうひめ)で、井上靖の小説「風林火山」に登場し、東宝映画や大河ドラマ(平成19年放送)など多くのドラマでおなじみの名前となりました。

 もう一つは湖衣姫(こいひめ)で、新田次郎が小説「武田信玄」で名づけ、昭和63年放送の同名の大河ドラマで知られるようになったのです。

おわりに

 「信玄が最も愛した女性というのは本当なのか?」「絶世の美女だったというのは真実か?」など、諏訪御料人にまつわる真贋のわからない逸話はたくさんあります。

 謎多き女性だからこそ、歴史ロマンを駆り立てられる存在なのでしょうね。

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  この記事を書いた人
マイケルオズ さん
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです! 戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。 愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。

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