北条氏照敗れる 陥落した八王子城の悲劇
- 2024/11/29
地元には落城に纏わる数多くの伝説が語り継がれており、城に立て籠もった女子供が抵抗虚しく犠牲になった史実を後世に伝えています。今回はそんな八王子の歴史や伝説をご紹介していきます。
八王子に今も語り継がれる悲劇
北条氏照は北条氏康の3男。天文11年(1542)に生まれ、兄の氏政と共に豊臣秀吉の小田原征伐に抗い、天正18年(1590)に命を落とします。氏照が治めた八王子城は城山に置かれました。城山とは通称で当時の名前は深沢山。標高は445メートルに及び、牛頭天王と8人の王子を縁起とする八王子権現が祀られています。これは山頂の岩屋で修行中の僧侶の前に牛頭天王と8人の王子が現れた伝説にちなんでおり、この山が民の信仰対象だったことが窺い知れます。
築城の始まりは元亀2年(1571)、それから16年後の天正15年(1587)に一族郎党で移住。当初、氏照は滝山城を拠点にしていたものの、武田信玄の軍勢に攻め込まれた際に地形が原因で苦戦した為、盤石の守りに徹した城を構えることにしたのでした。
八王子城は山全体を要害に組み込んでいる為、落城城も未完成だったとする説が有力。現在も石垣の土台や曲輪が保存され、関東屈指の山城の史跡に見学者が絶えません。
氏照が拓いた城下町・根小屋地区は大いに栄え、街道には多くの宿が立ち並び、往時は大勢の遊女が働いていました。
現在、根小屋地区を含む城下町は「元八王子」と呼ばれています。桜の大木がたたずむ元八王子の辻には、落城時に逃げ遅れた遊女を供養する傾城塚、別名「お女郎塚」が建っています。傾城は花魁の昔の呼び名なので、ここで斬り捨てられた遊女がいたのかもしれません。戦乱に巻き込まれた女性の無念が偲ばれます。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の軍勢が小田原征伐を開始。これに対し、兄氏政らと共に出兵した氏照は、横地監物を筆頭にした家臣を城の守護に当たらせたものの、上杉景勝・前田利家・真田昌幸から成る1万5千の混成軍に太刀打ちできず、たった1日で落城と相成りました。これが八王子城合戦です。
豊臣軍が1日で城を落とせたのは、東と北の二手に分かれて攻め入った奇襲の成功によるものと歴史家は分析しています。
八王子城は北条氏にとって最大の切り札でした。故に八王子城落城の報せを聞いた氏照は観念し、秀吉に命じられるがまま切腹しました。
「よもやこれまで」……御主殿の敵に身投げした婦女子たち
八王子城合戦の折、城主の氏照は家臣を率い、小田原城を守る為に出払っていました。留守を任されたのは一部の家臣と女子供。氏照の正室・側室と幼少の子供たち、城下から避難してきた領民を含め、その数は3千人に上ります。敵軍に追い込まれた女たちはよもやこれまでと覚悟し、山中にある御主殿の滝から身を投げました。この滝は高さが足りず、落下時は固い岩盤に叩き付けられます。故に飛び込む前に首を切り、確実に死ねるようにしました。
氏照の正室・比左も御主殿の滝で自害しました。比佐は大変心優しく聡明な女性で、側室たちとの仲も円満でした。趣味は観音像のコレクションだったらしく、生来の信心深さが仄めかされます。
御主殿の滝を水源とする城山川は三日三晩、血に染まりました。死屍累々の川の様子で敗北を悟り、身を投げた兵もいました。落城からしばらくすると、元の澄んだ流れを取り戻したものの、以降もこの川で米を研ぐと必ず水が濁り、赤まんまが炊き上がりました。そこで村人たちは赤飯を供え、犠牲者を供養したのでした。
八王子城の伝説 心優しい側室は蜘蛛に転生した?
前述の通り、八王子城に残された人々の大半は非力な女子供。戦国の世の習いとして、敵に捕まれば ”辱め” は避けられません。小田原の丘に捕らえた妻子の晒し首を並べ、北条氏の士気の低下を企てた豊臣勢の蛮行が、それを証明しているのではないでしょうか。だからでしょうか、八王子城落城に纏わる伝説には、氏照の側室や家臣の娘が主人公の話がたくさんあります。
八王子城落城時、燃えながら空を飛ぶ打掛の片袖が目撃されました。袖の持ち主は氏照の側室の1人・お豊。幼い息子を伴い滝壺に身を投げたものの、遠く離れた主君を慕い、袖だけちぎれて飛んでいったのでした。
されど小田原まで辿り着けずに力尽き、孝養寺の境内にヒラヒラ舞って落ちた為、人々はそこに片袖塚を建て、弔いました。
お豊には他にも逸話があります。
ある時、お豊は庭師が踏み潰そうとしている蜘蛛を救い、こっそり逃がしてやりました。それから数年後……城山では子負い蜘蛛が目撃されるようになり、「若君を抱いて死んだお豊さまの生まれ変わりだ」と涙を誘いました。
五人比丘尼塚に葬られているのは城から逃げてきた五人の比丘尼。あえなく前田軍に捕まり、「情報を吐け」と脅されるも、氏照に義理立てして斬り捨てられ、無念の亡霊となり果てます。比丘尼たちが化けて出る一帯は”祟りヶ原”と呼ばれ、南浅川の地主が鍬を入れた際に雷に打たれて死ぬなど、怪現象が相次ぎました。
近藤出羽守(氏照の腹心)の娘・布衣は薙刀の達人の美少女。榎本城に出向いて不在の父に代わり留守を守ったものの、奮戦虚しく深手を負い、逃げる途中に火の粉を被った肌は醜く焼け爛れます。
この上敵の慰み者にはなるまいと御霊川に身を投げる寸前、以前と変わり果てた素顔が水面に映りました。そこで布衣が「私を隠して」と祈った所、たちまち川は淀んで彼女を沈めてしまったのです。
最後に紹介するのは落ち武者が蛭(ひる)に生まれ変わった話。
落城後、城山川には異様に蛭が増えました。この蛭は北条氏の生まれ変わりで、八王子の北から来た者しか襲いません。理由は城を攻め滅ぼした上杉・前田・真田が北の地を治めているから。
八王子以北に住む人は十分気を付けてください。
おわりに
以上、八王子城の歴史と数々の伝説をご紹介しました。目下の所心霊スポットとして知れ渡ってしまったものの、実際の八王子城址は整備が行き届き、地元の子供たちの遠足の行き先として親しまれています。皆さんもぜひ一度ご覧になってはいかがでしょうか?
【主な参考文献】
- 前川実『八王子城今昔物語絵図』
- 椚國男『戦国の終わりを告げた城: 八王子城を探る』
- 中田正光『戦国の城は民衆の危機を救った: 関東王国の平和を求めた八王子城主北条氏照』
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