大河「光る君へ」では描かれなった、清少納言と藤原実資が藤原信経を非難した理由とは?

 大河ドラマ「光る君へ」で描かれなかった人物に藤原信経(ふじわら の のぶつね)がいます。この信経とはどのような人物だったのでしょうか。

 信経の父は、藤原為長という人物です。為長は、花山天皇の御代に陸奥守を務めました。陸奥守在任中に現地で亡くなったと考えられています。そして為長の父は藤原雅正。雅正には複数の息子がおり、長男が為頼・次男が為長、三男が為時です。特にドラマを観ている人にとっては周知のように、為時は、紫式部の父であります。信経の父(為長)と為時は兄弟だったのです。

           藤原雅正
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      為時 為長 為頼
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女子 式部 女子 信経

※参考:藤原信経の略系図(戦ヒス編集部作成)


 さて、紫式部の父・為時は、寛弘8年(1011)に越後守に任じられていますが、その前には信経が越後守を務めていました。注目すべきなのは、信経の妻が、為時の三女だったということです(三女の母は、式部の母とは別という説もあります)。ちなみに為時の長女は、長徳元年(995)7月以前に亡くなったと言われています。次女は紫式部。式部の妹が信経の妻となったのでした。

 式部の父・為時が寛弘8年に越後守に任じられたのは、信経が任半ばに譲ってくれたからとされます。為時は、長和3年(1014)に越後守を辞任しますが、その後釜は信経でした。日記『小右記』の記主・藤原実資は、たらい回しのような有様を「任意」(勝手だ)と非難・憤慨しています。

 また清少納言は『枕草子』の中で信経のことを、悪筆だとして批判しているのです。信経が作物所(天皇・皇后・東宮などが宮中で用いる調度品を製作する)別当をしていた時、「これと同じように作りなさい」と書状で命じたのですが、その字が納言曰くあり得ないほど下手、おかしなものだったようなのです。よって納言は「この通りに作ったら、変なものができるに違いない」と書き添えて、殿上の間に書状を持って行ったのでした。人々はそれを見て、大いに笑ったそうです。

 当然、信経としては気分が良いものではなく、腹を立てて、納言を憎んだとのこと。信経、少し可哀想です。とは言え、信経に職務上のミスのようなものはなかったようで、真面目な吏僚と推定されています。


【参考文献】
  • 岡一男「紫式部の姉弟」(『文藝論叢』巻8、1972年)

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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