【長野県】高遠城の歴史 武田信玄が重要な軍事拠点として改築!...江戸時代には高遠藩の政庁として機能

 武田信玄が遠江国や三河国侵攻のための拠点として大々的に改築されたのが、長野県伊那市高遠町東高遠の高遠城(たかとおじょう。別名は兜山城)です。現在では日本城郭協会選定による「日本百名城」のひとつとして観光名所となっています。

 今回はこの高遠城の歴史についてお伝えしていきます。

高遠氏が治めていた城

 高遠城は月誉山の西の丘陵地帯に築かれていた平山城(本丸の標高は約800m)で、三峰川と藤澤川の2つの河川の合流点に形づくられた河岸段丘の上にあります。

 かつて信濃国 諏訪氏の一門である高遠氏によって治められていましたが、高遠氏当主である高遠頼嗣は、武田信玄に与して諏方惣領家を滅亡させたものの、その所領を巡って信玄と対立。そして天文14年(1545)には攻め滅ばされてしまいます。

高遠城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

武田信玄による改築

 高遠城は諏訪盆地と伊那谷を結ぶ杖突街道(つえつきかいどう)に面する交通の要衝であり、南信濃支配の重要拠点の意味合いと、その後の遠江国や三河国侵攻のため、信玄は秋山信友と山本勘助に命じて大規模な改築工事を行いました。勘助曲輪はこのときに勘助が縄張りをしたと伝わっています。

 信友はそのまま城主となり、伊那衆を率いていましたが、永禄5年(1562)に武田勝頼が諏訪氏当主を継承し、高遠城の城主となっています。

 その後、勝頼が後継者に指名されたために甲府に呼び戻され、代わって信玄の弟の武田信兼が城主を務めました。さらに続いて信玄五男の仁科盛信も城主となっています。武田氏の一族が歴代の城主を務めるほど重要な拠点だったということです。

 武田氏による35年間に渡る統治が続く中、天正10年(1582)3月、織田信長の軍勢が攻め寄せ、盛信は数万の軍勢に対し数千の兵で籠城戦を行うも、高遠城は激戦の末、1日で落城。信長の命で毛利長秀が城主となりましたが、その統治は短命で同年の本能寺の変による混乱の中、木曾義昌が占領しました。さらにここから徳川家康の軍勢が高遠城を攻めて領地に加えています。

 豊臣秀吉が天下を治めてからは家康が江戸に移り、高遠城は毛利氏や京極氏の領地となっています。秀吉政権下では、高遠城には城主は置かれず、代官が派遣されて統治される形式でした。家康が再びこの地を取り戻して高遠藩を置いたのは慶長5年(1600)です。

江戸期に大改修

 現在の城跡は戦国時代の頃の高遠城のものではなく、江戸期初期までに大改修されたもののため、近世城郭の姿です。

 これは度重なる戦によって壊滅的な被害を受けており、改修が必要だったためです。その際に門前町を城下町に取り込むため、大手門を東から西に変更して再編成されたと考えられています。本丸には天守閣はありませんでしたが、二階建ての櫓が3棟建てられていました。

 高遠城は石高3万3千石の高遠藩の政庁となり、初代藩主には保科正光が就任しています。2代目藩主の保科正之(二代将軍徳川秀忠の子)の代の寛永13年(1636)に最上へ移封となったため、代わって最上から鳥居忠春が入封しました。しかし、次の藩主・鳥居忠則が元禄2年(1689)に自害したため領地は没収となり、元禄4年(1691)に内藤清枚が富田林から入封され、そこから明治維新まで内藤氏が城主を務めています。

 江戸時代の高遠城城主は、保科氏、鳥居氏、内藤氏の三家ということです。中でも一番長かったのが内藤氏で、8代目に渡って高遠藩を統治していましたが、内藤頼直の代に廃藩となっています。

 頼直は明治5年(1872)まで高遠県知事を務めました。高遠城はこの年に廃城。御殿、門、庭石にいたるまであらゆるものが民間に払い下げとなり、翌年には完全に取り壊されています。

高遠城跡の公園化

 明治8年(1875)には高遠城跡の公園化が決定しました。江戸時代には搦手門にあった太鼓櫓は一度取り壊されましたが、昭和元年(1912)に現在の本丸跡に再建されています。

 また、江戸時代には高遠城下の本町の問屋役所にあった門が、町の有志によって買い戻され、昭和23年(1948)に本丸跡に移築されました。平成18年(2006)には、日本城郭協会によって「日本百名城」のひとつに選定されています。

 現在の公園には1500本もの桜の木が植えられています。タカトオコヒガンザクラという固有種で、140年以上前に植えられた古木が10本ほど、50年以上前に植えられた木が1000本ほどで、昭和35年(1960)には長野県の天然記念物に指定されています。そのルーツは高遠城下にあった馬の調練を行う桜ノ馬場の桜で、明治9年(1876)に移植されています。

おわりに

かつては戦国時代の戦乱のまっただ中にあった高遠城。武田信玄、織田信長、徳川家康といった歴史に名を残した英雄たちが攻防を繰り広げ、奪い合った重要な城でした。

現在は桜の名所として有名ですが、桜の絶景を堪能しながら、そんな戦国時代の歴史に思いをはせてみるのもいいのではないでしょうか。

補足:高遠城の略年表

出来事
天文10年
(1541)
武田信玄の軍勢が攻略し、秋山信友と山本勘助による改築工事が開始
弘治2年
(1556)
秋山信友が城主となる
永禄5年
(1562)
武田勝頼が城主となる
元亀元年
(1570)
武田信兼が城主となる
天正9年
(1581)
仁科盛信が城主となる
天正10年
(1582)
織田信長の軍勢が攻略し、毛利長秀が城主となる。本能寺の変の後は、木曾義昌が一時期占領するも、徳川家康の軍勢が攻略。
天正18年
(1590)
秀吉政権下では城主は置かれず、代官が派遣され統治される
慶長5年
(1600)
保科正光が高遠藩初代藩主となる
寛永13年
(1636)
鳥居忠春が藩主となる
元禄4年
(1691)
内藤清枚が藩主となる
明治2年
(1869)
廃藩後、内藤頼直が高遠県知事を務める
明治5年
(1872)
明治政府の方針により廃城
明治8年
(1875)
高遠城跡の公園化決定
明治45年
(1912)
本丸跡の太鼓櫓が再建
昭和23年
(1948)
高遠本町に移築されていた問屋門を再移築
昭和48年
(1973)
国の史跡に指定される
平成18年
(2006)
日本百名城に選定される


【主な参考文献】

  • ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  • ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。